第26話 決着

 すうっと神楽の姿が消え、明莉の顔にも驚きが浮かぶ。さらに突如として、明莉がナイフで何かを受ける。明莉の動き、キンッという金属音から神楽のナイフが振るわれたのだと想像する。


 左右から。明莉は神楽のナイフを受けるが、打ち合いながらもじりじりと押されて後退してゆくのがわかる。相手の姿、さらにはナイフさえも見えないのを受けているのは驚異的……なんだけど、でも最後にはキンッと神楽のナイフが明莉のナイフを弾いた。


 明莉の手からアーミーナイフが跳んで、離れた場所に落ちてカンカンと床に転がる。明莉がしまったという顔を見せ、神楽がパッと明莉の前に現れてその腹にハイキック。明莉は大きく弾き飛ばされ、床に転がった。


 神楽がゆらりとその明莉に近づいてゆく。明莉はなんとか立ち上がろうとしたが、神楽がその明莉の喉元にナイフを突き付ける方が早かった。


「ナイトメアといえど、首を落としてしまえば死は免れない」


 ぐぅと明莉がうめくが、ナイフの切っ先は喉に触れている。


「すみませんでした。祝福されないナイトメアの私が、祝福された貴方に歯向かい申し訳ありませんでした、と懇願しろ」


 明莉は歯を食いしばりながら神楽をにらみつけるが、ナイフを首に突き付けられていてはどうしようもない。あばらの骨の幾本か折れているだろう。


「どうする?」

「ふっ」


 明莉が、神楽を嘲笑した。


「殺せばいいわ。どのみち、政府の部隊が突入してきて捕まり処刑される命だもの。早いか遅いかの違いだけ」

「そうか。だが……」


 神楽が不敵に笑った。


「生物とは弱いものだ。苦痛には耐えられないようにできている。その目玉の一つを潰しながらくりぬけば、苦痛に泣き叫んで俺にやめてくださいと乞うことになるのを経験で知っているのでね」


 見ているうちに、神楽が明莉の目にナイフを突き付ける。


「ご自由に」


 明莉が目をつむり、神楽のナイフの先が明莉の眼窩に触れる。僕はもうとても見ていられなくて顔を背けて耳を覆ったけど、でも、でも……。このままじゃ……だめだ! と、僕は胸中で声を上げる。


 このままだと、明莉が……。明莉が酷い事をされて……殺されてしまう。僕は一介の高校生で、ナイトメアの明莉ですら勝てなかった神楽に太刀打ちできるかといえばそんな力はなくて。明莉が追い詰められるまでただ見ていることしか出来なくて、でもっ!


 僕は震えている身体に力を込めて目を開いた。遠くに転がっている明莉のナイフを見て、駆け出す。そこまで行って拾い上げてから、声を出す。


「やめろっ!」


 ぜーぜーと荒い息をしながら、恐怖と戦い勇気を振り絞って、神楽にナイフを向ける。明莉を嬲ろうとしていた神楽の動きが止まり、こちらを振り返る。


「なんのつもりだ」


 嘲笑する顔で僕にそう言った。僕は構わずに、一歩一歩震える脚でなんとか神楽に近づいてゆく。身体が重い。固まりそうになる。でも、近づかなくちゃどうにもならない。


「優也……」


 明莉が僕を見て驚いており、神楽はその明莉から離れて僕に近づいてくる。


「明莉の、出来損ないの男……か?」

「ダメッ、優也っ!」


 明莉が叫んだ。


「人間の中にも、お前のような祝福されない者もいる」

「優也っ! 逃げてっ!」


 神楽と、その後ろで倒れている明莉が交互に声を出す。


 僕は、神楽にナイフの切っ先を向ける。勝たなくては明莉を救う事はできない。でも勝てるとは思っていない。なら意味がないじゃないかと思うかもしれないが、無抵抗で明莉が嬲り殺されるのを見ているだけなのは……自分が殺されるより辛いことだったのだ。


 何もしなかったなら、この事件を生きのびたとしても、きっと後悔する。たぶん老いて死ぬまで僕の心を蝕み続けるだろう。だから今、勝算は何もなくてその想いだけで神楽に立ち向かっていた。


「お前が俺を殺すことは絶対にできない。だとしても、お前は俺を殺すという覚悟はできているのか?」

「…………」


 即答は出来なかった。確かに殺せるとは思っていない。傷つけることもできないだろう。でもそうする覚悟が、人を傷つけ殺すという覚悟があるのかと、神楽が問いかけてくる。


「お前が俺にナイフを向けるというのは、そういうことだ。ただの平凡な高校生の日常から外れて、ナイトメアの明莉と同じ闇の中に足を踏み入れることになる。その覚悟があるかということだ」

