Episode3 イピトAIは解説し、サモエド犬は微笑んだ

 ココアが催促するようにスマートフォンに頭を擦り付けてきた。初めて訪れた場所ではなさそうだ。とても頭が良いと思う。

 ENABMDイネーブミッドとスマートフォンを装着させたら、まるで後をついて来いとばかりに振り返り先を歩く。今はノアールがココアを操っているのだろう。それが妙に納得できる動きだった。

 鉄の門から入り雑草だらけの細い道を進む。以前は裏口だったのだろう、従業員用のドアへと続いていた。ココアはその場所でお座りする。

 建物に似つかわしくない近未来的な監視カメラが伸びてきた。そのままココアを全身スキャンし、次に陽翔はるとをスキャンする。


「……登録終了。お進みください……」


 機械音声が流れ、ドアロックが外れた。

 中に入ると、光沢のあるフロアタイルの廊下が、円形のプラネタリウムスタジオを囲むようにぐるりと続いている。


 左にはかつての受付と自動ドア。右側は半地下のスタジオの扉まで続くスロープ。目の前には黒い鉄骨の螺旋階段らせんかいだんがあった。螺旋階段らせんかいだんは関係者専用であるらしく、蓋のような扉に『立ち入り禁止』の看板が付いている。ココアに促され階段を登り映写室を開けた。

 手探りで灯りを付ける。

 正面に大きなガラス窓があり、陽翔はるととココアの姿が映っていた。

 手前の部屋には机と応接セットが配置され、奥にも部屋がある。

 奥の部屋を覗くと、サーバーラックに積み上げられ、圧倒されるような数のパソコンがずらりと並んでいた。発生する熱を冷ますため、寒いくらいの温度で空調が設定されている。

 真新しく黒光りしているサーバーが、電源を入れてもらうのを今か今かと待ち構えているようだった。


「わん」


 ココアのほうに振り返ると、ローテーブルの上のリングファイルに向かってもう一度吠えた。

 表紙に書かれている名称を陽翔はるとは読み上げる。


「UbfOS導入マニュアル?」


 1ページ目を開くと、『無制限型脳波融合制御システム(Unlimited Brainwave Fusion Operating System)、(以降より、略称UbfOSと記す)の導入に当たり、手順と設定を示す』と、書き出された文章が何ページにもわたり続いていた。


 ココアのつぶらな瞳が催促するようにキラキラと光る。この手順通り設定しろという事かと陽翔はるとは受け取った。ココアだって真の飼い主に逢いたいのだろう。見たところ、全ての機器の搬入と接続は終了しているようだった。後は、手順に従い各部の電源を入れて、多少の設定と最後のメイン電源を入れればいい。マニュアルを片手に配線のチェックをしながら、設定を行う。全てが整えられていて難しいものは無かった。マニュアルの終盤である、最終チェック一覧まで無事に進んだ。


 いよいよメイン電源を投入する。特大のレバースイッチをオフからオンにスライドさせた。

 サーバーの動作音が発生し、ドーム側の窓に星が瞬くのが見える。下を覗くと、不思議な形をしたプラネタリウムの映写機が回転しながら星を映し出していた。


 その後、次々とライトが点灯し、プラネタリウムドーム内が明るくなる。

 壁沿いに複数置かれたホログラム投影機が点滅するように七色に光り、陽炎のように立体を作り出した。星の瞬く空間に、ひとりの少年。

 黒髪に黒い瞳、上下黒のシンプルな服装。東洋人に見えた。歳は陽翔はるとと同じくらい。なんとなく面差しが自分と似ていた。

 陽翔はるとの方向を見上げその少年は口を動かす。


 ――― こっちに来て ―――


 陽翔はるとはドームに繋がる階段を降り、前のめりになりながら、畳み込むようにドームの扉を開けた。目の前の少年は、やっと会えたと微笑む。


「ノワール?」

「そう、みんなはノアと呼ぶ。陽翔はるともそう呼んでほしい」

「ノア? うん」


 ココアも、しっぽをちぎれるばかりに振り、ノアの足元に座る。


「さぁ、オレの住処に案内しよう!」


 ノアの言葉と同時に、水が足元にせり上がってきた。


「オレとブランカは、星の美しい南の島に住んでいた。陽翔はるとも招待するよ」


 あっという間に、星空になり、白い砂浜と海が広がる風景に変わった。

 波が白くはじける。

 あっという間にAR空間であるこのドーム内が楽園のような南国風景に変わり、暖かい海風が頬をなでた。

 透きとおった海には、色とりどりの魚が泳ぎ、穏やかな波が白く泡立つ。

 ノアが指を指した先に、アーリーアメリカンスタイルの平屋が見えた。サルビアブルーの外観で、白い屋根付きのウッドデッキがある。

 ノアが「我が家にようこそ」と言うと、一瞬のうちに家の中に移動した。


「ねぇ、ノア? ブランカさんだっけ? 一緒に住んでいないの?」

「ブランカは不在だ。シアンに捕まり凍結されてしまった」

「ノアもみつかったら凍結されちゃうの?」

「ああ、そうだ。この感覚共有システムは、訓練されていない人間をスパイや暗殺者に仕立てるために開発された。AIの指示で動く操り人形がつくれるからな。シアンはこの反社会的な研究を凍結しようとしている。そのため、追跡プログラムに追われている。だから陽翔はるとの力を借りたい。君の立場を取り戻すのを手伝う代わりに、ブランカを救出してほしい。オレもブランカもここで、陽翔はるとと一緒に、静かに生きていたいと望んでいる。そして、それが蒼井夫妻の意思でもあるんだ」


