学園制圧

月白由紀人

第1話 前日

「おはようございます」


 流れる様に美麗な声が、僕、高月優也たかつきゆうやの耳に届いた。その音が、真新しい風の様に、授業前の喧騒を洗い流してくれる。いつも落ち着いていて穏やかな少女、山名明莉やまなあかりが二年二組に入ってきたのだ。


「おはよう」


 僕と挨拶を交わして隣の席に座る明莉。艶やかなロングストレートの黒髪がすごく似合ってる、誰にでも物腰柔らかなクラスの憧れ的女の子だ。ちなみに小学校の頃からの幼馴染で、高校生になった今でもずっとずっと好きなんだけど、小心者の僕は未だに告白できてない。


 その明莉の席に、女子が一人やってきた。


「山名さん、あの……」

「なに、田中さん?」


 明莉が、なんですか? というマイルドな口調で応対する。


「ええと……あの……ごめんなさい! 今日の数学の宿題みせて!」


 田中さんが、えいやっと思い切ったという様子。


「またですか、田中さん」


 しかる口調ではなく、あきれたという口調でもなく、特に負の感情はないという声音で明莉は表情を和らげる。


「いや。あはは……」


 後ろ頭を掻いている田中さんに、明莉が「はい」とタブレットを渡す。


「気にしないで。私も忘れたときはお願いしますから」

「それはそうなんだけど。山名さんは宿題とか忘れたことなくて、頼むの十回越えてるから悪いなーなんて……」

「なら、今度コーヒーでもおごってください。厚生棟の自販機でいいので」

「うん。それなら。こっちも気が楽になるし」


 ありがと、すぐ返すから、と田中さんがタブレットを持って去ってゆき、明莉が今度は席を立ちあがる。それから檀上にまで行って、黒板をクリーナーで吹き始める。しばらくすると、日直の男子が遅れてクラスにやってきた。


「ごめん。山名さん」

「いえ。そろそろ先生が来る頃だったので。勝手にしたことなので、気にしないでください」

「いや、助かりました。黒板、もう綺麗ですね」

「ええ。でも、タイミング的にお仕事を奪ってしまったかも」


 美麗な笑顔を向ける明莉に、男子が照れている。


「おい、佐藤。山名さんは誰にでも優しいだけで、お前のことはなんとも思ってないんだから勘違いするなよ」

「昨日掃除手伝ってもらった俺は?」

「お前は論外。山名さん、誰にでも優しすぎて女神」


 席から口々に声が上がり、教室が盛り上がる。そんなクラス前方の扉がガラリと開き、担任の泉田先生が入ってきた。四十がらみの中年教師で、優しく生徒想いだと評判だ。


「お。悪いな、二人とも。それほどきちんとはやらなくていいぞ」

「先生、テキトー過ぎじゃん、それは」

「他の教師に怒られますよ」


 さらに教室がドッと沸く。


「センセー。宿題忘れました。ごめんなさい」

「それは……。それほどきちんとやらなくていいぞ、とは言えんなー」

「昨日、ナイトメアに襲われそうになって、逃げるの大変だったんです」

「ナイトメア? ネットなんかで噂になってる怪異というやつか? 確かに面白半分に取り上げた記事なんかも目にするが……。さすがに襲われたは言い訳としては無理なんじゃないのか?」

「でも、最近ナイトメアの話題ってバズってて。実際、東京では未解決事件も増えてきてるって話で、現場の画像を上げて熱く語ってる人とかもいて……」

「この港南市じゃあ、無理な話だなぁ」


 先生は、当たり前だけど、言い訳をしてる生徒を軽く流す。


「その程度の陰謀論とかUMAレベルの噂話じゃあな。まあ、次からは現実から逃げないで、宿題をきちんとやってくれたまえよ、生徒一号君」


 その先生の語調に、ワハハっと生徒たちから再び哄笑が上がる。いつもの風景。いつものクラス。昨日も一昨日もこんな感じだった。代り映えはないけど、平穏で平凡で楽しい毎日。僕もみんなと一緒に笑い声を上げ、隣の席に明莉が戻ってくる。


「ごめんなさい。留守にしてしまって」

「え? なんで明莉が謝るの?」

「いえ。申し訳ないかな、と」

「申し訳ないことないと思うけど」

「それはそうね」


 明莉が、ふふっと微笑を漏らして、ホームルームが始まる。いつもの、いつもどおりの、教室の朝だった。



 ◇◇◇◇◇◇



 そして、これもお決まり通りに一日が過ぎ、午後の授業が終わった。僕は、隣に座っている明莉を見る。本やノートやタブレットをバッグに入れ、机上をかたづけてからこちらに目を向けてくる。


