虫も殺さぬ

おくとりょう

虫と彼

 すごく頼りなさげな人が入社してきました。伏し目がちで、いつもボソボソと弱々しい声で話す小柄な男の人。前職は事務だったらしいのですが、ウチでは営業になることになりました。元々は理系の出らしく、『物腰の柔らかな理系営業』を探していた我が社としてはぴったりの人材だったのだとか。

「力仕事も頑張りますので」

 伏し目がちに真っ黒な目を震わせ、自己紹介する彼。物腰柔らかというより頼りない。乱暴な口調で声の大きい先輩方ばかりの我が社で、潰されてしまわないか心配でした。

 ただ、仕事ぶりは見事でした。単純な雑用も真摯に素早くこなすし、電話や来客時の対応もビジネスマナーの教科書のように丁寧でした。きっと営業先でもそうなのでしょう。何より私がびっくりしたのは、キーボードを打つときに音がしないこと。私も含め、社内のみんな“カチャカチャカチャ、ターンッ”とやってしまうのですけど、彼は全然音がしない。だけど、指はとても素早く動いている。仕事ができる人というのは、彼のような人なのだと、私は心から感心しました。


 そして何より優しい人でもありました。

 ある日の夕方。オフィスに一匹の蚊が迷い込んでいました。近所に川があるためか、夏になるとたまに蚊が入り込んでくることがあります。

 あの日は激しい夕立のあとで、外の方が涼しいだろうと、つい油断して窓を開けてしまっていたのです。網戸はちゃんと閉めてたのですけど。

 ――ぷぅーん。

 定時間際のオフィスを漂う気の抜ける羽音。一匹だけ迷い込んだそいつに誰もが気を取られつつも、就業中に躍起になって追いかけ回すわけにも行かず、軽い舌打ちと苦笑いが響きます。

 そのうち、音が聞こえなくなりました。

「お。誰か刺されとるんとちゃうか?」

 ちょうどみんなの集中力も切れたとき、例の彼はすぅーっと立ち上がり、どこかへ行ってしまいました。ちょうど一服したい気持ちでいた私もつられるように席を立ちました。

 廊下に出ると、何故か非常階段へと向かう彼。そちらには特に何もありません。私はつい気になって、喫煙室に行く前に彼の後ろ姿を見ていました。すると、彼は階段の扉を開けると片手だけを突き出し、小さく振る動きをしてから、再び引っ込めて、扉を閉めました。そして、私に気づくと、恥ずかしそうに頭を下げました。

 オフィスに戻ると、もう蚊の羽音はしませんでした。

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虫も殺さぬ おくとりょう @n8osoeuta

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