エピローグ
朝、目覚めた時、自分が昨日の自分と果たして同一の存在であるのか。
あるいは、そんな疑問を抱かずに、なぜ恋々と過去と繋がりを持って過ごせているのか、ということに、あの日以来、気持ち悪さを覚えるようになっていた。誰しもが一度は考えるような、あるいは考えた風の
自分というものが、何か、つるつると滑る氷の上にあって、転んだり、立ち上がったりしながら、一向にその薄氷で隠された、真に捉えるべき地に足が届かず、ばたばたと踊り狂うような滑稽の自分に、言い様の無い焦りを覚える。
俺は、誰だ?
何を為すべきか?
何をしたいのか。
『エチカ・ミーニア少尉。やっぱりあなたは物語の外にいるのね』
その言葉が、彼女の炎のほの暖かを伴って消えてくれない。
誰かを、心の底から憎んでいる人が、愛している人が、信じている人が羨ましい。
その反作用による立脚が、自分にはない。
所詮はそういった演技が、いずれ慣れて自分の本義となるようなものがない。
あるいはそれを得たとして、果たして俺は満足するのだろうか。
それもまた、ある種の虚像の己でしかないと、また苦しむのだろうか。
そうであるならば、人生とは、この命は、、、、、、。
「主。お客さんが来ました。起きてください」
エンテラールの声が、目覚めを促す。
本当はもうとっくに起きていたが、
「面会可能時間まで待てと、そう伝えてくれ、寝むい」
「主。子どもらしいのは大変良い事ですが、緊急のようです」
エンテラールの言う様に、確かに何かが燃えるような匂いが先ほどからする。
それから、エチカの寝室があるコテージの隣、南棟の方から、
「エチカ少佐にだけは言わないで欲しいだべっ!!!殺される、絶対に殺されるだっ!あの目を見ただか?仲間が誘拐にあったっていうのに、平気な顔してるの見ただべ!!ありゃぁ普通じゃないだよ、真心と思いやりを糞と一緒に便所に流してしまった奴の目だべ!!」
そんな声がくぐもってはいるが、ほとんど明瞭に聞こえていた。
それに足先、寝室の扉の前からは、
「おぉい、少佐ぁ?寝てんのぉ?ニキ・サラムーン様が直々にお目覚めのキッスを施しに来たけどぉ?エンテいるんでしょ?開けてくんない?緊急緊急、マジ緊急」
少し枯れたような、独特の声がする。
まるで切迫感はなかったが、急ぎではあるらしい。
「サラムーン一等兵、用件を言え」
「起きてんなら開けろよぉ、まぁいいや。ラララちゃんが、モチャ・ファズ先輩の冗談を真に受けてさーぁ、コテージ燃やしちゃってんのよ」
「要領を得ないな、ちょっと待ってろ」
エチカはスーツに身を包んで、伊達眼鏡をかける。髪は刈り上げており、残した前髪はポマードで持ち上げる。
寝室の扉を解放すると、うわぁっと、ニキ・サラムーンがなだれ込んだ。段がついて動くたびふわふわとした栗色の髪が、目の前に広がる。
ニキは体制を立て直して、左目と右目、両方にあるなみだ黒子をせわしなく上下させながら、
「おはようぅ、でさ、なんか、焚火の上を裸足で走り続けたら、もっと足も転移も速くなるぞって、昨日の夜、モチャ先輩がラララちゃんに教えたみたいでさ、そしたらあの子ちょっとあれだから、地面に直で火を焚いたらしくて、芝生を通じてぼぉぉぉぉ、ってこと、分かった?」
「よく分かった」
「今、絶賛みずうみからバケツ汲み中」
ニキを連れて様子を見に行くと、昨日イサラ・ザクトーフ大尉が連れてきたジャージャルという犬までもがせっせとバケツを運んでいた。
早朝ということもあり、まだ多くの者が任務地に転移しておらず、ある者は寝間着のままでそこに集まっていた。
「本当、あれよ、あなたはあれね、あれよ」
一番大きな声を出していたのは、ユト・クーニア上級大尉だった。
いつもの釣り目をさらに怒らせて、地にペタリと座らされているラララ・エッグオールは必要以上に小さくなっていた。
「ごめんなさいだ。だからエチカ少佐には、、、、、、」
「分かってるわよ。あなたの向上心は認める。だから、もう、いいから立って手伝いなさい」
ユトは結局、叱責することができなかったのだろうか。ラララをよいしょと起こして自分もバケツを手に持ったところで、こちらに気づいた。瞬間、硬直してしまって、まるで持ちあげたバケツが重すぎて動けないとでもいうよう。先ほどラララと約束した手前上、なんて言ったものか思案しているのだろう。その間も厳めしい表情は崩さなかった。
