学校の雑貨屋〜瑠璃色雑貨店〜

松原凛

(1)

 ここはどこだろう。

 わたしは学校にいて、廊下のつき当たりには家庭科室があるはずだった。

 でも、扉を開けたそこは、知らない場所だった。

 色鮮やかな生地の巾着や、髪飾りやハンカチ。

 机いっぱいに並んだ可愛らしい小物たちに、目を奪われた。

 その奥には、着物を着た小さな女の子が、ちょこんと座っていた。

「いらっしゃいませ」

 女の子は見た目に似合わない大人びた表情で、にっこりほほ笑んでそう言った。


 ☆


 わたしは園田杏(そのだ あん)。雑貨が大好きな小学5年生。

「りんかちゃんのストラップかわいいー」

「あ、これ動画で見た! かわいいよねー」

 クラスの女の子たちがはしゃぐ声に、わたしの耳がぴくぴくっと動いた。その中心にいるのは、一組でいちばんかわいくておしゃれな女の子、りんかちゃんだ。

 りんかちゃんはいつも、雑誌のモデルが着ているようなかわいい服を着て、髪のリボンもカバンにつけているストラップも、すごくかわいい。かわいい子が持ってると、それだけでなんだってかわいく見えちゃうからふしぎだ。

 じつはわたしもひそかに気になっていたりんかちゃんのストラップ。どこで買ったのか聞きたかったけど、とくに仲がいいわけでもないし、聞けなくてうずうずしていたのだ。

「あっ、それ、Magic.のコラボグッズだ! いいなーどこで買ったの?」

「ネオンの雑貨屋さんだよ。最近できたとこ」

「あそこ、かわいいのいっぱい売ってるよね!」

「今度みんなで一緒のやつ書いに行こうよ。オソロにしよー」

「あたしピンク!」

「うち紫―」

 女の子はおそろいが大好きだ。友達同士で同じものや色ちがいを身につけている子たちは、たくさんいる。

 でも、わたしはおそろいがちょっと苦手だった。

 仲よしってことをわざわざアピールするみたいで。

 それに、仲よしグループでもないのに同じものを持っていたら、マネしたって言われるかもしれないし……。

 それに、わたしが同じものを持っていたって、りんかちゃんみたいにはなれないってこともわかってる。

 そう思ってあきらめることにした。

 

 かわいいものはたくさんある。ほしいものは毎日、どんどん増えていく。

 だけど小学生のわたしに、ほしいものを全部買うなんてことはできない。

 おこづかいは毎月決まっているし、ほしいものを見つけるとすぐに買ってしまうから財布の中身はいつも空っぽだし、お母さんにまた同じようなもの買って、って怒られたばかりだった。

「でもやっぱりほしいものはほしいッー!」

 帰り道、わたしは叫んだ。

 全然、あきらめられていなかった。

「また言ってる。いい加減あきらめなよ」

 となりで呆れたように言うのは、幼なじみの前原柚子(まえはらゆず)。

「だって、かわいかったんだもん~……」

「あれってアイドルのコラボグッズでしょ? 杏、アイドルとか好きじゃないじゃん。しかもそういうのって、高くてもファンが買うからだいたい割高なんだよ。好きでもないのにその余分なお金払うのってもったいなくない?」

「ぐぅっ……」

 グウの音も出ない正論。いや、出たけど。ていうかほんとにわたしと同い年?

