第5話 周平②
駐在所には鍵がかかっていた。
外からみたところ無人のようだ。
周平は車に戻ろうと、その場を離れた。
「田所さんなら、朝早く出ていったよ」
声のする方を見ると、いつからいたのか土産物店の店主、沢木と目が合った。
沢木は店の前に置かれたベンチに腰を下ろしている。
おはようございますと周平は頭を下げた。
「ゆうべ遅く、ここに車が停まったんだよ。変だなって思って、外みたらさ、田所さんが、駐在所ん中に運ばれてたよ」
沢木の店は駐在所の隣にあった。
「ずいぶん、飲んだんだろうね、あの人酒好きだから」
周平は人の話の腰を折るのが苦手だ。
時間がないのだが、沢木の話を黙って聞いた。
「その後も駐在所から物音がしてさ、気になって眠れなかったよ。やっと静かになって、うとうとしてたら、五時半位に、自転車が倒れる大きな音がして、びっくりして外見たら、田所さんが自転車に乗って、坂を上っていくのが見えたよ」
「槐さんの家に行ったんでしょうか?」と周平は自分がいま来た坂の方を見た。
さあねと、沢木は億劫そうに立ち上がった。
「今日、東京から人が来るんだろ? 田所さんが指導するらしいけど、あの人に教えられることなんて、あるのかねぇ」
沢木はブツブツ言いながら店の中に入っていった。
周平は急いで車に乗り込み、田所が住まいとしている家に向かった。
市の指定文化財となっている古い木橋『
周平が家の呼び鈴を鳴らす前に、玄関扉が開いた。
田所の妻の栞里が勢いよく出てくる。
あらと、栞里は周平を見てがっかりした顔をした。
六十過ぎの田所の妻にしては、栞里は若々しい。
絶対整形だ不自然だと千香子は言うが、顔立ちもよかった。
胸ぐりが大きく開いたワンピースを着た栞里に見つめられて、周平は気恥ずかしくなり、つい下を向いた。
「うちの主人、見ませんでした?」
「……自転車で、出かけたみたいです……あのう、
「皐月さんが?」栞里は嫌な顔をした。「チェックって、なんなの?」
「あ、新しい駐在さんが、来るから……そのぅ……」
「その準備を私にしろって、いうの⁉ 合格かどうかを、あの人が判定するつもりなのね!」
「……いや、そういうんじゃなくて……」
「いったい、何様のつもりよ‼」
「……す、すいません……」
栞里の剣幕に押されて、周平はペコペコ頭を下げた。
汗が吹き出てくる。
「わかりました! どうもご苦労さまっ!」言いながら、栞里は派手に音を立てて戸を閉めた。
周平は小走りで車に乗り込む。
——急がなきゃ!
娘の彩音も支度を終えて、自分が戻るのを待っているだろう。
ところがエンジンをかけて、車をUターンさせようとしたら、腰の曲がった老女がのんびり歩いているのが見えた。
ハナだった。
クラクションをならそうかと思ったが、周平はやめて車を降りた。
驚いたハナが転倒したら大変だ。
周平はハナに近寄ると、「車、通しますね」と優しくハナを脇に誘導した。「町から何か買ってくるものは、ありますか?」
「ありがとう。大丈夫よ」とハナは周平を見上げて、にっこり笑った。
穏やかで優しい顔立ちだった。
つられて周平の顔も柔らかくなる。
ハナの腰はほぼ直角に曲がっていた。
後ろから見ると、上半身がなく下半身だけが歩いているように見えるほどだ。
かなりなお年寄りなのかと思ったが、ハナは皐月より若いらしい。
周平はしばらくハナを見送った。
ハナの家は村の一番外れにある。
周りは空き家ばかりだ。
小柄でひ弱な年寄りが一人で暮らしていて大丈夫だろうかと、気になってしまう。
周平が見ていると、がっしりした体格の男がハナに近寄り、並んで歩くのが見えた。
千香子の父親の幸吉だった。
周平はホッとして、きびすを返そうとした、が——。
義父の姿を見かけても、挨拶をしている時間がないほど急いでいるのに、周平は動きを止めた。
幸吉の家のカーテンが微かに動くのが見えたのだ。
誰かがこちらを見ている気がする。
幸吉も一人暮らしだ。
他に誰がいるのだろうと、周平は目を凝らした。
だがそれも一瞬。
妻と娘を待たせていることを思い出して、周平は走って車に乗り込んだ。
急いで家に戻ると、彩音は遅刻しそうだとむくれていた。
何度も謝りながら、千香子と彩音を乗せて、周平は車を走らせた。
村の中心とは反対の、皐月の家の前を通り過ぎ、林道を抜けて国道に出るとそこは東京だった。
高速道路のインターがあり、ショッピングモールや二十四時間営業のスーパー銭湯も近くにある。
蛇神村は東京、神奈川、山梨の県境だが、彩音の学校も周平と千香子の職場も、東京側にあった。
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