アカシアの花が咲く頃

こばゆん

第1話 夜神楽が終わるまで①

 五月。

 警察庁入庁三年目の宇佐美警部は、突然上司から駐在所勤務を言い渡された。


蛇神村へびがみむら駐在所ですか」

「ああ——」


 このところ姿を見せなかった上司の九我くがは、考え込むような顔つきで手にした書類を見つめている。


 宇佐美はすぐにピンときた。


「あっ、再教育実習ですね!」

「まあ、そうだ」

「僕の同期が大阪の機動捜査隊で研修中なんですが、一週間で胃に穴が空いたそうです」

「そうか」


 宇佐美は実習先の説明を待った。

 だが九我は書類を見たまま、口を開かない。


「取り調べの達人に指導してもらった先輩がいるんですが、羨ましかったです。技能指導官とお会いできる機会なんてめったにありませんからね」

「そうだな」


 何を言っても九我は、別な事に囚われているようにぼんやりしたままだった。


「石黒さんが異動になって寂しいですね」

「まあな」

「僕がいなくなるのも悲しいですか?」

「ああ」

「僕も、あなたと離れたくないです」

「そうか」


 いくらからかっても反応がない。

 宇佐美は「失礼します」と一言断ってスマホを取り出した。

 蛇神村を検索する。


 先頭に表示されたのは『アカシア日記』という個人ブログだった。

 管理人は蛇神村在住、『春花秋月』となっている。


(春花秋月か、風流だな)


 サイトには、村の風景や自らの生活の様子がたくさんの写真と共に綴られていた。

 素朴で丁寧な暮らしぶりや、美しい文章に好感が持てる。


『アカシア日記』の説明によると、蛇神村は神奈川県に属するが、山梨との県境にあり、村の一部は東京にも接していた。

 人口二百。

 蛇面へびづら神社という蛇を祀った神社があるようだ。


「今週末、村の神社で夜神楽があるんですね」

 宇佐美の言葉に九我が身じろぎした。

「——夜神楽」と呟く。

「研修中に観られるかなあ。住民以上の観光客がやってきて、かなり賑わうようですよ」


 九我は答えず、何かを思い出すように眉を寄せている。


(……早く、話を進めて欲しいな。準備もあるし)


正語しょうごさん」

「ん」

「好きです」

 九我が手にした書類を伏せて、やっと顔を上げた。

「俺もだ」

 宇佐美もスマホを置く。

「山と川に囲まれた静かな農村のようですが、指導して下さるのはどういった方ですか?」

「村の駐在所には、田所さんという巡査長がいる。田所さんは奥さんと二人で三十年間そこの駐在所に勤務されている」

「三十年ですか、すごいですね」宇佐美は素直に感心した。「地元のみなさんから愛されているんですね」


 郷土愛に満ちたブログを発信する住民がいて、三十年もの間、駐在所勤務を続けている巡査長がいる。

 宇佐美は村へ行くのが楽しみになってきた。


 現場経験が乏しいキャリア警察官の指揮能力改善のため、若手中心に教育見直しプログラムが庁内で始まった。

 研修先は、本人の資質や能力などおかまいなしで、対象者は皆どこに行かされるのかと戦々恐々としていた。

 北九州の暴力団対策課に行かされた者など、上司から嫌われたのではと囁かれ、庁内に戻ってきても居場所はないだろうと気の毒がられていた。


「今週いっぱいだ。ご苦労だが、頼む」

「(ご苦労だが、頼む? 気持ち悪いな……)ずいぶん、短い研修ですね」

「表向きは研修だが、他の任務がある」と九我は嫌な顔をした。「おまえ、警視庁からご指名を受けたぞ」

「はい?」

「警察庁の研修を利用して、おまえを蛇神村に潜入させられないかと言ってきた」

「潜入って……」と宇佐美も顔をしかめる。「あの村に何かあるんですか?」


 九我は机に伏せた書類とは別な資料を開いた。

 男の写真を指差す。


「こいつをマークして欲しいそうだ。祖母の葬儀で今、村にいる」


 堀の深い、精悍な顔つきの男だ。名を水無瀬隼人といった。


「何をしたんですか?」


 言いながら宇佐美はざっと資料に目を通す。

 シンガポール在住。学生時代にIT関連の企業を立ち上げて成功。三十歳で会社を売却し、現在の個人資産額は二百億を超えていた。


「去年殺人の容疑がかかったが、逮捕状は取れなかったようだ」

「裁判所が却下したのに、まだ追いかけているんですか?」宇佐美は驚いた。「担当はどこです?」

「一課の大林さんだ」

「大林組ですか……あそこ、一課の精鋭部隊ですよね。何か裏があるんですか?」

「いま調べてる。あいつら、手の内を明かしたがらないから厄介だ。上から水無瀬に構うなって言われてるのに、大林さんがなぜ執着してるのか分からない」

 叩き上げの警部率いる捜査の大ベテランたちだ。きっと何か考えがあるのだろう。

 それにしても……。

「なんで僕なんかに声がかかるんです? 他に適任者がいそうですが?」

「おまえ、島の事件以来、警視庁では有名人だからな。王来寺の件でも、上司(俺)に逆らって一人で巨悪に立ち向かう熱血漢だって、噂になっていたぞ」


 宇佐美は、げんなりしてきた。

 のどかな農村での楽しい研修生活が遠のいていくのを感じる。


「うちが動けば上から待ったがかかることもないだろって、考えてるのかもな」


 警察庁の人間が捜査の真似事なんかするからこうなるんだと、九我は付け加えた。

 宇佐美は返す言葉がなかった。

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