 柚子とは幼稚園のときから一緒だったけれど、性格は正反対。雑貨が大好きでぼうっとしがちなわたしと、しっかり者で勉強が得意な柚子。

 なんだって言いあえる、大好きな親友だ。

「あっ、そうだ。あのお店行こうよ。アトリエコメット!」

「……お金ないんじゃなかったの?」

「外から見るだけでもいいの!」

 その名前を口にしたとたん、心が弾むのがわかった。


【アトリエ コメット】


 そこに初めて行ったのは、一年前のこと。

 柚子の家に遊びに行く途中で、偶然見つけたハンドメイドの雑貨屋だ。

 こぢんまりとしたアパートの一階がお店になっていて、シンプルだけどおしゃれで、なんだか大人な雰囲気だった。

 おおきなガラスの窓越しに、お店の女の人とお客さんが楽しそうに話をしているのが見えた。

 そして、ちいさなお店いっぱいにならんだ壁飾りやポーチやアクセサリー。

 もっと近くで見たいなあ。中に入ってみたいなあ……。

 そう思ったけれど、どう見ても小学生のわたしが気軽に入れるようなお店じゃなさそうだった。

 いいなあ。わたしもこんなおしゃれなお店に入ってみたいなあ……。

 外から眺めていると、

『ありがとうございましたー』

 お客さんを送り出したお女の人が出てきた。

 目があって、ドキリとした。

 ストレートの長い髪に、すらりと背が高くて、細長い手足。はっとするほど、きれいな人だった。

 女の人はにっこり笑って、

『いらっしゃい』

 とわたしを招き入れてくれた。

 そのお店は、紗央里さんという女の人が、一人でお店をやっていた。

『わあ……』

 お店の中を見渡して、わたしは目を輝かせた。

『ここにあるものは、全部私の手づくりなのよ』

『ええっ、すごい!』

 キラキラした置物やアクセサリー。三角形のポーチや、刺繍がついたハンカチ。ドライフラワーや、白い木の棒で作られた壁掛けもすごくかわいい。

 でも……

 どれも、わたしのお小遣いじゃ買えないものばかりだった。

『これはどう? 自信作なんだ』

 紗央里さんがにっと笑って、髪ゴムを差し出した。ボタンみたいに小さな丸い飾りに、ピンク色の花の刺繍がついている。

 わあ、と息をのんだ。

 すごくかわいい。それに、これならわたしのお小遣いでも買える。

『それくださいっ!』

 わたしは迷わずそう言った。

 その日から、わたしはそのお店にひんぱんに通うようになった。

 行くと言っても、もちろん毎回ほしいものを買えるわけじゃない。

 でも、何も買えなくても、ただ眺めるだけでもよかった。

 見ているだけでワクワクした。

 紗央里さんがひとつひとつ丁寧に作った小物たちを手に取ると、なんだか、ぽうっとあたたかい感じがした。

 小さなお店にかわいいものがぎゅっと詰め込まれた、見ているだけで幸せになれるその小さな雑貨屋が、わたしはたちまち大好きになったんだ。


「あれ?」

 お店の前に来て、わたしは首をかしげた。

 お店の様子が、いつもと違う。

 扉の上にかかっているはずの【アトリエ コメット】と書かれた看板がなくなっている。お店の中が見える大きな窓も、今日はシャッターがおりていた。きれいな花が咲いていた植木鉢も、全部なくなっている。

「どうしたんだろう……」

 つぶやくのと同時に、扉が開いた。

「杏ちゃん。お友達も、こんにちは」

 入り口の扉が開いて、紗央里さんがひょこっと顔をだした。

「ごめんね。荷造りしてて」

「荷造り?」

「お店、閉めることにしたの」

 えっ、とわたしはびっくりして声をあげる。

「やめる? なんで?」

 こんなに素敵なお店なのに。

 紗央里さんはさみしそうに言った。

「私は私の好きなことをやるって、ずっと言い張ってたんだけどね。思う存分やらせてもらったから、家の仕事を継ぐことにしたの」

 紗央里さんは少し寂しそうに、でも笑ってそう言った。

「会えてよかった。これ、杏ちゃんにあげようと思ってたの」

 紗央里さんが差し出したのは、ペンケースだった。青と白の星柄の生地に、金色のファスナー、それに金平糖みたいな小さな星のチャームがついている。

 前にお店に来るたび、かわいいなあって眺めていたものだった。だけどお小遣いじゃ全然足りなくて、我慢したんだ。

「これは売り物じゃないからお金はいらないよ。私から杏ちゃんへのプレゼント」

 紗央里さんはにっこりと笑って言った。

 ほしかったものが手に入って嬉しかった。

 嬉しいはずなのに、全然、喜べなかった。

「……ありがとうございます」

 小さな声でそう言うのが、やっとだった。

 大好きなお店がなくなってしまう。

 小学生のわたしには、ほしいものをなんでも買うなんてできない。

 でも、何も買わなくても、紗央里さんはいつも笑って、いらっしゃい、って言ってくれた。

 いつか大人になったら、このお店で好きなものを好きなだけ買いたいって思っていた。

 だけど、そんな先まで、待ってくれないんだ。

 うつむくわたしの頭を、紗央里さんが優しくなでた。

「コメットはね、日本語で彗星って意味なの。空に尾をひいて、流れ星よりも長く見えるからほうき星とも言われるの。不吉なことの前兆とも言われるけど、私は好きなんだ。いつどこであらわれるかわからない、偶然の出会いだから」

 紗央里さんは言った。

「星にはそれぞれ、星言葉っていうのがあってね。ほうき星の星言葉は『彗星のように突然あらわれる』なんだって。そんな素敵な出会いが、杏ちゃんにも訪れるといいね」


 ☆


 休憩時間、星柄のペンケースから、えんぴつを取り出した。

 そのペンケースを見ると、もうあのお店はないんだって思い出して、さみしくなる。

 汚したくないから、ほんとは大事にとっておきたかったけど、

『汚れてもいいから、使ってあげてね』

 紗央里さんがそう言っていたのを思い出して、今日から使うことにしたんだ。

「それ、かわいいな」

 と、男の子の声がした。

 顔をあげると、玲央名くんが立っていた。

「えっ?」

「かわいいなって思って。その筆箱」

 かわいい!?