「…………」


 自分の心に問いかける。


 僕は、明莉と一緒に生きたいと望んだ。


 僕は、明莉の味方をすると決めた。


 それは異界のナイトメアと共に、このセカイの裏側で生きるという事だ。


 自分や明莉を護るためにやむを得ず人を傷つけなくてはならないこともあるだろう。そうしなければ明莉を護れないとしたら……


 そこまで考えて、僕は神楽に向けてナイフを持っている手を伸ばした。


「殺したくない。傷つけたくもない。でも、明莉が酷いことをされるのなら、僕は殺すことを選ぶ。それをできるとしてもできないとしても」

「そうか……」


 神楽が、了解したという調子でふふっと笑った。


「だが意味がない。その覚悟にたどり着いたまではよいが、護る対象がナイトメアだというのでは価値がない。結局、お前はいてもいなくてもどうでもよい存在だということだ」


 神楽が言ったのち、僕に向けて一歩足を踏み出した……という場面で……


「すみません」


 小さな消え入るような声が聞こえて、僕はその声に視線を合わせる。


「すみ……ません。屈服します。何でもします。だから……優也は……殺さないでください」


 明莉の震え声。明莉の顔は苦汁に歪んでいて、目には涙が溜まっている。全身は小刻みに震えていた。


 僕に近づこうとしていた神楽の動きが止まった。神楽が振り返る。明莉は、ひざまずいた。


「このセカイに祝福されない……ナイトメアの私を処分してください。普通の人間の優也は……助けてください。お願いします」


 明莉が首を垂れる。神楽は、その明莉を黙って見つめて……


「なんだ……それは……」


 一言、つぶやいた。のち、血相が変わっているという口調で明莉に叩きつけた。


「なぜゴミを庇う! 俺の力の前にはひれ伏さないで抵抗したお前が、なぜゴミを救うためだけに俺にひれ伏す!」


 明莉は顔を上げず、神楽にひれ伏して乞う。


「優也を……助けてください」

「なぜっ、この段階になって信念を曲げるっ! 自分の信念と共に殺されるのが本望ではなかったのかっ!」


 神楽は、感情が爆発したかのように激高して明莉に叫んだ。


「お願いします、神楽様」

「なぜだっ!」


 その神楽の咆哮に、明莉は顔を上げた。


「なぜか……は、私にもわからない。今この段階でも……戸惑ってる。でも……優也が殺されるのは……何があってもいやだと思った。自分の中に沸き起こった感情を、押しつぶし切れなかった」


 言った明莉の顔に迷いは見られない。


「優也を助けてください。何でもします。土下座して足をなめろと言われれば舐めます。自決しろと言われればします。だから……お願い……」

「やめろっ!」


 目の前の明莉の姿に、呆然と立ち尽くすだけの僕の前で、神楽は頭を抱えて苦しみに悶え狂う。


「ゴミが俺より上だというのは……やめろっ! お前は今まで多くのゴミを歯牙にもかけずに殺してきたはずだっ!」

「そう……ね。私は大勢を殺してきた。その事実に変わりはない。でもなぜか……その私が今は優也に生きていて欲しいと願ってる。自分でも……自分の気持ちがわからない」

「俺の力を認めろっ! 俺を祝福しろっ! ゴミは見捨てろっ! 否定しろっ! 無視しろっ!」

「私は優也を無視はできない。できないってわかったの」 


 明莉が自分の心を探りながら言葉を選ぶという様子で続ける。


「小さい時に出会って一緒に過ごしてきて、自分にとって大きな存在にまで育っていたんだって、追い詰められて初めてわかったの」


 明莉と目が合う。明莉が僕に微笑みかけてきた。


「私は、選択肢がなかったとはいえ大勢を殺してきた。それを否定するつもりはない。私の手は血で汚れていて、私の心はどす黒く濁っている。そしてそんな私を含めてこのセカイの形がいびつだという信念にも変わりはない。だけど、でも……」


 明莉が、優しい笑みと同時に語りかけてくる。


「それ以上に優也だけには生きて欲しいと思った。自分ではどうしようもなく、そう思ったの」

「明莉……」


 僕は、明莉を見つめる。


「優也。私をどうしようもなく愚かで哀れにさせる人。溢れてくる自分の感情を押さえられないの。どうしようもないの」

「うん。僕も自分がどうなっても明莉だけは助けたいと思っている」


 二人で視線を交わして微笑み合う。


 僕らの命は風前の灯火というか、多分もう殺されるんだけど、でも不思議と甘く優しくあたたかな気持ちに包まれる。と――


「やめろっ! ゴミどもがっ!」


 神楽の怒声が、響いた。


「こいつがっ!」


 神楽が、バッと僕に向き直った。


「俺の存在をお前に無視させる、元凶かっ!」


 神楽が、僕に向けて跳んだ。瞬きする暇もない瞬足で、僕の懐に入り込む。


「え?」


 僕はその神楽を避けるどころか、動くこともできずに――


「優也ッ!」


 明莉の叫び声が聞こえ、視界に火花が散ると同時に胸に痛み……というか衝撃が走り……。僕の意識は、電球のフィラメントが切れた様に、途切れた。

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