第49話 二人の選んだ道

 式が始まったのは夕刻だったが、教会から抜け出した頃にはすっかり日は落ちていた。瓦斯燈がすとうの眩い光が夜の町を照らす。千晃は光を頼りに、港まで続く道をひたすら走った。


 常軌を逸した行動をしていることは百も承知だ。教会から花婿を奪うなんて、許されることではない。ウィリアムの反応を伺うことさえ怖かった。それでも、繋いだ手は離したくなかった。


 赤レンガ倉庫まで辿り着くと、息を切らしながら足を緩める。港には巨大な蒸気船が停泊していた。


「はぁ、はぁ……ここまで来れば大丈夫か」


 幸い追手はいない。停電騒ぎに乗じて逃げてきたから、気付かれることなく抜け出せた。照明機器が直った頃に、花嫁も花婿もいなくなっている事実が発覚したら、大騒ぎになる。想像しただけで寒気が走った。


 浅い呼吸を繰り返していると、ウィリアムが口を開く。


「アキ、どうして……」


 ウィリアムは、青ざめた表情で千晃を見下ろしている。薄い唇は僅かに震えていた。そんな彼を安心させるように、千晃はきっぱりと伝える。


「ウィルの花嫁は僕だ。だから奪いに来た」


 迷いのない瞳で告げたものの、ウィリアムは千晃の手を解き、かぶりを振る。


「私は、アキを殺そうとした。それにタキからも、受け取っただろう?」


「うん、全部読んだ」


「あれは、ただの小説ではない。現実に起きたことだ……」


 やはり、ただの創作ではなかったようだ。それでも千晃の心は変わらない。ウィリアムによって解かれた手を、今度は両手で握り直した。


「それでも、僕はウィルの花嫁になりたい」


「どうして……」


「そんなの、愛しているからに決まっているだろう!」


 紅玉の瞳を見据えながら、堂々と口にする。恥ずかしいことを口にしていることは百も承知だが、撤回することはなかった。


 ウィリアムは信じられないものでも見るかのように目を瞠る。紅玉の瞳が僅かに滲んだが、すぐにかぶりを振って距離を取ろうとする。


「駄目だ。私は化け物だ。傍にいれば、アキを殺してしまうかもしれない」


 千晃のもとから離れた理由は、予想していた通りだった。激しい吸血衝動に襲われて、千晃の殺めてしまうことを恐れたのだろう。


「僕から離れて、どうするつもりだったの?」


 離れようとするウィリアムの手を、きつく握り締めながらながら問う。千晃のもとから離れても、吸血衝動がなくなるわけではない。考え得る方法は二つだ。


 別の人間から血を奪って生きながらえるか、奪うことをやめて生を手放すか。どちらも悲しい選択だ。ウィリアムが選んだのは後者だった。


「終わりにしようと思ったんだ。結婚式が終わったら、会社を九条財閥に譲渡する予定だ。身の回りの整理が付いたら、屋敷で誰とも接触することなく死を待つ。そうすれば、もう誰も殺すことはない」