 いやいや、わたしが言われたわけじゃなくて、このペンケースのことだよね。

 わかってる、わかってるけど。

「か、かわいくないよっ」

「そう? 俺はいいと思ったけどなあ」

 玲央名くんは首をかしげた。

「玲央名、サッカーやろーぜ!」

 友達に呼ばれて、玲央名くんはおー、と返事をして言ってしまった。

 玲央名くんが教室を出ていってから、わたしは心の中がさっきよりもっと、重くなったのを感じた。

 ずっとほしかった星柄のペンケース。

 それを見た瞬間、目を奪われた。

 かわいい、って思った。

 紗央里さんがくれた、大切なプレゼント。

 それなのに……


『か、かわいくないよっ』


「あああああ~、なんであんなこと言っちゃったんだろう……」

 こんなふうに後悔するくらいなら、素直にひとこと「ありがとう」って言えばよかったのに。

 わたしは、あまのじゃくだ。 

 びっくりしたり、どきどきしたりすると、思っていることと反対のことを言ってしまう。

 田端玲央名くんは、クラスでいちばん背が高くて、運動神経抜群な男の子。

 走るのが速くて、サッカーだってすごくうまくて、明るくてみんなの人気者だ。

 そんな男の子から、いきなり「かわいい」なんて言われてびっくりして、つい、反対の言葉が飛び足してしまった。

 ほんとは嬉しかったのに。

「大丈夫だって。あいつサッカーに夢中でそんなこともう忘れてるよ」

 柚子はそう言ってからからと笑った。

「そうかなあ……」

 きっとそうなんだろうな。

 礼央名くんにとっては、きっとすぐに忘れてしまうような、たいしたことないことなんだろう。

 だけど、褒めてくれて嬉しかったから。

 やっぱり「ありがとう」って素直に言いたかったんだ。

 どうしたらもっと素直になれるんだろう。

 柚子みたいに頭がよかったら。

 それとも、りんかちゃんみたいにかわいかったら。

 自分にすこしでも自信が持てたら、わたしも素直な気持ちを言葉にできるようになれるかな。


「園田さん、あとで集めたプリント、職員室に持ってきてくれる?」

 担任の松野先生が言っって、はい、と返事をする。

「じゃ、あたし先帰るね」

 ホームルームが終わると、柚子がランドセルを背負って言った。

「柚子、今日も塾?」

「ううん、今日は英会話。回数増やされちゃってさ」

 柚子はうんざりしたように言う。

「ふうん。大変だねえ」

 塾に英会話と、最近柚子は、毎日忙しそうだ。

 わたしは職員室に係のプリントを持っていってから、教室に戻った。クラスメイトたちはみんな帰っていて、教室には誰もいなかった。

 午後四時。空が夕焼けに染まりはじめ、教室まで溶け出すようにオレンジ色になっている。

 窓から、グラウンドで男の子たちがサッカーをして走り回っているのが見えた。その中に、礼央名くんもいた。

 玲央名くんは、背が高くて走るのがすごく速いから、どこにいてもすぐにわかる。動物みたいに、ボールを追いかけて走り回っている。

 すごいな。六年生にも全然負けてない。

 サッカーのルールもよくわからないのに、いつのまにか礼央名くんの姿を目で追いかけていた。

 ふいに玲央名くんが足を止めて、顔をあげた。

「……っ!」

 ほんの一瞬、目が合った気がした。

 あわてて、思わず窓の下にしゃがんでしまった。

 心臓がいつまでもバクバクと鳴りやまなかった。


 教室を出て、階段をおりようとしたとき。

 わたしは、目をみはった。


 ――なんだろう、あれ。


 廊下の向こうが、ぽうっと明るく光っていた。

 突き当りは家庭科室だ。放課後はだれも使っていないはずだけど……。

 それにどう見ても、夕焼けや電気の明かりには見えない。

 金色の光が、扉の隙間からこぼれるようにして、廊下をキラキラと照らしているのだ。

 そんな光、見たことがない。

 なにあれ? なんで家庭科室が光ってるの?

 その光に誘われるように、近づいてみると、光はどんどん強くなっていって、まぶしいくらいになった。おそるおそる手を伸ばす。

 扉の向こうに、何があるんだろう。

 不思議と、怖いって気持ちには、全然ならなかった。

 わたしはその不思議な光に誘われるように、扉を開けた。

「えっ?」

 飛び込んできた光景に、わたしは目を見開いた。

 そこは、知らない場所だった。


 うそ。ここ、家庭科室だよね……?


 調理実習のときに使う壁際の調理場と、大きな黒い机が六つあるのはそのままだ。

 だけど机には、赤や青や黄色の、色鮮やかな小物がずらりと並んでいた。

 着物の柄のような和風の巾着に、花飾りのついたかんざし、金魚模様のハンカチに、うさぎの人形。

 そしてその奥、先生が座る机に、着物姿の小さな女の子がちょこんと座っていた。

 真っ赤な着物。おかっぱ頭に、おおきな青い花の髪飾りをつけている。

 すごくかわいい女の子だった。くりくりした大きな目が、まっすぐにわたしを見た。

「いらっしゃい。瑠璃色雑貨店へようこそ」

 女の子は見た目に似合わない大人びた表情で、にっこりほほ笑んで言った。


「るりいろ……雑貨店?」

 わたしはぽかんとして繰り返した。

 ここは学校の三階。突き当りにある家庭科室のはず。

 その家庭科室に、なんで着物姿の女の子が?

 それに、雑貨店ってどういうこと?

 雑貨店なんて、世界でいちばんときめく言葉のはずなのに、混乱しすぎてそれどころじゃなかった。

 ……ここ、学校だよね? 

 わたし、さっき教室を出たところだよね?

 はっと気づいた。

 もしかして、この女の子、幽霊だったりして……。

 そう思ったとたん、ぞぞおっと背中に寒気が走った。

「あの、やっぱりわたし帰っ……」

「幽霊じゃないわよ」

 女の子はわたしの言葉をさえぎって言った。

「初めてここに来た人は、たいていみんなそう言うのよね」

「そ、そうなんだ」

 みんなってことは、わたしのほかにもここに来た人がいるってこと?

 でも、そんな話、聞いたこともないけど……。

 わたしは女の子をじっと見つめた。

 たしかに、幽霊っぽくない。透けてもいないし、足だってちゃんとある。

 ……じゃあ何者?

 学校でこんな着物姿の女の子、見たことない。いたら絶対目立つはずだし。体操服に着替えるときとか大変そうだな、とつい余計な心配までしてしまう。

 不思議な女の子だった。見た目はわたしと同じくらいの歳に見えるけど、口調も雰囲気も、なんだか大人っぽい。まるで大人の女の人みたいな……。

「私は瑠璃。あなたは?」

「わ、わたし、杏」

「あなたは何がほしい?」

 瑠璃と名乗った女の子は、ことん、と首をかしげて尋ねた。

 ほしいもの……?

 ほしいものならたくさんある。

 あれもこれもって、毎日どんどん増えていく。

 なのに、いざそう聞かれると、全然思い浮かばなかった。

 わたしがほしいものって、なんだっけ?