そして、ぽつりと、
「、、、、、、、、、、、、これは、防火訓練よ、、、、、、」
「ユト先輩、そりゃ無理が過ぎるでしょうよ」
と、ニキ・サラムーンが肺を細い針で突いたように、ふっ、と息を漏らして言った。
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「あら、記者さん、今日もお相手はいないの?」
ローアが配膳用の大きなお盆で口元を隠しながら笑う。
昼は食堂、夜は居酒屋となる「
「この店はお一人様お断りになったのか?」
「すぐに拗ねる男は嫌」
ローアはエチカをテラス角、観葉植物で他の客からは少し距離がある席に案内した。そして手早く注文を取ったあと、不意にエチカの首元を手で擦った。
「何か、灰のようなものが付いていますよ?」
先日の件もあり、敏感になっていたエチカは飛びのくように身体を逸らして、危うく席から転げ落ちるところだった。
「ごめんなさいっ!そんなにお嫌だった?、、、、、、私、調子に乗って」
ローアはいつもの調子を外したように、捨て置かれる子犬のような悲し気な目でエチカから離れた。耳につけた柳の枝葉のように長く揺れるピアスが震えて、細かく陽を反射させる。
エチカは誤解を解こうと口を開きかけたところ、二人の間を他の客からは見えないように鋭く湾曲した剣が断ち切り、黒い影が姿を現していた。
「___その通りです。あなた、調子に乗りすぎてます」
寡婦の被るベールが揺らがないような、ほとんど息が含まれていない小さな声だった。
ローアはわずかに焦点の合わない目で、
「、、、、、、文字を書くのに、剣は必要なの?」
「寡婦というだけで、愚かな男が襲ってくることもありますから。護身用です。あなたの方はどうなんですか?」
「ワインのボトルを開けるのにナイフは必要でしょう?」
「私の上司が真昼間からワインを飲むとは思えませんが、それに良く研がれていますね」
「あなたも、護身用にしては酷く、残酷なもののように窺えますよ」
徐々に周囲の客が異変に気付いたようにざわつき始めたため、その寡婦は明るい声で、
「おすすめのサラダはあります?私、ダイエット中で」
「冗談はよしてくださいよお姉さん!そしたら私なんてどうなっちゃうの?」
「ほら、こうゆったりとした服だから分からないだけですよ」
「手首を見れば、だいたい分かりますよ、女同士ですから。サラダのドレッシングもこちらで決めても?」
「ええもちろん、お願いいたします」
そう言って二人は離れ、黒い服で体を包んだ女がエチカの前に座る。
「君は、あまりこういうことをする人間とは思わなかったが」
「ごめんなさい。どうしても気になって」
その女、ルラ・コースフェルト大尉は断頭でも待つように頭を垂れた。
「君のことだから、何か理由があるのだろう?」
「あの店員、昨日の夜、というよりも今日の早朝ですが、コテージの周りを徘徊していました」
「ああ、気にしてはいるようだったから、仕事終わりの散歩か何かで見に来たんだろう」
「それに先ほど、首元に触れるとき、ポケットの中でナイフを握っておりました」
「そうか、、、気が抜けていたな。彼女は俺のことに気づいている。もしかしたら同盟の人間かもしれん」
「なっ!それはクーニア上級大尉でなくても怒りますよ?どういうつもりですかっ!?」
「いや、飯が美味いんだ、普通に」
ルラ・コースフェルトは、上品な所作で袖をまくり、子どもでも叱るようにぺちぺちとエチカの頭を叩いた。
「私がお昼にみんなと作っているお昼ごはんよりもですか?そうなんですか?」
「だから、それは、ほら、難しいだろう」
「これじゃ、本当に、私がお邪魔虫みたいじゃないですか!」
ほとんど頭を撫でられているようなぐらいの叱責だったが、その手が不意に止まる。
「そうですよ、聖女さん。まるで料理に
ローアが野菜の上にあまりにも大きい固まりの肉が乗った料理を持ってきた。
エチカが頼んだのは魚料理だったから、必然、それはルラの分となる。
「、、、、、、聖女とは何のことでしょう。それに、私はサラダを頼んだはずですけど」