「じゃあ、帰りましょう」


 明莉は、いつものように僕をうながす。なぜって、僕は小さい頃からの幼馴染で、明莉との下校は日課になっているから。


 さすがに付かず離れずの姉弟の様に過ごしてきたわけじゃないけど、一緒に遊んで一緒にごはんを食べて、仲の良い友達として育ってきた。


 僕は目立たないただの平凡な男子生徒になってしまったけど、明莉はそんな陽キャでもイケメンでもないモブの男子を下に見ることもなく、一個人として尊重して接してくれる。僕は、好きだという気持ちを心の中に抱えて、いつものように明莉に答える。


「うん。帰ろう」


 二人で一緒に立ち上がり、教室後方の扉を出ようとしたところで、端にいた織田君たちに話しかけられた。


「よう、明莉。今日こそいい返事、聞かせてくれる?」


 織田君は、親し気に続けてくる。


「俺からコクるなんて、めったにないんだぜ」


 クラスでも一人だけ目立っている陽キャの織田君。陰キャの僕とは違うんだなって思うけど、さすがに言葉と態度が乱暴というか、馴れ馴れし過ぎるとも感じてしまう。


「俺のカノジョになれるんだから、素直に喜べって。そんなショボい男連れてたら、恥ずかしいだろ?」


 周囲の織田君の取り巻き男子がけらけらと笑った。みんな仲良くアットホームなクラスなんだけど、織田君とこの数人は浮いていて、まあそんな人たちも中にはいるよね、という話しなんだけど。


「織田君、三組の紗英とまだ別れてないじゃん」

「あー。あいつ、たいしたカラダしてねーくせに一度ハメただけで束縛きつくってさ。そのうち捨てるから。俺はお前専用じゃねっての」

「わかるわ。オンナってワガママだよな」


 再び男子たちが下品な哄笑を上げる。その場面で、女子が一人近づいてきた。


「織田君。卑猥な言動、やめて頂戴。この学園、真面目な交際は認められてるけど、不純な交遊は高校生としてNGよ」


 この女子生徒はクラス委員長の月島さん。綺麗に肩で切りそろえられたセミロングが几帳面な性格を表している、正義感溢れる委員長。ちょっときつい感じの目鼻立ちなんだけど、美人さんには違いない。


「織田君、色々悪い噂が流れてるわ。鵜呑みにはしないけど、度が過ぎる様だったら生徒会指導室へご同行願うから」


 うぜぇと舌打ちをした織田君をにらみながら、月島さんは明莉を向く。


「山名さんも。みんなに丁寧なのはいいけれど、嫌なことは嫌だってはっきり言うべき。相手をつけあがらせるだけだから」


 月島さんのセリフは、織田君の癇に障ったようだ。


「うっせーよっ! 委員長だかなんだか知らないが、硬すぎんだろっ!」

「生徒会にあなたの被害にあったという女子からの相談もきてるのよ。看過できないわ」

「ざけんなっ! オカされたくなかったら黙ってろ!」

「正気でそのセリフを言ってるの!? こちらも真剣にとらえるけど、いい?」

「くそうぜぇ」


「織田君」


 今まで黙って見ているだけだった明莉が割って入った。


「ごめんなさい。申し出は嬉しいんだけど……。明日、返事するから」

「ほらよっ! 明莉はオッケーだってよっ! 俺らが好きで付き合うの、邪魔すんじゃねーよっ! どっかいけよっ!」


 織田君が、しっしっと月島さんを払いのける手ぶりをし、明莉は月島さんの方に顔を向ける。


「月島さんも心配してくれてありがとう。織田君には私からきちんと返事するから。気を使わせてしまってごめんなさい」


 明莉はそう言って、にらみ合っている織田君と月島さんに丁寧に頭を下げてから、「行きましょう」と僕を連れてその場を後にするのだった。



 ◇◇◇◇◇◇



 それから僕と明莉は、一緒に昇降口で革靴に履き替えて校門を出た。丘上にある校舎からスロープを下って、野球場ほどもある港南中央公園に入る。舗装された遊歩道の左右は、萌える様な新緑の木々が鮮やかだ。


「ごめんなさい」


 隣の明莉が声をかけてきた。


「教室を出るときに嫌な思いをさせてしまって」


 明莉が指摘したのは、織田君たちの事だろう。僕のダメージを気遣ってくれる抑揚で、傷口が癒えてゆくって思える。僕は、隣を歩いている明莉に慌てて返す。


「いや、それはぜんぜんどっちも大丈夫だから気にしないで。それより……」

「ええ。それより?」


 明莉が落ち着いた顔で先をうながしてきたので、僕は続けた。


「僕は強い人……織田君みたいな人に言われるのは慣れてるからいいんだけど、明莉がすごく嫌な思いをしてるんじゃないかってそれが心配なんだけど……」

「ありがとう。気遣ってくれて」


 静かな表情を崩さない明莉に、僕は尋ねる。


「織田君に明日返事するって言ってたよね」

「そうね」

「織田君と……その……」

「その?」

「つ、つきあう、の?」


 言葉に出してから、聞いてしまった……と思った。以前から、明莉が織田君に執拗に迫られているのは、クラスのみんなが知っている。正直、織田君のゴリ押しだ。織田君は、他のクラスにも彼女っぽい子がいて、あまりいい噂は聞かない。