 あんなに心からほしいと思っていたもの。

 わたし、ほんとにそれがほしかったんだっけ。

 とまどうわたしに、瑠璃ちゃんはくすりとちいさく笑った。

「どうぞ、ゆっくり見ていって」

「うん……」

 わたしはドキドキしながら、机に並んでいる小物を眺めた。

 その瞬間目をうばわれた。

 赤や青や黄色――まるで花畑に飛び込んだみたいに、目の前に広がるたくさんの色。

 そこにあるものは、全部布でできていて、着物みたいな和風の柄だった。

「すごぉい……」

 和風の雑貨って、ちょっと特別な感じがする。

 お祭りのときの浴衣とか、七五三のときの着物とか、旅行に行ったときのお土産屋さんとか。昔ながらのもの、だけど身近にあるっていうのとは違う感じ。

 おおきなデパートやショッピングモールに行くと、着物がずらりとならんでいるお店があるけれど、静かでちょっと入りづらくて、かわいいなって思っても、いつも遠くから眺めているだけだった。

 でも、そこにある雑貨は、お店に売っているものとどこか違う感じがした。

 近くでじっと見つめて、あっ、と気づいた。

「もしかして、これ、全部手づくり?」

「そうよ。全部私が作ったの」

 女の子は、得意そうに言った。

 やっぱりそうだ!

 見た目は全然違うけど、あたたかい感じがして、紗央里さんが作ったものと似ているような気がしたんだ。

 糸なんてどこにも見えなかった。無地の生地に糸で細かい絵が描かれていたり、着物をそのまま小さくしたように繊細に織り込まれていたり、それを全部このちいさな女の子が作ったなんて、信じられなかった。

 ふと、うさぎの人形が目にとまった。かわいい、ピンク色のうさぎだった。

「このうさぎ……」

 真っ黒なふたつの瞳がじっとこっちを見ているような気がして、吸い寄せられるように手にとった。

「えんぴつ」

 と瑠璃ちゃんは言った。

「お代は、あなたが持ってるえんぴつをひとつ」

「えんぴつ……って、え? そんなのでいいの? お金じゃなくて?」

 って、お金持ってないんだけど。

 わたしは星柄のペンケースからピンク色のえんぴつを一本取り出した。

 こんなにかわいい人形とえんぴつが交換なんて、いいのかな?

 瑠璃ちゃんを見て、わたしはぎょっとした。

「すごおおいっっっ!」

 瑠璃ちゃんがえんぴつを両手に乗せて、キラキラと目を輝かせていた。

「えっ? 何が?」

 わたしはぽかんとして言った。

 ふつうにどこでも売ってるえんぴつだと思うんだけど……?

「このえんぴつ、後ろに消しゴムがついてる!」

「それってすごいの?」

「すごいよ! 高級品だよっ!」

「こ、高級品?」

 わたしはびっくりして瑠璃ちゃんを見た。

 えんぴつを見て感動している子なんて、初めて見た。

 このえんぴつ、百均で五本入りで売ってるやつだけど?

 もしかして、すごくお金に困ってる子なのかな。

 でも、こんなにかわいい雑貨をたくさん作れる子が、お金に困っていそうには見えない。それに着物だって、着物のことを何も知らないわたしでもいいものなんだろうなってわかるくらい、しっかりした生地でできている。

