1-1 目撃者


 田之上理央たのがみりおは、コンビニ脇の路地にレンタカーを停めて様子をうかがっていた。助手席には三ヶ月前、興信所から届いた報告書の封筒がある。封筒の中身を取り出して、もう一度確かめる。目的の家は通りに面していた。最近、都会ではめっきり見なくなった平屋の借家で、小さな庭にはゴミが散乱している。同じ区画にもう四軒、借家が建っているが、興信所から聞いた話だと、人が住んでいるのは目的の家と隣の家だけらしい。どちらの家にも表札は出ていなかった。その二軒以外は荒れ果て、屋根に穴が開いていたり、窓ガラスが割れている。とても人が住めるような状態でないことは見て取れる。

 昨日から目的の家を見張っているが、まだ母親の姿を見ていない。昨日は朝八時十五分にランドセルを背負った小学生の女の子が出かけ、午後四時に帰ってきた。夜中になっても母親が帰ってきた形跡はない。子供は小学二年生と聞いていたが、随分背が高い。今日も女の子はさっき帰ってきたところだ。昨日と同じ服装だ。まさか、小学生の女の子が一人で住んでいるということはないだろう。一七半時を回った頃、女の子が出てきて隣家の戸を叩いた。隣家には七十を超えた男性が一人で住んでいると聞いている。

 しばらくすると男が顔を出し、女の子を招き入れた。その振る舞いから、どうやらいつものことらしい。

 理央は車を降り、そおっと裏庭に回って家の中を覗き見た。付近には田畑しかなく、少し離れたコンビニの明かりが、現代なんだと思わせてくれる。コンビニがなければ、明治時代だと言われても信じてしまいそうだ。野良仕事にくる人にさえ気を付ければ、姿を見られることはない。そもそもこんな夕方から田んぼに出てくる人はあまりいないだろう。

 女の子はちゃぶ台の上に本やノートを広げて勉強していた。男はテレビを見ているが、時折、女の子に勉強を教えている。

 理央は車に戻り、再び双眼鏡を手にした。十九時を回った頃、二人は食事を始めた。ここからだとよく見えないが、おかず二品とみそ汁の質素な食事だ。食事を終えると女の子が片付けをし、男が食器を洗った。それから三十分ほどしてから、女の子は自分の家に帰っていった。時刻は二十時十分。

 女の子が家に入ると、電気がついた。やはりまだ母親は帰っていない。

 零時を過ぎた頃から雪が降り始めた。みるみる周りが白く覆われていく。

 深夜一時を回ったころ、コンビニにタクシーが停まった。女が下りてきてコンビニに入る。そうとうな千鳥足だ。漫画のようにふらふらと歩いている。ここからだと顔は見えない。

タクシーは行ってしまった。彼女が女の子の母親、及川早苗おいかわさなえだろうか? 女は長いダウンコートを着ていた。フードを被ったので顔は確認できない。女が理央の乗った車の近くを通ったので、素早く顔を伏せるが、彼女は携帯を弄りながら、ふらふらと歩いていった。気づかれた様子はない。女は目的の家に入っていった。間違いない、及川早苗だ。

 もう十五年程前になるだろうか。理央は二十二歳の時、及川早苗に百万円をだまし取られた。借金をして工面した金だった。その金を返すため風俗で働いた。

 あの頃は早苗を見つけ出して殺してやろうと思っていた。だが、結婚してからは早苗のことは忘れていた。四ヶ月前、長野駅で見かけるまでは。

 興信所を使って調べ上げた。早苗は未婚の母になっていた。子供の父親は誰だかわからない。五年前に東京の町田市から、ここ長野県長野市に移り住んでいた。

早苗はうつ病を理由に生活保護を受けていた。だが、どうやらそれは仮病らしく、週二、三回、ネットで男を漁り、個人売春をしている。そして夜は男と遊び歩いている。若い男で、どうやらその男に貢いでいるようである。