 吸血鬼は、血を得られなくなれば命を落とす。自らの意思で血を断つことで、終わらせるつもりだったのだ。そんなのは、千晃の望む結末ではない。


「駄目だ。ウィルは、僕と一緒に生きるんだ」


 もう二度と人を殺させない。自分のことだって殺してほしくはない。


 ウィリアムは、千晃のことだけは殺さなかった。奪うことしかできなかった彼が、唯一生かした人間だ。その奇跡を信じたかった。


「これからは僕の血だけを吸えばいい。何年だって何十年だって与え続けるから。吸い尽くしそうになっても全力で止める。だから……」


 千晃は、願いを込めて微笑む。


「一緒に生きよう」


 届いてほしかった。この先も、ずっと一緒にいたい。


 夏は花火を見て、秋は紅葉を見て、冬は雪を見る。そして再び春が訪れたら、一緒に桜を見る。そんな穏やかな日々を何年、何十年と繰り返したかった。


 紅玉の瞳から涙が零れ落ちる。何度も何度も零れて、白い頬を濡らした。ウィリアムは、声を震わせながら言葉を絞り出す。


「私は、ずっと、アキのような存在を、求めていたのかもしれない」


 願いは届いたようだ。背伸びをして涙を拭おうとしたところで、ふわりと抱き寄せられた。


「私も、アキと生きたい」


 それは、これまで告げられたどんな言葉よりも嬉しかった。タキシードの胸元に顔を埋めると、心が安らいだ。


「うん」


 しばらくは、互いの存在を確かめ合うように抱き合っていた。波の音も、潮の香りも、頬を撫でる風も、すべてが心地よかった。


◇◆


 港で停泊していた蒸気船が、汽笛を鳴らして出港する。音に反応して腕を解くと、ウィリアムは穏やかに海上を進む蒸気船へ視線を向けた。


「彼らも旅だったようだね」


 千晃は首を傾げる。どこか誇らしげなウィリアムの横顔を眺めていると、ある事を思い出した。


「そういえば、秋穂さんは? 聖堂に周作さんが現れて、それで……」


 千晃がウィリアムを奪う前に、周作は秋穂を奪っていった。あれは一体何だったのか?


「彼らは今、船の上だ」


「船!?」


 ウィリアムにつられるように、千晃も視線を向ける。巨大な蒸気船は、月の光に導かれるように旅立っていった。


 ぼんやりと眺めていると、ウィリアムは表情を緩ませながら真相を明かす。


「結婚式当日に、周作くんが秋穂さんを奪う。これは私の考えたシナリオだ。九条家との会談を終えた後から、秘密裏に準備を進めていたんだ」


 そんな話は聞いていない。種明かしをされても、すぐには理解できなかった。


「どうしてそんなことを……」


「これだけ派手に奪ってくれれば、周りも納得させられる。花嫁に恋焦がれていた男が式場に現れて奪い去る。最高にロマンティックなシチュエーションだろう?」


 ウィリアムは、まるで悪戯に成功した子供のようにほくそ笑んでいた。開いた口が塞がらないというのはこのことだ。


「ちなみに今日の式には、新聞記者も招いている。今日の出来事は、近いうちに記事になるだろうね」


 驚きは次第に呆れへと変わっていく。まさかそこまで根回しをしていたなんて。


「そんなことを企んでいたのか……」


 すべてが仕組まれていたことだった。二人が一緒になれたのは喜ばしいことだが、安心するのはまだ早い。あの九条社長が簡単に諦めるとは思えなかった。


「逃亡したとしても、また九条社長が見つけ出すんじゃ……」


 千晃の懸念なんて、当然ウィリアムも想定済みだったようで、くくくっと喉の奥で笑う。


「九条社長は『この国にいる限り、必ず見つけ出す』と言ったんだ。だから彼らを異国へ逃がした」


「異国!?」


「ああ、私の故郷である瑛国にね。瑛国に着いたら、私の知り合いを頼るように伝えておいたから、当面の生活には困らないだろう」


 まさかそこまで入念に準備を進めていたとは思わなかった。確かに異国へ逃がせば、いくら九条財閥とはいえ見つけ出すのは困難だろう。


 頼る先をあらかじめ押さえておけば、異国の地で路頭に迷うことはない。二人も安心して異国へ旅立てるというわけだ。


「それに二人には、瑛国で生きる術も教えてある」


 生きる術というのはすぐにはピンとこなかったが、これまでの言動を思い返すと心当たりがあった。


「もしかして、秋穂さんに瑛語を教えていたのは……」


「ああ、瑛国で生き抜くためだ」


 千晃は脱力する。ウィリアムが秋穂に語学を教えていたのは、夫婦の絆を深めるためと思っていたが、そんな意図があったとは……。それなら秋穂が熱心に勉強していたのも頷ける。