 瑠璃ちゃんはえんぴつをお宝みたいにじいっと見つめて、

「ありがとう。大事にするね!」

 と嬉しそうに言った。

 わたしはぽかんとして、それから、なんだかおかしくなってぷっとふきだした。

 さっきまで大人びているように見えた女の子が急に同じくらいの歳に思えて、いつの間にか緊張がなくなっていた。

「うん、わたしも!」

 わたしは笑ってうなずいた。

 そのとき、チャイムが鳴った。時計を見ると、もう五時だった。

 まだここにいたいなあ、と思った。

 でも、もう帰らなきゃ。

 いつまでもいたら、学校が閉まってしまう。

「瑠璃ちゃん」

 わたしは言った。

「また、明日もここに来ていい?」

 放課後、家庭科室で出会った不思議な女の子。

 いったい誰なのか、家庭科室がなんで雑貨屋になっているのか、わからないことだらけだけど。

 だけどそんなのどうだってよくなるくらいに強く、思ったんだ。

 またここに来たい。

 もっとこの子と話してみたいって。

 瑠璃ちゃんはえんぴつを机に置いて、

「もちろん」

 とにっこり笑って言った。

「でも、このお店のことは誰にも内緒ね」


 ☆


 その日の夜、ベッドに入っても、胸のドキドキはまだおさまらなかった。

 だって、あんなふしぎなことがあったんだもん。

 だけど、時間が経ったら少し、自信がなくなってきた。

 あれはほんとうにあったことなのかな。

 もしかしたら、わたし、夢を見てたんじゃないかな……。

 わたしはランドセルに入っているピンクのうさぎを取り出して、てのひらに乗せた。

 あのとき、たくさんある小物たちのなかで、このうさぎが目に飛び込んできた。

 その黒いふたつの瞳が、じっとわたしを見つめている気がしたんだ。

 もしかして、わたしが落ち込んでいたから、元気づけてくれたのかも、なんて。

 ちゃんとここにある。

 あの不思議な出来事が夢じゃないよって、教えてくれていた。


 放課後の家庭科室。

 あふれるような光に誘われて扉を開けた。

 そして、不思議な雑貨屋と、着物姿の女の子を見つけた。


『瑠璃色雑貨店』


 ――彗星のように突然あらわれる。

 そんな、予想もできない、素敵な出会いが杏ちゃんにも訪れるといいね。


 紗央里さん、あったよ。

 不思議で、素敵な出会いが。

 落ち込んでた気持ちも吹き飛ばしてしまうようなすごいことが、あったんだ。

 またあのお店に行けるかな。

 行けたらいいな……。

 そう願いながら、わたしは目を閉じた。


 ☆


「ね、瑠璃色ってどんな色か知ってる?」

 次の日、わたしは柚子に聞いてみた。

 瑠璃色、ってなんだか宝石みたいできれいな響きだと思った。

「瑠璃色は、青色のなかの一種だよ」

 柚子がすぐに答える。

「そうなんだ。さすが柚子、よく知ってるねえ」

「図書室で借りた植物図鑑に載ってたの」

「植物図鑑?」

「オオイヌノフグリっていう星の形の青い花があるんだけど、色や形から瑠璃唐草とか星の瞳とも呼ばれてるんだって」

「あっ、オオイヌノフグリなら知ってる!」

 家の近くの草むらよく見かける小さな青い花だ。

 あの花って瑠璃色だったんだ。

 瑠璃ちゃんは知ってるかな。

 そういえば、瑠璃ちゃんがつけてる青い花の髪飾りもオオイヌノフグリに似た青色だった。

「瑠璃色がどうかした?」

 柚子が首をかしげる。

「ううん、なんでもない」

 素敵な場所を見つけたら、つい誰かに言いたくなる。

 だけど、あのお店のことは、誰にも内緒。


『このお店のことは、誰にも内緒ね』


 って、瑠璃ちゃんとの約束だから。

 それに、自分だけの秘密の場所っていうのも、ちょっといいかもしれない。


 十月のはじめに運動会がある。今日はグラウンドでリレーの練習だ。

 リレーの選手が位置について、順番に走っていく。リレーにでるのはクラス代表の五人だけだから、わたしたちはそばで応援する。

「礼央名、はええ~!」

 アンカーの礼央名くんが走りだしたとたん、みんなの視線が一気に集中した。

 音が聞こえそうなくらいビュンビュンとグラウンドを走り抜けていく。

 礼央名くんは、練習だからって少しも手を抜かない。

「杏、見とれてるー」

 柚子がにやりと笑いながら言って、ドキリとした。

「べつに見とれてないよ。すごいなって見てただけ」

 わたしはあわてて言った。

 みんなに囲まれて笑う礼央名くん。

 どこにいたって目立つから、つい目で追いかけてしまうんだ。


 放課後。

 みんながいなくなってから、家庭科室の前に立ってみた。

 だけど、扉は昨日みたいに光っていなかった。

 ためしに扉を開けてみたけれど、そこはいつも通りの家庭科室だった。


『また、明日もここに来ていい?』


『もちろん』


 瑠璃ちゃんはそう言った。

 あれは絶対に、夢なんかじゃなかった。

 鞄の中にある、ピンク色のうさぎの人形が、そう教えてくれた。

 毎日行けるってわけじゃないのかな。

 それとも、もう行けないのかな……。


 階段を下りようとしたとき、下から誰かが上がってきた。

「わあっ!?」

 ぼうっと歩いていたから、びっくりして思わず飛びのいてしまった。

 玲央名くんだった。

「そんな驚く?」

 礼央名くんは笑いながら言った。

「あ、ごめん。田端くん、どうしたの?」

 みんな「礼央名」って呼んでるし、心の中ではいつもそう呼んでるけど。

 本人にはやっぱり言えない……っ!

「俺は、宿題忘れちゃって」

 玲央名くんは照れくさそうに言いながら教室に入って、プリントを持って出てきた。

「園田さんは帰らないの?」

「えっと……」

 誰にも内緒、という瑠璃ちゃんの言葉を思い出して、言いかけた言葉をのみ込んだ。

「わたしも忘れ物っ」

「そっか。じゃ、また明日な」

 礼央名くんはそう言って、帰っていった。

 

 いま、チャンスだったのに。

 言うならいましかないってくらい大チャンスだったのに。

 また、言えなかった。

 なにか重大なことを言おうとしているわけじゃなくて、ただ「ありがとう」ってひとこと言いたかっただけ。

 それだけなのに、一日経ってしまった。

 いまさらそんなこと言ったって、何が? って思うよね。

 柚子の言うとおり、もうとっくに忘れてるに決まってる。

 ただ、わたしが言いたいだけ。

 褒めてくれて嬉しかったんだって。

 だけどそれはきっと礼央名くんにとってはなんでもないことで、べつに言わなくたっていいんだ。

 時間が経てば経つほどもっと言える気がしなくなって、いくじなしな自分への言い訳ばかりが増えていった。


 階段を下りていく玲央名くんの足音が聞こえなくなってから、そろりと教室を出た。

 時間は、ちょうど四時になったところだった。

 廊下の突き当りを見て、わたしは目を見開く。

 さっきまで光っていなかった扉から、まぶしいほど強い金色の光がこぼれていた。

 自然と、足が速くなった。

 ガラッと勢いよく扉を開けると、色鮮やかな雑貨が目に飛び込んできた。

 そして、その奥にちょこんと座る着物姿の女の子。

「いらっしゃい」

 瑠璃ちゃんは、にっこり笑って言った。

 その笑顔に、わたしは胸がいっぱいになった。

 また、ここに来れた。

 やっぱり、昨日の出来事は、夢じゃなかったんだ。


「このお店が開くのは四時からなの?」

 尋ねると、そうよ、と瑠璃ちゃんはうなずいた。

「それまでは学校があるから」

 やっぱりこの学校の子なんだ!

