神の計画

戦のあと

〈少女〉は桃の香りがする。フェールは軽く口づけし、耳元にささやいた。

「おまえの名前、まだ思いつかないんだ。二人目だから〈二人目〉でいいかな」

「はい、ご主人様」

 緑の瞳が見つめ返す。天鵞絨のひとえも瞳と同じ緑。体にぴたりと添い、深い襟ぐりから胸の谷間がのぞいている。胸元を〈旧式〉の首飾りが彩る。

 フェールは腰の巾着を開き、金貨を一枚取り出した。親指ではじくと、〈少女〉売りはうれしそうに天を仰ぎ、両手を掲げ、金貨を捕まえた。もう一枚。〈少女〉売りは戦場にまでやってくる。戦といってもただの遊戯、王侯どもの暇つぶしに過ぎないのだが。

 さらにもう一枚。足代だ。

「どこから来た」

「ニーヴンから参りました、お若い旦那様。戦は見事な勝利だったようで」

「前にも会ったな。名は?」

「名乗るほどの者じゃございませんが、グイドと申します。それで、買い取りってことでまちがいございませんね? 楽しんでくださいよ。めずらしい生娘ですからね」

 十七の小僧にへこへこと頭を下げながら去っていった。この世はカネがすべてだ。

 フェールは革紐付きの鞘を担ぎ直し、〈二人目〉の腰を抱いた。甘えるように見上げ、寄り添い、柔らかな胸を押しつけてくる。革鎧を着ていては楽しみもなにもない。

「よし、戻ろう。仲間を紹介するよ。いいやつばかりだから心配ない」

「はい、ご主人様」

 戦場はいまだに土煙が立ち込めている。広大な麦畑を、千の軍馬と万の歩兵が踏みつぶした。人や馬の死体が転がるなか、〈帝国〉と〈王国〉の歩兵が仲良くへたり込み、だべり、飯を食っている。都市に住むやつらや村の百姓は、戦を本気の殺し合いだと信じている。だったら戦場に休憩所など設けないだろう。戦は博打と同じ。王侯や名のある騎士を捉え、身代金を頂戴する遊戯なのだ。

 結果は、われらが〈帝国〉軍の圧勝ということになっている。王ユードは敗走、皇帝ケンプスと騎士連中は現在、近所の聖パトルス修道院で典礼を執り行っている。これから皇帝は神の代理となり、神の地の平和を司る、のだとか。フェールは戦のたびに、政治とやらについて考える。今回の戦は茶番も茶番、皇帝と王は中州で会合を開き、事前に勝敗を決めていた。戦は昼の鐘から一時間ほどで終わった。今回の勝ち負けにはどんな意味があるのだろう。わざわざ負けて、ユードにはなにか利があるのだろうか。

 飯屋の屋台を通り過ぎ、百姓の死体をまたぎ越える。フェールは頭を振った。政治などどうでもいい。戦で稼ぎ、妹を養う。役立たずの親二人も。カネは売るほどある。かわいい嫁さんも手に入れた。いまを楽しむだけだ。

