第59話 容疑者の帰還④
また彼の夢を見た——。
宇佐美は暗い川の中に立っていた。
水面は不気味なほど静かだ。
隼人は宙に漂い、その光景を見下ろしている。ただの傍観者でしかなかった。
宇佐美の足元を流れる水は、ゆっくりとその高さを増し、足首から膝上へと迫っていく。
川の流れも激しくなる。
それでも無表情だった宇佐美の顔が、突然驚きに変わった。
その視線の先に、小さな子どもが溺れかけている。
宇佐美は迷いなく子どもに向かって進む。
だが、川底から無数の蛇が現れ、宇佐美の体に絡みついた。
蛇たちは蠢きながら彼を締め上げ、やがてその腕を千切る。
それでも宇佐美はもがき続け、前へ進もうとする。
しかし、子どもは、ゆっくりと暗い水の底へ沈んでいった。
——行かないで、ショウゴさん!
その悲痛な声が響いた瞬間、隼人は目を覚ました。
夢だ。
嫌な夢だ。
隼人は布団の中でじっと天井を見つめる。
胸の鼓動が収まらない。
宇佐美の姿。濡れた服に張り付いた身体のライン。
触れたときの感触は、どんなだろうか——。
蛇に締め上げられた苦悶の表情。
子どもが川底に消えた時の絶望——。
すべてが妖しく誘ってくる。
「……馬鹿じゃないか」
隼人は自嘲気味に呟き、時計を見る。
午前四時半になるところだった。
六時には宇佐美とお堂に行くことになっている。
隼人は起き上がり、汚れた下着を乱暴に脱ぎ捨てた。
だが彼は気を変えているかもしれない——そんな予感もあった。
会いたい気持ちよりも、会うことへの怖さが勝っている。
防犯カメラの映像を隠しておかなければならないというだけではない。
会ってしまえば、抑え込んでいるこの気持ちが、いつか溢れてしまうのではないか。
そんな不安が隼人を縛りつけていた。
午前五時四十五分。
隼人は駐在所の前に立っていた。
空は明るく、爽やかな五月の朝だ。しかし、天気予報では夕方から雨が降ると言っていた。
駐在所の中からは物音一つしない。
宇佐美は、まだ眠っているのだろうか。
昨夜、防犯カメラの映像に映っていた田所の姿が頭に浮かぶ。
まともに立って歩けない田所。
千香子は「酔っているだけ」と言い切ったが、果たして本当にそうだろうか?
フードを被った男は、田所を槐家に運ぼうとしたのか?
それとも、生きている田所をわざとカメラに映したかったのか?
自分は捜査のプロではない。
やはり皐月に恨まれてもいいから、あの映像を宇佐美に見せるべきではないか……。
隼人が思案に沈んでいると、朝日を背に何かがすごい勢いで近づいてきた。
目を細める隼人の前に、息を切らした宇佐美が現れる。
鼓動が一気に高鳴るのを感じながら、隼人は声も出せずに立ち尽くす。
「——お待たせしました」
整わない息のまま、宇佐美は頭を下げた。
「すみませんが、シャワーをお借りできませんか?」
隼人は駐在所の浴室が物置になっていることを思い出した。
「あっ! 浴室使えませんでしたね! 気が利かず、申し訳ありません」
宇佐美は駐在所の鍵を開け、隼人を中に招き入れる。
「お堂に行ってみましたが、鍵がかかっていました。槐さんが管理されているそうです」
「そうですか」
隼人は、宇佐美の気さくな様子に胸をなでおろした。
昨夜、自分が宇佐美に触れようとしたことに、彼は怒っていないようだ。
宇佐美はテーブルに菓子を置いた。
「これ、ハナさんからいただきました。鹿児島のお菓子だそうです」
「ハナさんの家から走ってきたんですか?」
驚いて顔を上げると、宇佐美とまともに目が合った。
隼人は思わず目をそらす。
「——何か、あったんですか?」
「ただのパトロールです」
宇佐美は平然と答え、二階へ上がっていった。
隼人は驚いた。
朝から村外れまでパトロールをするのか。
宇佐美の熱心さに、隼人は証拠映像を見せたいと思った。
なんとか力になりたい。
一刻も早く、皐月を説得しなければ。
宇佐美は、隼人の家に向かう道すがら、蛇の面のことを尋ねてきた。
田所の家にあった面がよほど気になるらしい。
家に入り、浴室に案内しても、宇佐美は田所の蛇面についての質問を続けた。
(……お堂のことといい、村の歴史や文化に興味があるんだな)
そんなことを思いつつ、訊かれるまま正直に答えていたら、宇佐美が服を脱ぎ始めた。
隼人は慌てて、浴室を飛び出す。
(なんて無防備なんだ! こっちの気も知らずに!)
腹が立つが、男同士なのだから当然かと気を取り直す。
宇佐美がシャワーを浴びている間に、皐月に電話をかけた。
「——防犯カメラの件ですが、やはり今すぐ、宇佐美さんに見てもらいましょう」
しかし、皐月の声は冷たい。
『考えさせてちょうだい』
短く言い放つと、電話を切った。
再びかけ直したものの、皐月が出ることはなかった。
(直接会って説得するしかないな……)
キッチンに入り、サンドイッチを作っていると、腰にタオルを巻いただけの姿で宇佐美が入ってきた。
(これが女性なら、誘いに応じるが……この人が、その気がないのは分かってる……)
隼人は宇佐美の姿を視界に入れないように、朝食作りに集中した。
ところが——。
「昨日持ってきて下さった机に、ビデオテープが入っていました。持ってきましょうか?」
不意な問いに、振り向いてしまった。
「——運ぶ時、中がカラなのを確認したつもりですが……」
声が上ずりそうになる。
「秋子さんの私物ではないんですか?」
見てはいけないと思いつつ、隼人の目はそのしなやかな裸体に吸い寄せられる。
「ビデオテープなんて、この家に一本もありませんでした。デッキもありませんし……」
宇佐美がマグカップ片手に近づいてくる。
「誰か別の方が入れたんでしょうか?」
隼人の顔色を伺うように覗き込んできた。
髪の湿りが、今朝の夢を思い出させ、隼人を幻惑させる。
(もう無理だ! 耐えられない!)
「——宇佐美さん、私、ちょっと出かけてきます」
隼人が逃げ出そうとすると、宇佐美が後ろから声をかけた。
「テープを入れた人に心当たりがあるんですか?」
隼人は振り返らずに、早口で言い返す。
「いえ、ジョギングです。サンドイッチ食べて下さい。鍵はそのままで大丈夫です」
家を出た隼人は、坂を駆け下りた。
だが、すぐに立ち止まる。
駐在所の通用口が、開くのが見えた。
中から出てきたのは、小春だった。
小春は辺りを警戒するように見回し、こっそりとドアを閉めると鍵をかけた。
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