「ここにいるってことは、瑠璃ちゃんはこの学校の子なんだよね? 何年生?」

「質問ばっかり」

 クスクス笑う瑠璃ちゃんに、わたしはちょっと恥ずかしくなった。

「私はこの学校の四年生よ」

「じゃあ、わたしのひとつ下だね」

 兄弟がいないから、ほかの学年のことはよく知らないけれど、やっぱり着物姿の女の子なんて見たことがない。

 ふと、瑠璃ちゃんの前の机に置いてある、小さな青い箱が目にとまった。

「この箱、何が入ってるの?」

 宝石箱のような、きれいな青色だった。

 瑠璃ちゃんはその小さな箱に大事そうに手を触れて、

「それは、秘密」

 と言った。

「秘密かあー」

 わたしはがっくりと肩を落とす。

 瑠璃ちゃんは秘密だらけだ。

 なんでここにいるのか、いつからいるのか、どこに住んでるのか、全然わからない。

 だけど秘密と言われたら、それ以上聞くことはできなくなってしまった。

 ま、いっか。ちょっとずつ知っていけば。

 それよりも、またここに来れたことが嬉しかったから。

 ちょっととくべつ感のある和風の雑貨。

 どれも全部かわいくて、見ているだけで胸の奥がきゅぅんと鳴った。


 ☆


 ちょっとずつ知っていけばいいか。

 ――と思ったものの、やっぱり気になるものは気になる。

 瑠璃ちゃんは一体どこの誰なのか。

 あんなにかわいい女の子が着物姿で歩いていたら絶対に目立つはずだから、すぐに見つけられるはずだと思った。

 でも、瑠璃ちゃんの姿はどこにもいなかった。

 用事があるふりして、こっそり四年生の教室にも行ってみた。

 瑠璃ちゃんが幽霊じゃなくて、この学校の生徒なら、三クラスある教室のどこかにいるはずだ。

 さっきから、興味津々な視線が全身に突き刺さっている。

「誰か探してるの?」

 四年生の女の子に声をかけられて、わたしは苦笑いを浮かべた。

「瑠璃ちゃんっていう女の子探してるんだけど、知ってる?」

「知らなーい」

「そっかあ」

 わたしはがくりと肩を落とした。

 もしかして、着物はお店の制服みたいなものなんだろうか。

 そう考えれば見つけられないのも納得だ。

 でも「瑠璃」という名前の女の子は、この学校にはいなかった。

 先生にも聞いてみたけれど、結果は同じ。

 でも、瑠璃ちゃんは、この学校の四年生だって。

 嘘をついているようには見えなかった。

 それに、瑠璃ちゃんの言うことを信じたかった。

 でも、誰も知らないなら、やっぱりこの学校にはいないってことになる。

 それとも気づいてないだけで、やっぱり瑠璃ちゃんは幽霊なのかな……。

 一瞬浮かんだ怖い想像を、あわてて頭から追い出す。

 ううん、瑠璃ちゃんは幽霊なんかじゃない。

 だって、透けてないし、足もちゃんとあるし、それに。

 えんぴつを渡すときに触れた手は、あたたかかった。瑠璃ちゃんが作る小物みたいに、あたたかい、って思ったんだ。

 放課後にしかいない女の子。

 瑠璃ちゃんは、どこにいるんだろう。

 誰なんだろう。

 学校じゅうを探しまわっても、その答えは見つけられなかった。


 ☆


 少し前まで雨が続いていたけど、運動会の日は全部洗い流したようにすっきりと晴れていた。青空を横切るように、グラウンドの上にカラフルな旗がかけられて、秋の風になびいている。

 わたしは緊張で固まっていた。次の種目は、わたしがいちばん苦手なダンスだった。

「大丈夫? 杏」

 柚子が心配そうに言う。

「う、うん、全然平気!」

「顔が平気そうじゃないけど……」

 ううう、おなかが痛くなってきた。

 ダンスは学年全員でやるから目立たないように見えるけれど、ひとりだけちがう動きをしていたらかなり目立つ。ただでさえリズム感がないのに、体がロボットみたいにしか動かない。

 どうしよう。絶対笑われるよお~。

「列に並んでー」

 先生のかけ声で、みんながぞろぞろと集まってくる。音楽が変わって、入場する。

 わたしはポケットをぎゅっとにぎりしめた。

 ポケットには、ピンクのうさぎが入っている。落ち込んだときは元気づけてくれて、弱気になっているときは勇気をくれる、わたしのお守り。

 失敗するかもしれない。笑われるかもしれない。でも、たくさんれんしゅうしたんだから、きっと大丈夫。

 ……ああー、でもやっぱりおなかがキリキリするっ!



 二曲のダンスが終わって、わたしはバンザイをした。

「終わったー!」

 失敗もなく、いままででいちばんうまくできた気がする。

「めちゃくちゃ疲れた……」

 柚子がぜえぜえ息を切らして椅子に倒れた。

「手洗ってくるね」

「いってらっしゃい……」

 手を洗いに行くっていうのはついでで、ほんとうは、瑠璃ちゃんを探すつもりだった。

 昨日は運動会の準備があるから、早く帰りなさいって言われて、家庭科室に行けなかったから。

 全学年が集まる今日なら見つけられるかも、って思ったけれど、甘かった。みんな同じ体操服のなかからひとりを見つけるって、ウォー○―をさがせより難しいんじゃないかな。


 ――あれ?