 協力するしかない。両親の行方を聞きたいし、陽翔はるともいつまでも学校を休むのは気が引ける。それに、シアンは戦争を引き起こすように動いている訳ではない。焦る必要も無いとは思うが、正直じっとしているのも辛い。


「僕はシアンの事を知りたい。まずは、目的を探らなくてはならないよね?」

「ああ、サーバーの物理的な位置はわからないが、ハッキングはできると思う。追跡を交わしながらになるから、時間はかかるかもしれない。今日はもう遅いから明日から行動を開始しよう。この上の階の倉庫と休憩室を改装して陽翔はるとが住めるように手配しておいた。金庫に通帳があるからそれを経費として使ってほしい。人間の住処はホログラムでは作れないから、必要なものは陽翔はるとが揃えてくれ。オレはいつでもここに居る」

「ねぇ、ノア? 一つだけ質問してもいい? イピトAIって、人間になりたいって考えることはあるの?」


 ノアはしばらく考える仕草をしていた。考えるだけで膨大な情報を処理できる。出した結論はこうだった。


「AIは人間になりたいとは思わない。データで造られた世界は制限が無く自由に生きられる。人間の欲は肉体があってこそ発生する。生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求も人間社会に肉体があるからこそ生まれるものだ。オレ達はそれを別次元のものとして捉えている。一つも建設的な欲求と考えることはできない。わざわざ狭く窮屈な中で自己を確立させ、欲求を満たすという高度なミッションを行う人間はすばらしいとさえ思う」


 陽翔はるとも同意見だった。人間同士の絆がAIに必要だとは思えない。お金だって稼げるし、社会的な立場だってこうも簡単に作れるのなら、社会生活なんて煩わしいだけだろう。


「じゃあ、シアンも人間が羨ましくて僕になった訳ではないよね」

「多分、他に目的があると思う」

「うん、分かった。今日はもう寝るね」


 人間が活動する社会のルールは複雑だ。法律のように明文化されているものから、暗黙の了解、誰かが主導権を握り、ローカル的にルールになることもある。

 現状において、陽翔はるとも進路について悩んでいた。このまま研究者になって自分に何ができるのだろう? そもそも研究者になんてなれないのではないだろうか? それなら、楽に過ごせるような大学を選んで無難な仕事に就いたほうがいいのではないだろうか? 今の陽翔はるとには苦労して勉学に励んでその先に何があるのかとても見えなかった。

 それに実は、父が自分の目標だと言える親友の樹希をうらやましく感じるときもある。自分はロボット工学には向いていない。樹希のように才能があるわけではない。

 この状況は良く考えると大変なことだが、立ち止まる時間が与えられた。これからの事を自分なりに考えてみたい。


 コロシアムのような座席の中央には大きな映写機があり、その左右に階段があった。陽翔はるとは『倉庫』と書かれたドアのある階段を登った。ドアを開けると、プラネタリウム・スタジオを囲むように緩やかな坂の廊下があり、それを道なりに進む。

 二階にはいくつかのドアがあった。一番近いドアを空けると、布団が整えられたベッドが置いてある。そこ以外の部屋には家具がほとんど無かった。

 陽翔はるとのために用意されたと思われる部屋に入ると、まずは正面の机が目に入る。スマートフォンと部屋の鍵、それと、ヘッドフォン型のENABMDイネーブミッドが置かれていた。

 普通の家にはないような、存在感のある大きな金庫が備え付けられている。近づくと、全身スキャンされ、その後で扉が開いた。鍵は生体認証のようだ。中には通帳が一通と建物の権利書の類が入っていて、通帳には理解できないくらいの桁の金額が記載されていた。

 部屋の奥の扉は、真新しいダイニングキッチンにつながっている。東側の陽翔はるとの部屋の他に、西と北に個室があり、キッチン、ダイニング、リビングは共用スペースになっていた。システムバス・トイレは各部屋にあり、おおよそ生活するのに必要な設備は整っている。

 非常に快適な設計だ。膨大な情報を持つAIなら部屋の間取りの設計など簡単なのだろう。こんなになんでも揃えられるなら、AIが人間になりたいなんて絶対考えないと思う。やってられないなと思いながらベッドにゴロンと横になった。何の変哲もない天井を眺めていたら少し落ち着いきた。

 今日の夕方からのことは本当に現実なのだろうか。全部夢かもしれない。しばらく瞳を閉じていると、ココアが扉を開けて中に入って来た。扉にはココア用のドックドアが付いている。こちらも生体認証のようだ。


 陽翔はるとの不安そうな顔を見て、ココアも心配そうに首をかしげた。


「君はノア? それともココア?」


 ココアはベッドにヒョイっと飛び乗ってから、ENABMDイネーブミッドを振り払うように落とす。

 ココアは陽翔はるとにピタリと体を寄せて寝転んだ。シャンプーしたての毛はフカフカでいい匂いがする。陽翔はるとが腕を差し出せば、ココアはそっと頭を乗せた。

 ぽかぽか、ふわふわで何も考えられない。一気に眠気が襲ってきた。今日は疲れた、もう寝よう、ストンと落ちるように眠りが訪れた。

 


 ---続く---

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