 騎士がひとり、地べたに寝転がっていた。フェールは霞む空気越しにうかがった。陣羽織はぼろぼろだが、兜を脱いでいるのでだれだかわかった。

「ちょっと待っててくれるか? 〈王国〉の騎士殿に挨拶してくる」

「はい、ご主人様」

 歩み寄りながら鞘の留め金を外した。相棒の長剣をすらりと抜く。刀身は茜色、平には蔦のような文様がびっしりと彫り込まれている。十三のころからこいつで食ってきた。

 騎士はフェールに気づいた。急いで上体を起こし、言った。

「わたしはオルダネーのボーム。わたしの兄はオルダネーの公にして、王女イーファの夫となるディアミドだ」

「いちいち言わなくてもわかってるよ。〈王国〉の騎士はぜんぶ頭に入ってる。もしかして保証人が見つからなかったのか?」

 ボームはこくりとうなずいた。濃い茶色の眉を下げ、いまにも命乞いをしそうに見えるが、あれがふつうの顔なのだ。

「兄が王女様と結婚するってことは、ユードの親戚になるってことだろう? 王はあんたには身代金を出さないってことか。そんなこともあるんだな」

「見逃せ、〈旧式〉よ。わたしは生き、この恥辱をそそがなければならないのだ」

「捕虜になれないってそんなに悔しいことなのか」

 答えはない。偉い連中は話したいときだけ話す。

 フェールはボームの眼前に立った。情けない眉の下から鳶色の瞳が見つめ返す。

「おまえはいくつだ、〈少年〉」

「来年で十八になる」

「では、あと二年と少しか。大人になるのは恐ろしいだろう」

「いや。これでもいろいろ考えてるんだ。親父やお袋みたいにはならない」

 ボームの瞳に哀れみの色がにじみ出た。フェールは思わず目をそらした。〈旧式〉の武具はすべてを切り裂き、貫く。こいつのおかげで王侯は戦のたびに雇ってくれる。だが大人になると、柄に触れることすらできなくなる。無理やり触れると心の臓が止まり、死ぬ。大人になると戦で稼げなくなる。ただ死ぬまで生きていくだけになる。〈少年〉たちの稼ぎに頼りながら。

 フェールは鞘を捨て、長剣を構えた。

「哀れなのはあんたのほうだ。なんならおれが捕まえてやろうか? それともいっそここで死ぬか」

「おまえは、生まれついての〈少年〉なのだな。ゆえにあらがうすべを持ち合わせていなかった。〈旧式〉として生きていくよりほかに道はなかった。おまえの魂の安息のために祈ろう」

 フェールは右足を踏み出し、左肘を持ち上げた。ようやく恐れの色が浮かんだ。

「やめろ」

 腰を入れ、鋭く薙いだ。板金鎧に触れた瞬間、火花が散り、悲鳴のような音を立てた。

 山型に胸を守る部分ががしゃりと落ちた。フェールは勢いそのまま左肩の上で刃をまわし、振り下ろした。

 右胸の槍掛けが跳ね飛んだ。

「恥辱をそそぐ前に鎧を新調しなきゃな。王にねだるといい」

 口を開けたまま固まっている。フェールは笑い、背を向けた。鞘を拾い、〈二人目〉の元に引き返しながら、湧き出る苦いつばを吐いた。あと二年と少しで何者でもなくなる。


 土埃の奥から四輪の荷車が浮かび上がる。即席の屋台に歩兵が群がり、飯と酒を求めている。買えた者は畑にすわり、チーズや汁物を食い、酒を飲む。呼び売りが担いだ棒に靴をぶら下げ、いらんかねいらんかねと声を上げている。

 仲間が見えた。〈旧式〉の武器を手に、外向きに円陣を組んでいる。全員男、いちばん若いやつは十二。輪の中には大切な人質がいる。〈少年〉に手を出すやつなどいるはずもないが、念のために守らせている。

 アルムの伯爵ゲランが輪の外縁に立っていた。フェールに気づくなり、親しげな笑みを浮かべながら近づいてきた。われらがフュートの砦の守護者で、戦のたびに雇ってくれる。面倒な手続きや食糧の確保などもやってくれる。手数料はかかるが。

 ゲランは肩に手を置き、力強く揺すった。

「よくやった、隊長。おまえの隊の働きのおかげで、二十もの騎士を捕らえることができた。それも大物ばかりだ。皇帝はおまえの名をご存じだったぞ」

 ゲランに〈二人目〉を預け、輪の中に入った。王女イーファは輪の中心でひざまずき、こうべを垂れていた。年は十九、女丈夫の戦好きだ。戦のあと、皇帝は労をねぎらい、上機嫌で与えてくれた。なぜ王女をくれたのかはわからない。これも政治というやつなのか、と考えかけ、やめた。王女なら金貨六百はかたい。もう少しふっかけてみようか。

 イーファの正面に立ち、告げた。

「断食の日までに八百リブレ。あんたの親父は払えるかな」

 王女は面を上げた。月の眉を吊り上げ、狼の瞳をぎらぎらと燃やしている。顔は血と土埃で汚れ、編んで巻きつけたお下げ髪が外れて肩に垂れ下がっている。

「わたしにそのような口を利く者がおったとはな」

「砦ではそれなりにもてなすよ。王女様はどんな味がするのかな」

〈少年〉たちがげらげらと笑う。イーファは地面につばを吐き、うなるように言った。

「がっかりだ、やはり下民は下民か。〈旧式〉の剣持ち、知るは戦のみ、世のことはなにも知らん。恐るべき計画にかけらも気づいておらん。なぜ生きるのかも知らぬまま大人となり、ただ食い、死ぬ。だがもうしまいだ。おまえらはこれより正真正銘の家畜となるのだ」

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