 手洗い場に行く途中、足を止めた。

 玲央名くんだ。

 こんなところで何してるんだろう。

 玲央名くんは壁にもたれて、ぐったりしていた。すごく顔色が悪い。

 はっとして、あわててかけよった。

「玲央名くん! 大丈夫!?」

 もしかして、具合が悪いのかも。

「ああ、うん」

 玲央名くんも手を見て、わたしは、えっ、と目を見開いた。

 わたしの視線に気づいて、礼央名くんはさっとうしろに手をまわした。

 いまのって……。

 気になったけど、それよりも礼央名くんが心配だった。

「そろそろリレーだよな。戻らないと」

「でも具合悪そうだし、保健室にいったほうが……」

「大丈夫、大丈夫。ちょっと疲れて休んでただけだからさ。心配かけてごめんな」

 玲央名くんが笑って言った。

「そ、そっか」

 手を洗ってからクラスの席に戻ると、玲央名くんがみんなに囲まれていた。

「玲央名、アンカー頼んだぞ!」

「一組の優勝はおまえにかかってるからな!」

「おー、任せとけって」

 玲央名くんは、疲れなんて感じさせない様子で笑っていた。

 よかった。いつもの礼央名くんだ。さっきのが見間違いだったんじゃないかと思うくらい。

 わたしはホッとしながら、柚子のとなりに座った。

 六年生のダンスが終わって、最後の種目、全校リレーだ。

 音楽が変わって選手が入場するのを眺めながら、柚子がぽつりと言った。

「あのさ、杏」

「え?」

 そのとき、パン、と空を切り裂くような音がした。リレーが始まった。

 みんなの視線がグラウンドに集中するなか、リレーが進んでいく。

 一組は三位だった。あともう少しで追い越せそうなのに、その少しが届かない。

 そして、アンカーにバトンが渡された。

「礼央名くんだ!」

 礼央名くんがバトンを受け取って走り出した。前を走っている子を、すごいスピードで追い抜いて行く。

「頑張れー!」

 みんなが声を張り上げるのにあわせて、わたしも精一杯声をだした。

 そして、礼央名くんはダントツ一位でゴールを切った。

 両手をあげて嬉しそうに笑う礼央名くんを見て、わたしも胸が熱くなった。


 閉会式が終わって、みんなが疲れたー、と口々に言いながら教室まで椅子をはこぶ。

「そういえば柚子、さっき何言おうとしたの?」

「えっ? ああ、なんでもないよ。早く教室もどろっ」

 柚子はそう言って、椅子を持ち上げてすたすた歩いていった。

 そして、帰りのホームルームが終わるとすぐ、柚子はいつもみたいに忙しそうに帰ってしまった。

 なんだったんだろう?

 教室を出て、帰ろうとしたとき。

 廊下の先に背の高い男の子が背をむけて立っているのが見えて、えっと目を見開く。

 突き当り――家庭科室の前に立っていたのは、玲央名くんだった。

「田端くん……?」

 うしろからそうっと近づいて、声をかけた。

「わっ!」

 玲央名くんがビクッと肩をゆらしてふりむいた。

「びっくりした、園田か。どうしたの?」

「もしかして、田端くんも家庭科室に用事があるの?」

「あ……えっと」

 玲央名くんが何か迷うように目を泳がせた。

 そのとき、はっと思い出した。



『大丈夫、大丈夫。ちょっと疲れて休んでただけだからさ。心配かけてごめんな』


 あのとき、礼央名くんが持っていたもの。

 ほんの一瞬しか見えなかったけれど、ずっと引っかかっていた。

 わたしのピンクのうさぎと色違いの、黄色のうさぎに見えたから。


 ――なんで礼央名くんがそのうさぎを持ってるの?


 あれは、ほかのどこにも売っていない。

 瑠璃ちゃんが作った、世界にひとつだけしかないものだ。

 もし、見間違いじゃなかったら。

 礼央名くんも、瑠璃色雑貨店に行ったことがあるの?

 そう聞きたかったんだ。

 いつも言いたいことを言えなくて、タイミングを逃して、後悔してばかり。

 そんな自分が嫌だった。

 変わりたいと思った。

 聞くなら、いましかない。

「あのっ」

 わたしは思いきって口を開いた。

「さっき持ってたうさぎの人形って、もしかして、瑠璃色雑貨店で買ったの?」

 え、と玲央名くんの目が大きく見開く。

「園田、知ってるの?」

「うん」

 わたしはドキドキと鳴る心臓をおさえながら、うなずいた。

 やっぱり――やっぱり、そうだった。礼央名くんもあのお店に行ったんだ。瑠璃ちゃんに会ったんだ!

「わたしも、ここでそのうさぎ買ったんだ」

 体操服のポケットから、ピンクのうさぎを取り出して見せた。

「え、ほんとだ」

「お店が開くのは四時からなんだって。瑠璃ちゃんが言ってた」

 玲央名くんは見るからにがっかりしている。

 いまはお昼の十二時で、扉のふしぎな光も見えなかった。

「なんだ、そっかあ」

 礼央名くんががっくりと肩を落とす。

「じゃ、いまは何もないのか」

 ためしに扉を開けてみたけれど、そこはいつも通りの、大きな机が六つ、壁際に調理台が四つ、その奥に先生が座る席がある、見慣れた家庭科室だった。

 まるで、四時から五時のあいだだけ、ここがべつの世界になってしまうみたい。

 でも瑠璃ちゃんはどう見たって日本人だし、言葉だって通じる。なのに、どこを探しても見つけられないんだ。

「信じられないよなあ。学校の中に雑貨屋があるなんて。あの着物の女の子も見たことないし」

 玲央名くんが机に手を触れながら言った。

「うん、わたしも初めて来たときはびっくりした」

 放課後の家庭科室に行くと、そこには瑠璃ちゃんがいた。

 いらっしゃい、ってにっこり笑って。

 四時になると開くふしぎな雑貨屋。

 着物姿の小柄な女の子。

 そんな話は聞いたこともなかった。

 だから、瑠璃ちゃんもあのお店も、わたしにしか見えない幻なのかもしれないって思ってた。

 でも、わたしだけじゃなかった。

 わたしだけじゃなく、玲央名くんにも見えるなら、幻なんかじゃない。

 瑠璃ちゃんは、ちゃんとこの世界に存在する女の子なんだ。

「そういえば、田端くんはなんでこのお店に来たの?」

「ああ、昨日は運動会の準備でサッカーできなかったから、裏庭でひとりでボール蹴ってたんだ。うちマンションだからうちでできないからさ。そしたら家庭科室の窓が光ってるのが見えて、気になって行ってみたんだ」

