ゆめのひと
汐
第1話 襲った美しさ
雪の花とはなんとも言い難い美しさがあるのだ。それは根元に死体が埋まっていると話題の桜とは別種のものといえる。夏には青々と茂り常磐木の中に埋もれ、冬には枯れた枝を伸ばしている癖に、春には蕾が順々に開いて並木通りを染めていく。桜前線異常ナシである。
そして人の心を掴んでおきながら、夜のうちに雨風に晒されて散っていく。起きた時の落胆は激しいものであろう。もちろん人の前でも散っていく。はらはらと花びらが生命の源からふつりと離れその命を散らしていくことの燃える心は、寿命があるからこそ輝く人間の魂と似ている。
その対極にあるものこそ冬の花である。例えば椿。早咲きのものは真冬に咲くらしい。儚さというよりは血のように真っ赤な花弁を幾重にも重ねていて芯の強さが感じられた。葉は柔らかく曲線を描いていて、酷く動揺させる人の心を和らげる。なんとも不可思議。
勿論白い椿も赤と白の斑模様の椿もあるので、不可思議を極めたような見た目をしている。より人の心を狂わせる気がしてならない。桜だって山桜なんかは白く神聖だが、その魅力は優しさとうっとりとさせる魅惑、目を逸らすことを許さない蠱惑的なもの。狂わせる種類が違うのだ。
さて、ここまでは前置きである。S県郁町ではその桜と椿が一斉に咲くという珍事が巻き起こった。美しさにまみれるその姿だけを見れば椿事であるが、人の心は美しさからは少しづつ離れ、いつまで続くのだろう、何かの前触れか、科学的にはどうなんだ、と不安になっていった。何せ狂わせるのは上手い花たちである。その不安と相まって美しさは恐怖へと変貌していった。
朝カーテンを開ければ白い椿、首を振って空を見れば満開のピンク色をした桜、散歩しようものなら桜咲く道を椿が彩って際限ない。頭がおかしくなりそうな状況に次第に郁町の人々は家に閉じこもっていった。勿論散った花が窓を埋めつくしたあれを見たくないので、雨戸もがっちり閉めたのである。あれはトラウマだった。花たちの監視としか思えない。
じゃあ食料はどうするか。今どきはネットで注文できるので、郁町の人々はネットに張り付いた。とはいえ、百人規模の町の人が一斉に頼んだものだからトラックが行き交って仕方がない。花たちの監視から散った花を踏むタイヤの音に怯えていた。運転手もまた例外ではない。 桜はともかく、ころんと首がもげたような椿を踏みつけるのはなかなかに堪えた。軽い振動も起こるわけだ。1回や2回ならまだしも何度も何度もである。そうして町外の人もまた、桜と椿に魅了され、取り込まれ頭の中を埋め尽くされていって、春と冬が来ることに怯えることとなる。感染。呪いの感染のようであった。
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