作品7『沈黙の花』
安乃澤 真平
第1部(全5部)
◆その一◆
採点されるのを待つ解答用紙たちが、目の前の机の上に置かれてある。各クラス分が互い違いに重ねられてあって、次は自分だと言わんばかりに一番上の紙は舌を突き出している。
今年度は他学年のクラスの授業まで請け負っているから、その枚数は全部で二百枚はある。おまけに、記述問題が多めで、問題によっては配点が一点から三点まである。問題を作成したのは私なので文句は言えないが、そんな試験問題にしてしまったことを今更のように後悔していた。
それでも私は仕事を楽しんでいたし、どのクラスに行っても生徒たちは真面目に授業を受けてくれていたから充実感があった。
「高校英語ならこの西澤遼平にお任せを。」
なんて予備校の講師みたいなことを言えば、笑ってくれるぐらいには生徒たちからの人気はあったと思う。全ては生徒のためと考えて、自分を鼓舞して今まで頑張ってきたのである。しかしそれがこの始末だ。
「こいつめ。」
そうつぶやいて小突いた一番上の解答用紙は、私をさらに困らせるかのように机の向こう側へ滑り落ちていった。早めに終わらせないと後々困るとはわかっているのに、そういう時こそ余計なことをしてしまう癖は高校生の時から直らなかった。そしてそういう時に限って、弱り目に祟り目というように不幸を引き寄せる。
職員室の扉が、荒く動く音がした。
「西澤先生! すぐ来てください! 二組です!」
聞こえたのは私がちょうど解答用紙を拾った時だったので、身体を起こしながら声のする方を向いた。私の居場所に気づいたらしいその生徒は、もう一度私の名前を呼んだ。
「西澤先生早く! ケンカケンカ!」
その生徒は私の返事も待たずに姿を消してしまった。廊下を走る音が響く。私はやれやれと思いながら、言われた二組へと向かった。
◆その二◆
二組と聞いて無意識に自分のクラスである二年二組に向かったのであるが、それが間違いではなかったとすぐにわかった。私のクラスは職員室と同じ階で、渡り廊下を通ってすぐの所にある。だから何やら激しい声が聞こえてきたと思えば、それが例の二組だと思ったからである。
私が教室に入ると、中には吹奏楽部の部員が五人と、他に生徒が四人いた。部員たちは自身の楽器を大事そうに胸に抱き、心配そうにしている。ということは、この一件の原因は一般の生徒にあるということだろうか。
部員以外の四人は全員私が受け持っているクラスの生徒だ。そのうちの一人は阿部あかりといい、何やら喚いている。学年どころか学校で群を抜く不良で、この時も周りをはばからずに教室で大声を上げていた。
「先生! 早く犯人捜してくださいよ! マジむかつくんだけど。」
そう言って阿部は机や椅子を蹴飛ばしていた。
「一体何があったんだ。」
感情的になった阿部からは話を断片的にしか聞けなかった。だから部員たちの話すことを聞けば、財布の紛失騒ぎとわかった。阿部が失くしたものはブランド物の財布らしく、昨日買ってもらったばかりらしい。
「確かにここで失くしたのか?」
「絶対ここ。学活の時にあって、一回駅まで行ったけど、みんな私が落とすところなんて見てないって言ってるし。」
阿部の取り巻きたちが、そうだそうだ、などとまくし立てている。
「下駄箱のあたりも見たけどなかったよ。だから盗まれたんだって! あんたもそう思うでしょ!?」
そうして阿部に問われたのは同じく私のクラスの生徒で、座席で言えば阿部の前、そして吹奏楽部のオーボエ奏者である安達真歩だった。阿部の怒声にどう答えていいかもわからないらしく、人一倍楽器を強く抱えておどおどしていた。そのはっきりしない様子を見たからか、阿部はさらに苛立ちを露わにした。
「はっきり言うけどね、あんたらが一番怪しんだよ吹奏楽部! いっつもこの教室使ってんだし。あんたらの誰かが盗ったんじゃないの?」
それを聞いて、さすがに吹奏楽部も黙ってはいなかった。唯一の男子生徒がそれに答えた。
「い、言いがかりはよせよ。うちらはパート練習でこの教室に来ただけじゃんか。」
しかしいくら言われたところでひるむ阿部ではなかった。
「じゃあ他に誰がいんだよ、あ?」
阿部がそう言ったところで勝負はついたらしかった。男子生徒はもの言いたげな様子を残して黙りこくってしまった。
そんな生徒たちのやり取りを見ていると、部活がない生徒たちへ告げる最終下校のチャイムが鳴った。私は一先ずこの件は明日に持ち越すとみんなに伝え、阿部たちには下校を、そして吹奏楽部の部員たちにはもう音楽室へ戻るように告げた。
外はいつしか陰っており、空が暗いところを見ると、今にも雨が降りそうであった。私はみんなが帰り支度をしている最中、乱れた机を直したり、窓の戸締りをしたりした。
その時、窓辺の床の一面が少し濡れていることに気付いた。
「ん? もう雨降ったのか?」
しかしその他に濡れているところは一か所もなかった。誰かが飲み物でもこぼしたのだろうかと思って私は窓の手摺に干されってある雑巾を一枚取り、特に気にも留めず一拭きした。その時だ。
「すみません。ありがとうございます。」
聞いたことがある声だった。しかしわらわらと教室を後にする生徒たちの誰がそう言ったのか分からなかった。外の景色はますます暗くなっていった。遠くの方から聞こえてくる野球部の声や、吹奏楽部の練習の音も、少しどんよりと聞こえた。
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