「サービスです。エチカ少佐は私のように健康的な身体が好きなようですから」
「なっ!私と少佐はそういう関係では、、、、!」
「ルラ・コースフェルト大尉、君、からかわれているだけだ」
エチカはこれ以上は、と思って小さな声で静止した。
大尉、と言われたことでルラも冷静さを取り戻したのか、すっと背もたれに背を付けず、身体を伸ばす。
「大方、吹っ掛けだろう。もし俺を襲おうとしたらどうなるか、見たかったんだろ?他の人間だったらほっとかれるだけだが、コースフェルト大尉だったのがまずかったな」
「うぅ、申し訳ございません」
「それに、俺のことはアイリスが常に見ているから、大丈夫と言ったはずだ」
そう言うと、ルラはベールの向こうでもはっきりと分かるぐらい、威圧感を高めた。アイリスという有名人の名前が出て、口を開きかけたローアすら押し黙るような圧倒的な存在感。
「___たった1度であっても、敗残を選んだ者に信用を置くべきではありません。湧き水に、一滴でも泥が混じれば、それはもう口にできない水です」
そうルラが言った途端、彼女の側頭部に細い針のようなものが突き刺さる。
ローアが悲鳴を上げるその直前、針は
「、、、、、、あなたたち、私の前でいろいろと見せすぎではないの?」
ローアが震えた口で至極真っ当なことを言う。
「大丈夫だ。君が何かをしようとしたら、次はあれが君の頭に刺さっている」
「串焼きにされるのは、ごめんですね」
「誰もがそうだ」
結局、ルラ・コースフェルトは、荒く息を吐きながらも、差し出された肉のプレートをなんとか綺麗に平らげた。
「、、、、、、確かに、美味しいです、、、、、、ふぅ、、、、、、」
「大丈夫か?」
「作って頂いたものを残す訳にはいかないっぷ、、、、ですからね」
「ぷ?」
ルラの顔のベールが一瞬、ふわりと浮いて、それからすでに隠れている顔をさらに手で隠そうとしていた。
「少し休憩してから戻ろうか」
エチカの提案に、ルラは沈黙で答えた。
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エチカ・ミーニア少佐と、バルディット・ジャルジャ中将は二人、向かい合いながら紅茶を啜る。
「ルラのお嬢は、戦場と台所以外では全く使えんな、まぁそれがかわいいところでもある」
「そういうことを言っているから、娘さんに嫌われるんですよ」
「そうだな、このままだと結婚式にも呼ばれないかもしれん。いや、そうじゃない。これ以上俺から家族奉仕の時間を奪われてはたまらん。一番危機的な戦況は常に家にあるんだよ、家に」
「はぁ、、、、、、私のせいで中将を巻き込んでいることは重々承知しております」
「もうそれは良い。帝国に仕えるということは、それこそ理不尽と結婚するようなものだからな、それで、この先どうする?くだらないことだが、俺らは上に忠誠を見せないといけない立場だからな」
ジャルジャ中将は、白髪交じりの短髪をがりがりと掻きながら続けた。
「今、それぞれ各地に派遣しているのは、正直ただの警備任務と変わらん。お前さんのことだ、何か考えがあるんだろう?」
「ええ、三つほど」
「言ってみろ。俺にさえ言っちまえば、もう責任はこっちだからな」
エチカは座ったまま一礼して、本題に入る。
「アイリスによれば、民主神聖同盟の目的は、第一観測者という存在の入れ替え、とのことです」
「ああ、そうだな。だが、現状言っている意味がさっぱり、高級料理店のメニューでも聞いているみたいだ。なぁ聞いてくれ、この間、娘の誕生日に、俺抜きで家内と二人、帝都迎賓ホテルのディナーを食べに行ったそうだ。俺の給料だぞ?」
「家のことから離れてください。あと、最後のは言わない方が恰好がつきます」
「忠告が遅いぞ、エチカ少佐。もう後の祭りだ」
ジャルジャ中将は自慢げに言うが、顔は今にも泣き崩れそうに見える。
エチカは咳払いをして、
「あとは、私の殺害がそこに絡む、と」
「そうだな」
「奴らを叩くには、最低限、少しでも戦力を増やしたい。それで、思い当たる節が1人います」
「スカウトってことか」
「ええ。あとは、ウーシアについて詳しい者が必要です」
「帝国の技術局や、大学のことか?いや、そうか、なるほどな。在野の人間でないと駄目なのか」
