エルピスを探さないで

与野高校文芸部

エルピスを探さないで

 そこには一人エルピスのみが、堅牢無比の住居の中、箱の縁の下側に残って、外には飛び出なかった。

                  (『仕事と日』ヘーシオドス著 松平千秋訳)


目覚まし時計の控えめなベルの音が、私たちに朝を告げる唯一だ。真っ暗な中でどうにかベッドから身を起こしてベルの音を止めれば、すうすうとのんきな寝息だけが隣から聞こえてくる。手を組んで仰向けの状態で寝ている彼女の腕を軽く叩くと、くぐもったうめき声が暗い部屋の空気を揺らした。くぐもったうめき声が暗い部屋の空気を揺らして、衣擦れの音がするがすぐに止んでしまう。今度は肩を強めに揺らした。


「わかった、わかったってば、もう起きるから……」


 暗がりに溶け込むような寝起き特有の低い声とともにようやくその身体が動く気配がして、滑り落ちた掛け布団がばさりと鳴った。柔らかく乱れた長い髪の間からちらりと見える瞳が私を覗いて、ふんわりと綻んだ。


「おはよう。」


 未だ夢から覚めきっていないようなゆったりした声が、彼女の乾いた唇から零れ落ちた。ベッドの上に座ったまま起き抜けの緩慢な動作で右手を伸ばして、私の右手をとる。私は口を閉じたまま、いつものように彼女の掌の上に右手の指を滑らせた。


『おはよう』


それがくすぐったいのか、彼女は毎朝決まってうふふ、と柔らかく笑うのだ。

 手探りでベッド脇に置いていた眼鏡を取ってかける。ベッドから降り、傍のカーテンに手をかけて静かに開ける。どれもこれも、意味のない行動かもしれない。眼鏡をかけたところで、足元がようやく見えるか見えないかの暗さで満ちたこの家の中では視界はほとんど変わらない。カーテンの向こうはシャッターが閉め切られていて、一縷の朝日も入ってこない。


「なのにどうして真っ暗じゃないんだろうね。毎朝思うの。」


 そう言いながら同じようにベッドから降りる彼女の右手をとる。


『君がいるから』


と返すと、彼女は冗談だと思ったのかそうかなとだけ言って小さな欠伸をした。最初のうちはお互いに酷くぎこちなかったこの指先越しのコミュニケーション方法も、今では息をするように慣れきってしまった。


「私、もうずっと暗闇の中で生きていくんだと思ってた。」

『薄明りは怖くないんでしょう』

「怖くなくなったんだよ。でもまだまだ外よりずっと暗いじゃない。」

『それでも、たしかに前に進んでる』


ぬるい体温の少し硬い指先が、形を確かめるように私の指を撫でた。そして、両手で祈るような格好で包み込む。ぼんやりとした暗い影が俯く。


「私のこと、面倒だと思わないの?」

『思っていたら一緒に居ないでしょう』

「胸の内はわからないじゃない。」


 足元に重く沈む彼女の声に、慌てて右手を動かして文字を書こうとして彼女の両手を振り払ってしまった。一層慌てて両手を動かす。口をぱくぱく動かしたり、頭をぶんぶん振ってみたり。思いつく限りの方法で意思疎通を図る私を、ころころと鈴のような笑い声が遮った。


「そういうことにしておいてあげる。」


 私は変な恰好で固まっていた両手を降ろして、返事の代わりに彼女の手をとり直した。ささやかな笑い声。私はそれだけでずっと救われるのに、全く上手く彼女に伝わらない。


 一文字一文字をかみ砕くようにして行われる、スローペースなコミュニケーション。何故なら私は声を出してはならないから。紙に綴っても、この暗さではいつかふたたび光を映すはずの彼女の目を悪くしてしまうから。


「人が、声が、光が、怖いの。」


 唐突だった。電話越しに聞こえてきた、あの涙をこらえる幼子のような声を覚えている。走って、走って、彼女の元に押しかけて。『にげよう ふたりで』そう彼女の掌に指で書きなぐったのが、この生活の始まりだった。光も娯楽もなにも無い。ただ、平穏があるのみ。そんな彼女とふたりぼっちで過ごす無防備な日々に、私は次第に依存していった。しとやかに、平穏に息をするだけで過ぎ去っていく時間。しかし、この逃避行もいずれ終わりが来るだろう。その時をもたらすのはふたりの行方を追う者たちかもしれないし、光を克服しようとする彼女自身かもしれない。ただひとつ確かなことがあるとするならば、若葉は光がなければ枯れるのみで、花は光があって初めて一番きれいな花を咲かすのだ。