「そうだったんだ」

 わたしは学校がある日は毎日着ていたけれど、昨日は先生に言われて早く帰った。だから礼央名くんと会わなかったんだ。

「中に入って、びっくりした。家庭科室のはずなのに、いつもと全然違うし、着物着た女の子がいるし。それに……」

「それに?」

「かわいいものが、たくさんあった」

 玲央名くんが、ちょっと照れくさそうに、そう言った。


「俺、玲央名なんて女子みたいな名前だし、昔からかわいいものが好きで、女の子みたいってよくからかわれてたんだ」

 家庭科室の机にもたれて、礼央名くんが言った。

「それが嫌でサッカーはじめたんだ。夢中で練習してるうちに気づいたら足が速くなってて、リレーにも毎年選ばれるようになって……終わったから白状するけど、ほんとはすげー嫌だったんだ。」

「えっ、そうなの?」

 全然、そんなふうに見えなかったのに。

 おどろいているわたしを見て、礼央名くんが苦笑した。

「情けないよな。任せろとか強気なこと言っといて、ほんとはプレッシャーにめちゃくちゃ弱いし緊張しまくりなんてさ」

「な、情けなくないよっ!」

 思わず、大きな声で言った。

 いつも堂々としてて、明るくて、人気者の玲央名くん。

 嫌そうな顔なんて一度も見たことなかった。

 だから、みんなが頼りにしたくなるんだ。強がりだってなんだって、すごいことだと思う。

「うまく言えないけど……情けなくなんて、全然ないよ」

「ありがとう」

 玲央名くんは笑ってそう言った。

「昨日、ここに来て、びっくりしたけど、嬉しかった。ワクワクした。いつもは恥ずかしくてじっくり見れないけど、ここでは好きなだけ見れたから」

「わたしも、いつもお金なくて買えなかった雑貨が、ここならえんびつと交換できちゃうんだもん。びっくりしたよ。あんなに手が込んでるのに、えんびつなんかでいいの? って」

「それ! 俺は消しゴムだったな」

「えー」

 顔を見合わせて笑った。

 玲央名くんとこんなにたくさん話をしたのは初めてだった。

 同じクラスだけど、いつもみんなに囲まれていて、どこか遠い存在だった礼央名くんが、いまは、となりにいる。

 ふつうに話せてる。

 ドキドキする。でも、おなかは痛くならなかった。

 すっごく、楽しい。

 そう感じるのはきっと、近くにいるってだけじゃなくて、玲央名くんが素直な気持ちを話してくれたからだ。

 いまなら、わたしも素直に言える気がした。

 手に持っていたピンクのうさぎをぎゅっと握りしめた。

「あのね、いまさらだけど……」

「ん?」

 いまさらこんなこと言うのは変かもしれない。

 もうとっくに忘れてるかもしれない。

 でも――

「この前、田端くんがわたしの筆箱かわいいって言ってくれて、ほんとは、すごく嬉しかったの」

 『嬉しかった』

 そう思ったことは、間違いなく私の気持ちだから。

 人からしたら、そんなこと? って思うようなことかもしれなくても、わたしにとって大事なことだから、簡単に言えなかったんだ。

 「あの筆箱ね、大切な人からもらったものなの。だから、どうしても言いたかったんだ」

 やっと、言えた。

 いま、ここに瑠璃ちゃんはいないけど。

 なんだか瑠璃ちゃんが、頑張って、って背中を押してくれたような気がした。

「そっか。なら言ってよかったな」

 礼央名くんは、にかっと笑ってそう言った。

 覚えてくれてた。そんなこと、って馬鹿にしたりしなかった。礼央名くんがそういう人じゃないって、最初からわかってたのに。

「あと、玲央名でいいよ」

「え?」

「さっき、玲央名って言ってたじゃん。俺も杏って呼ぶし」

 わたしは『さっき』の意味を理解して、顔がぼんっと熱くなった。

 そういえば、運動会のとき。

 具合が悪いのかと思って、あわてて叫んだんだった。


『礼央名くん! 大丈夫!?』


 ……って。

 そんなことまで覚えてなくていいよ!

 

 ☆


 かわいらしいピンク色の生地に、丸いつぶらな瞳。

 ちいさなうさぎを、わたしは手のひらに乗せた。

 偶然だけど、これって、礼央名くんとおそろいってことだよね……?

 ど、どうしよう……いや、どうもしなくていいんだけど。なんかものすごく、恥ずかしいような、くすぐったいような気分だ。

 おそろいが苦手だった。仲良しってことをわざわざみんなにアピールするみたいで。

 でも、それだけじゃないのかも、っていまなら、ちょっとわかる気がした。

 おそろいのものを持ってると、強くなれる。

 ひとりじゃないよって、そう言ってくれている気がするから。


 ☆


「杏、おはよ!」

 月曜日の朝、教室に入るなり礼央名くんが声をかけてきて、びっくりした。

 みんなもびっくりしている。昨日までとくに仲良くもなかったのに、いきなり名前で呼んだりしたらそりゃそうなるよ……。

「ちょっと話したいことがあるんだけど、いい?」

 えー、なになに、とクラスメイトたちは興味津々だ。

「礼央名くん、あの、もうちょっと……」

 廊下に出て、わたしはごにょごにょと言う。

「もうちょっと?」

 きょとんと首をかしげる礼央名くん。

「ううん、なんでもない」

 わたしは首をふった。人気者は見られるのに慣れてるから、気にならないんだろうな。わたしはちょっと注目されただけで、どぎまぎしてしまうのに。

「えっと、話って?」

「あ、そうそう。サッカーやってる友達に聞いてみたんだ。四年生で瑠璃って名前の子知らないかって。そしたら、ちがう学校なんだけど、ひとりいるって」

「ええっ」

 さすが礼央名くん。顔が広い。しかも行動が早い!

「で、その子が今度うちの学校でやる試合、見に来るんだって」

 ドキリとした。もしかしたら、その子が瑠璃ちゃんかもしれないんだ。

「来週の土曜日なんだけど、試合見に来ない?」

 と礼央名くんが言った。

「行くっ!」

 わたしはおおきくうなずいて言った。

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