及川早苗は子供の虐待で過去二回、通報され、児相の調べを受けている。通報者は隣に住む男性らしい。

相変わらず、どうしようもない腐った女だ。三十八にもなって何も変わっていない。

早苗のことを調べてどうするか理央は考えていなかった。殺してやりたいと思うが、あんなバカ女を殺して殺人犯になるのは割に合わない。何より、自分は今幸せなのだ。

 何か弱みをみつけて脅してやろうか? とも思ったが、金はおろか、あいつに失うものなんて何もない。子供は? 虐待を繰り返し、家にも帰らない母親だ。子供を大事にしているとは到底思えない。ならどうするか……考えている時、早苗の家から大きな音が聞こえてきた。理央は車を降りて家の裏手に回った。破れたカーテン越しに部屋の中がよく見える。

 酔った女がパジャマ姿の女の子を殴っている。空き缶を投げつけ、平手打ちをし、蹴り上げる。女の子は声をあげずに耐えていた。

 その時、女の顔がはっきりと見えた。――早苗じゃない! 理央は声をあげそうになった。誰? 誰なの?

理央がどうしたらいいか考えあぐっている時、玄関の開く音がした。入ってきたのは隣に住んでいる男だった。女が包丁を持ち出して男に突きつける。女の子が包丁をもった女に飛びかかる。それから後のことは理央にもよくわからない。気が付くと、倒れた女の上に女の子と男が覆いかぶさっていた。

二人が立ち上がるとそこには胸を刺された女が倒れていた。目を開けたままピクリともしない。死んでいるのだと確信した。

理央はその場を携帯カメラで撮った。後で思えば、フラッシュが光らなくてよかったと思う。雪の中を走って車に戻ると、急いで現場を後にした。


 翌日ホテルで見たニュース、及び翌週のワイドショーで、あの女が誰か判明した。やはり及川早苗ではなかった。

 ワイドショーによると、女は腹部を刺されて死亡。通報者は隣に住む男性だった。

 なぜ、地方で起きた一殺人事件がワイドショーで取り上げられたかというと、殺された母親がわが子を虐待していたことが判明したからだ。昨年も似たような事件が全国で起きていて、中には子供が両親を殺した事件もあったからだ。

 今回も犯人は実の子供じゃないか? という憶測もあったが、被害者の娘が、深夜に母親と言い争う男の声を聞いていたこと、隣人の男性も同じ時刻、大きな物音と男の声を聞いたと証言。更に同じ時刻、コンビニの店員が、急いで走り去る銀色の車を見たという。現場付近の状況から見て、犯人は銀色の車に乗って逃走したものと考えられている。その時間、確かに、雪が降っていたにも関わらず、猛スピードで走り去る銀色のコンパクトカーがコンビニの防犯カメラに写っていた。残念なことに、当時は大雪の為、足跡やタイヤの痕跡はすでに無く、防犯カメラの解析でもナンバーまではわからなかったし、運転者の特定もできなかったという。


銀色のコンパクトカー……わたしだ。理央はあの日借りたレンタカーを思い出した。わたしが疑われる? いや、あり得ない。万が一疑われたら、この写真を見せればいい。そう思って理央は驚いた。今の今まであの日撮った写真のことを忘れていた。

 警察に本当のことを言うべきか? いや、そんなことをしてわたしになんの得がある? そもそもなぜあんなところにいたのか? と聞かれるだろう。

 家賃二万五千円の借家に住む老人と、両親のいない小学生……強請ゆする対象にもならない。

 翌日、理央は興信所に抗議の電話を掛けた。勿論、自分があの家に行ったことは伏せた。

三日後、興信所から報告書が届いた。興信所が調べた当時は確かに、あの借家に及川早苗とその娘が住んでいた。だが、その一週間後、及川早苗親子は一年分の家賃を踏み倒して夜逃げをした。そしてその二週間後に、あの親子が引っ越してきたのだった。

 最初に興信所から報告を受けてから、実際に理央があの家に行ったのは三ヶ月が過ぎていた。夫の仕事のフォローや、政男の不祥事などが重なって、すぐにまとまった時間がとれなかったのだ。

 この事件について、理央は忘れることにした。

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