蜜柑一派

ぽんぽん丸

儀式

蜜柑を手に持ってまず目を閉じる。視界を失ったまま鼻先にこすりつけて表面の冷たさを楽しむ。ヘタに当たっても心地よい力加減で愛撫する。皮越しのわずかな香りを鼻腔に満たす。わずかな香りだからこそこの時間が愛しい。世の中の苦しみに満ちた空気を蜜柑の素朴さで上書きすることができたら目を開ける。


視界のすべて掌に収まる大きさの蜜柑。


いつもここで音楽が聴こえる。掌ひらに太陽をすかしてみれば真っ赤に流れるぼくの血潮。太陽はすっかり掌に収まって、大人になっても蜜柑に脈打ってしまう私。まだ5歳の頃の私の歌唱が聴こえてくる。


原点に浸っていると次に蜜柑の甘い声がする。目の前にこんな素敵な蜜柑があるのに思いでが大事ですかー?こんな素敵な蜜柑が目の前にいるんですよー?


そう聞こえたら蜜柑のおしりに指を突き立ててブツッと皮を破ると、最後にあっと言って蜜柑の声は聞こえなくなる。


それから私は蜜柑を丸裸にする。


この蜜柑は均等なサイズの6個の房に分かれている。外側にアルベドを纏い老婆のように見える。しかし一つの房をちぎって観察してみればその印象は変わる。


外皮と接する面こそアルベドのせいで皴だらけで汚く見えるが、内側は瑞々しい果肉を綺麗に透かしている。蜜柑も血潮を透かして見せてくれるのだ。


我慢出来ずに口に放り込み噛む。


果汁が溢れる。私は体脂肪の下で筋肉を漲らせてしまう。カッと目を見開く。私はこの瞬間をダヒデ像化と呼んでいる。しかしダビデはほんの一瞬でそれから噛み進める毎に優しく目を閉じる。


甘さと香り。瞼の裏の暗闇にオレンジと少しのグリーンを感じる。オレンジは光沢のあるようなテクスチャーで、緑は油絵を乱暴に重ねたあらあらしさを感じる。視界の中央の8割がオレンジで、周囲の境界に朧げにグリーンが点在する。


瞼の裏の美術展を楽しみながら残りの房を口に運ぶ。この間、私だけの絵画は噛みしだく毎にざわざわと動く。おおよその構図や領域の割合を変えずにまばらなグリーンが動く。大きな歩車分離式の交差点の歩行者信号が一斉に青になって、交差点の中央には何も進入せずに歩行者がそこを囲んで動き回る様を上から見た時の感じ。グリーンが歩行者。時々中央を斜めに早足で横切るグリーンもいるからこの表現がぴったり。


手に収まった蜜柑の最後の房を口に運ぶ頃に私は泣く。終わりが近いことと蜜柑の尊さに泣く。


食べ終わると私は脱いだ下着と服を着る。それからまた蜜柑以外の世界に戻っていく。


お風呂上がりの朝に戻る。長い髪を乾かさなければいけない。蜜柑のためでも、自分のためでもない。働くために髪を乾かす。

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