「はい。そうです。それも心当たりが」
「お前知り合い多いな!そんな社会的だったか?」
「無駄に入隊以降、任務を詰め込まれていましたから。それに中将に無理やり行かされた、帝国陸軍強襲特選部隊任用資格試験、1度合格したのに、3度も参加しました。あれでも友人が増えましたよ。あの時の恩は忘れていません。それにミーニア家は貴族ですから」
「無駄って言うなよ、俺の指示を。しかもどう見ても恩よりも恨みを買っている感じだな」
「、、、、、、すみません。そして最後ですが、、、、、、」
そこで、ジャルジャ中将は軽い口ぶりは変えずとも、口調が速くなった。
「言わずとも分かる。俺らは本来、外に目を向ける必要など全くない。天井を掃除すれば失くした物はすぐに見つかる、それだけの話だ。だが、それができずに庭先を探すしかない。そういうことだろう?最初あいつから聞いたときはびっくりしたぜ、なんでも、お前がミラリロのために無断転移したとか、それを俺が補助したとか。はい、そうですとしか言えなかったがな」
「本当に申し訳ないです、、、、、。ただ、天井の鼠もそうですが、同盟に先に動かれては牢獄の時と同じになりますから、敵の在処も併せて探ります」
「お前、ここの会話、間違いなく聞かれてるからな、鼠とか言うなよ、確かに白髪でちょっと似ているが」
「向こうだって、承知の内でしょう」
そこまで話して、中将との会議とも言えぬ確認作業は終わった。
中将の自分への信頼を感じ、余計な言葉や探り合いもなく、一足飛びに会話が飛ぶのは心地よかった。
「ふぅー。はい、仕事は終わりだ終わり。今日の夜もバーベキューらしいぞ、お前はどうする?」
中将は金メッキのライターで手早く煙草に火を点け、紫煙をくゆらして言う。
「いえ、遠慮しておきます」
「お前、管理職向いてねぇな。俺の指導不足か」
「中将も、煙草臭くて苦手だって、イミノル伍長が言ってましたよ」
「それは能力と関係ねぇだろうが!、、、、、、いや、もしかして、娘に嫌われてるのってそれが理由か?」
「娘さん、もう二十代でしょう?それだけで嫌ってる訳ないと思いますが、、、、、、むしろ、中将はお金遣いの方に問題があると。今日のバーベキュー代も、上乗せで中将が出しているんでしょう?」
「だってなぁ、みんな娘のように可愛いもんだから仕方ないじゃないか」
「娘の代わりですか」
「俺がそんな弱い精神の持ち主だとでも?」
「そうにしか見えませんが、、、」
中将は煙草を咥えながら器用に笑って、それから煙草の箱をエチカの方に向けるが、ゆっくりと首を振って断る。初めからそれが分かっていたように、中将は差し出した手を戻す。
と、コテージの扉がゆっくりと開く音がして、何者かが談話室の前で止まる。
「誰だ?」
と、エチカが問うと、談話室の戸がゆっくりと開き、その人物は顔をまともに見せることもなく、ばたりと前傾で倒れ込んだ。
「なっ!!!」
その身体からは血が流れ続け、すぐに床が血だまりとなった。
エチカが駆け寄る。
「おいっ!イミノル伍長、どうした、大丈夫か!」
エチカは身体を上に向け、すぐに止血を始める。
「エチカ少佐、、、、、申し訳、、、、、ございません。私は、、、私は、っ、、、、!!」
「大丈夫だ。君は強い」
「ちが、、、いま、、、す、弱い、、、、、、私は、、、、、ファズ中尉が、、、、、、私の、、、、、変わりに、、、、、、また、、、、、」
「よくここまで来た。クラン・イミノル、君は強い人だ。大丈夫」
「ありが、、、、と、、、、、、」
そこでイミノル伍長は気力の底が見え、意識を失った。顔が蒼白になり、セミロングの黒髪との対比が徐々に、塗られた赤い血が浮き上がるように見えた。
事態が進む。
エチカの自己に関する悩みなど、それこそこの物語とは無縁だと言う様に、何も待ってはくれない。
ユミトルド地下牢獄騒擾事件と各紙で名づけられたあの事件は、何かの始まりですらなく、エチカは予感する。
おそらく今、何かが動き出し始めた。
それは民主神聖同盟だけではなく、この世界の趨勢が、物語を紡ぐ強者たちの拍動が、エチカの脳裏の声を飲み込むように大きくなっていく。
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