 ウィリアムと秋穂が出かけていたのも、出国の準備をしていたからだろう。すべてがこの日のために仕組まれていたことだと気付き、納得した。


 ただ、ひとつ腑に落ちないことがある。


「どうして僕に計画を明かしてくれなかったんだよ! トヨさんや滝沢さんも計画を知ってたんだろ?」


「ああ、みんな知っていたよ。トヨには異国へ旅立つための荷造りを手伝ってもらったし、式場での統制も任せていた。タキには秋穂さんと周作くんを港へと送迎してもらった」


「ということは、知らなかったのは僕だけ?」


 もっと早く知らされていたら、悩むこともなかった。憤りを込めて睨みつけると、ウィリアムは肩を竦めた。


「申し訳ない。これに関しては、私の欲が原因だ」


「欲?」


 怪訝そうに眉を顰めていると、ウィリアムは呆れてしまうような理由を白状した。


「アキを嫉妬させて、愛の言葉を引き出したかったんだ。秋穂さんと結婚式を挙げると伝えれば、アキも本気になって私に告白してくると踏んでいたんだが……」


 ウィリアムからは、秋穂との結婚式を執り行うと告げられた。その言葉がきっかけで、千晃は血を全て差し出すなんて馬鹿げた真似をしてしまったのだ。


「アキだけは、シナリオ通りには動いてくれなかった。その結果、あんなことになるなんて……。その点に関しては、深く反省をしている」


 ウィリアムは、深く頭を下げて謝罪した。文句を言ってやりたかったが、素直に謝られると強くは出られなくなる。黙り込んでいると、ウィリアムは気落ちしたような声色で言葉を続けた。


「先日の一件で見せてしまったように、私には強い吸血衝動がある。アキに誘われたら、自制心が効かなくなる」


 誘うなんて言い方をされると、自分がふしだらな行為をしていたように思える。カアアと顔が熱くなり、ウィリアムから視線を逸らした。


「私は化け物だ。それはアキだって分かっただろう? 過去には何人も人を殺めている。その罪は、この先どれだけ善行を働いても消えることはない」


 ウィリアムがただの人間ではないことから最初から分かっていた。初めて血を吸われた時は、化け物に喰い殺されると思ったくらいだ。


 それでも千晃は、ウィリアムの傍から離れなかった。吸血衝動で我を忘れた姿を見ても、幻滅することはなかった。


 もちろん、ウィリアムが人を殺めた過去は許されることではない。希死願望のある人間を選んでいたとはいえ、罪が軽くなるわけではないだろう。その点に関しては、千晃も許すつもりはなかった。


「アキは、化け物の私でも受け入れてくれるのか?」


 過去の罪は、変えられない。どれだけ悔やんでも。


 だけど、未来なら変えることができる。


「さっきも言っただろ。僕は、ウィルと一緒に生きたい」


 紅玉の瞳を真っすぐ見据えながら宣言する。もう迷うことはない。心の中は、青い海のように澄み渡っていた。


 ウィリアムの瞳が再び潤む。想いは通じたようだ。感極まったように深く息をつくと、ウィリアムは地面に跪いて千晃の手を取った。


「随分遠回りしてしまったけど、もう一度言わせてくれ」


 千晃が小さく頷くと、ウィリアムは誠実な眼差しで告げた。


「アキ、私の花嫁になってほしい。私の持てるすべての愛を、アキに捧げると誓うよ」


 情熱的な言葉に心が震える。真っすぐに愛の言葉を伝えてくれたことが嬉しかった。千晃は穏やかな微笑みながら応じる。


「喜んで」


 ウィリアムは千晃の手の甲にキスを落とす。顔を上げた時、ウィリアムも微笑んでいた。


「屋敷へ戻ろうか」


「うん」


 二人は穏やかに微笑みあってから、屋敷へと繋がる異人館街の坂を登った。




第50話はカクヨムの規約上非公開となります。

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