 気持ちがひりひりする。心が汗をかいていて、ぎゅうと絞られる。付き合うのはやめた方がいい、そう言いたい気持ちに揺さぶられる。喉の先まで出かかっている。


 でも、それは僕のエゴだと思う。明莉とは幼馴染とはいえ、僕の彼女じゃない。だから、余計なお世話、お節介だという気持ちがはっきりとある。


 実は僕は明莉のことが好きなんだ……と行ってしまおうか、という気持ちも少しだけ芽生えた。でも断られたら、優也君とはいいお友達でいたいわ、と明莉の声音で言われたらと思うと、いつもの通り踏ん切りはつかない。


 と、明莉が遠くの空を見つめるような目で、不意に答えてきた。


「織田君には……返事をしなくてもいいかしら」

「え?」


 僕は、明莉のセリフがわからなかった。


「明日になったら、もう返事をする必要もなくなってしまうから」

「そ、それは、どういう……」


 明莉はその僕の質問には答えないで、ぜんぜん全く関係ないことを言ってきた。


「優也。ヘンな事聞くけど……。いい?」

「え? いや、それはいいけど……」

「このセカイ。どう思う?」

「ええと。このセカイ……?」

「そう。私たちが暮らしているこのセカイ。このセカイのカタチってどう思う。美しい? 楽しい? 綺麗? 居心地よい?」


 その質問に、僕はなんとなく公園を眺めた。芽生えたばかりの新緑の葉が目にも鮮やかだ。景色のシャワーに洗い流されている様な心地よさを感じる。鼻からは、植物の旺盛な香りが肺にまで入ってきて、うだつの上がらない僕の心の汚泥を洗い流してくれるようだ。


 明莉を見る。顔はマイルドなんだけど、その目はまっすぐ。よくわからない言葉、質問。でもその瞳だけは笑ってなくて、冗談とか軽い気持ちで聞いているんじゃないって、僕にはわかる。だから……。


「そうだね」


 僕は言葉を選びながら答えた。


「いろんなことがあって、例えば最近噂の怪異事件とかの噂を聞くと嫌な感じはするけれど、やっぱり平和な街に住んで楽しい学園に通えて、いいセカイなんじゃないかって僕は思うよ」


 答えると、僕らの間に沈黙が落ちた。その空白の後、「そう」と明莉が残念だというか、もっと言うと私は違うという調子で返してきた。


「私はそう思わない」


 言った明莉の顔は先ほどまでの穏やかさを消していて、すごく真面目で真剣で、もっと言うと何か強い気持ちを持っている、そんな鋭さすら感じさえるような顔をしていて……。こんな表情もするんだって驚いた僕は、明莉の顔から眼を離せない。その明莉は、真っ直ぐ前方の何かを見る目線で言い放つ。


「不条理と不公平と差別と侮蔑。汚くて嘘に塗れていて、みんな自分の利益しか考えていない」

「ええと……」


 荒ぶっているわけではない。情緒としては落ち着いている。でも僕はその明莉の、今までに見た事のない激しさに、何と答えていいのかわからない。どう反応してよいのかわからない。


「なにもかも……めちゃくちゃにしたいと、思わない?」


 明莉が、僕の瞳をじっと凝視してきた。その奥の奥まで見通そうかというように。


 普段の明莉からは想像もつかないような言葉に、僕はただただ驚いていて、明莉の言ったことなんて考えたこともなくて。すると――


「なんて、ね」


 明莉が相貌を崩して、その顔を柔らかなものに戻す。


「え?」

「冗談……よ」

「え、え?」

「冗談。ちょっと、優也をからかってみただけ。本気にしないで」

「なん……だ! 冗談か! 酷いよ! 驚いた!」


 僕は、実は心臓がバクバクして、命が縮まりそうになっているくらいに感じていたから、胸をなでおろす。そのまま二人、国道沿いを進み、港南ニュータウンの住宅地区に入っていつもの三叉路にまでたどり着く。


「じゃあ。また明日」


 明莉の住んでいるアパートは、ここを抜けてちょっと遠い。明莉が、振り返りながらいつもと同じように手を振ってくれる。なんの変わりも全然なく、また同じ明日がやってきていつもの毎日が続いてゆくんだなと、このときは疑う事すら全くなかった。

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