「外に、出てみようかな。」


 ぽつりと聞こえた声に思わず声が飛び出しそうになって、必死で飲み込む。何も変わらないままただ過ぎ行こうとしていたある日の夕暮れ。隣に座る彼女に腕を伸ばせば、固く握られた手に触れた。


「もちろん夜にね。暗いからきっと大丈夫。」


 穏やかな声。しかし、手には力が入って震えている。不安やら心配やらの言葉と一緒に真っ黒な欲望がぐるぐると胸の中を回って、私はただその手を上から握ることしかできなかった。


「大丈夫、大丈夫だよ。」

「聞いて、明日は新月なの。」

「ずっと日を数えてた。新月ならきっと大丈夫だからって。はやく踏み出さなきゃ、って。ずっと、この日を待っていたんだよ。」


そう言って私の方を見て、気丈に微笑んでみせた。


「君が私のことを好きでいてくれるうちに変わりたいの。」


なんて、眩しい。




 普段玄関に近づかない彼女が転ばないよう、手を引いて廊下を渡る。彼女の足取りはゆっくりで、わたしは決して急かさないように振り返りつつ歩く。


「心配しすぎ。大丈夫だって。」


 わたしがよっぽどひどい顔をしていたのか、宥めるような明るい声が響いた。


「夜に外出るのって、なんだかわくわくしない?」


そんな彼女の小さな気遣いが、私の胸を締め付けて止まない。生憎、今日はうんざりするほどの快晴だったらしい。

 ぎい、と音を立てて開いたドアの隙間から少し冷たい風が流れ込む。草花の匂い、水の匂い、土の匂いがぐるぐると混ざりあって足元から這い上がってくる。一歩踏み出せば靴の下で柔い茎が折れる感触がして、しっとりと湿った罪悪感が胸を重くした。

 二つの足音が流れていく。彼女はまるで歩くことを覚えたばかりの赤子のように、一歩一歩、ゆっくりと踏みしめるように歩いている。息を大きく吸い込んで、吐き出す。すぅ、と熱を持っていた心臓の奥が冷めていく。

 ゆるゆると歩幅が緩んで、止まった。するりと指先が離れて掌が軽くなる。驚いて彼女の方をみると、彼女は瞬きもせずにじっと首が痛くなりそうな格好で上を見上げていた。


「ねえ、」


 琥珀を連想させる彼女の瞳に、星の海がちかちかと輝いて息をのんだ。不規則にばら撒かれた数えきれない光。彼女の瞳に映されたミルキーウェイは、今までに見たことのない密度で瞬いている。


「星って、こんなに明るかったっけ」


 震える彼女の声。そのどんな星よりも綺麗な瞳からぽろ、と涙があふれて落ちた。

 思考よりも先に身体が動いたようで、思わず右手で彼女の固く震える左腕を掴んで引っ張り、左手でその視界を覆い隠す。あとで乱暴だと怒られるかもしれない。


『戻ろう』

『歩ける?』


右手でそう伝えると、彼女は小刻みに首を縦に振った。


『ゆっくり歩くからついておいで』


今度は大きく一度だけ首が振られる。私は彼女と向かい合った体制のまま、視界を奪った左手が離れないようドアに向かって一歩ずつ歩いていった。


 がちゃんとドアが閉まる重い音と同時に、彼女は足から崩れ落ちてそのまま玄関に座り込んでしまう。息は荒くも浅くも無く、ただ深い呼吸が繰り返されている。途中から呼吸音が二重なことに気付いて、それは自分も同じなのだと悟った。しばらくたって、息の合間から囁くような声が聞こえた。


「星、綺麗だった。」


背中は細かく震えていて、声はいつもよりもずっと小さい。けれど、ぽつりと零れ落ちた言葉は真摯に煌めいた。


「あのさ、声、聞かせてよ。今なら大丈夫な気がするの。」


煌めきが私の中にまで広がって、ぎゅう、と胸を締め付ける。けれど不思議と不快ではなかった。


「ねえ、お願い。私が、聞きたい。」


 乾いた息を吸う。喉の奥が冷たくなる。


「きれいだった、ねぇ。」


 みっともなく掠れた声が、他人事のように聞こえた。けれど確かに、私の喉は暗い空気を揺らした。どうしようもなく泣きたくなって、すとんと私も玄関に座り込む。

 きらきらと膜を張った彼女の瞳が真っ直ぐと私を見て、目尻を下げてくしゃりと笑った。反射して映る私の情けない顔が面白くて、私も笑った。


「眩しいねえ。」


 玄関で座り込んだまま二人、光を見失わないよう抱きしめた。





参考:東京大学社会学科学研究所希望学プロジェクト

   「希望を考える」コラム より

   「ギリシア神話『パンドラの箱』から」 河野 仙一(早稲田大学)

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