苦労人ツンデレ学者が世界を救うため海へ消えるのを幼馴染のエリート溺愛騎士が許してくれない

鳥羽ミワ

1. サフィラとクラヴィス

 古生物学者サフィラ=ウォルプタースは、今日も出勤の道すがら、橋の上から朝日を眺めていた。呑気な海鳥の声を聞いて、海の香りを嗅ぐ。島々を渡る風が、小麦色の頬を撫でた。


 サフィラは、海が好き。人生に流されるまま古生物学者になっていなかったら、きっと海洋学者になっていた。


 ここは世界の果て、ちいさな島々からなるテストゥードー共和国。共和制とは名ばかりの、「島」を持つ貴族たちが幅を利かせる、光の強い国。


 素足に革のサンダルを履いた彼は、風に煽られた黒いローブの裾を掴む。癖のある燃えるような赤毛が揺れ、透き通るような浅い海の色をした瞳が光った。手首にさげた、亀の甲羅でできた海亀のチャームが揺れる。


「来る」


 次の瞬間、穏やかだった海面が大きく波打つ。そして吸盤のみっちりついた巨大な触手が大きな水しぶきと轟音を上げて、海面から突き出た。それは橋へと絡みつき、大きく橋げたを揺らす。


「クラーケン!」


 咄嗟に手すりへ縋りつくも、サフィラはあっけなくその濃い赤褐色の触手に捉えられた。そのまま掴まれて持ち上げられ、振り回さる。しかしサフィラは悲鳴もあげずに、視線をクラーケンへと向けた。

 この美しい海には、多くの魔物が棲息している。彼らはたびたび島を襲うため、民間人を含む魔法使いや騎士、そして魔物退治の懸賞金を狙う冒険者たちは、それを撃退する義務があった。

 サフィラも魔法使いであり、このクラーケンを倒さなければならない。


(全身が警戒色になっている。あれは極度の興奮状態だ。沖合で何かあって、逃げてきた? だとしたら、足の数はそろっているか?)


 その間にも、身体をぎちぎちと万力のような力で締め上げられる。四肢に触手が絡みつき、吸盤がきつく吸い付き、くうと胸の奥が鳴った。


(あ、これ、やば)


 少し調子に乗りすぎたらしい。きつい締め付けで、全身に痺れるような衝撃が走る。サフィラの頭は真っ白になり、反射的に呪文を唱えようとしたところで。

 頭上に、白い人影が降り立った。

 サフィラを捉えていた触手が切り落とされ、身体が宙へと放たれる。騎士団の鎧を着たその人は、落下するサフィラを逞しい腕で抱きとめた。


「サフィラ、何やってるんだ!」

「クラヴィス」


 同い年の幼馴染は空中歩行で駆け上がり、サフィラを橋へと戻した。じたじたと暴れるイカの足を引き剥がす間にも、激怒したクラーケンはその触手を振り回し、あちこちで轟音が響く。


「すぐ終わらせる」


 クラヴィスは橋に足をかけ、大きく飛んだ。プラチナブロンドが陽光を反射して輝き、緑色の瞳が好戦的に光る。その姿を捉えようと、興奮したクラーケンは水上へと顔を出した。

 横長の瞳孔がクラヴィスを捕捉する。しかしその魔の手がクラヴィスを捉えるより、空中歩行を解いて落下する彼の着水の方がはやい。


「遅い」


 クラヴィスは重力による加速をそのままに、クラーケンの目と目の間に剣を深く突き刺した。その巨体は一瞬びくりと震えたあと、剣を突きたてられた眉間から、みるみるうちに真っ白へと変わっていく。

 そうしてゆっくりと、身体が崩れ落ちていった。轟音を立てながら、力を失った触手が次々と海面へ落ちていく。サフィラは手すりに掴まって立ち、その水音を聞いていた。


「サフィラ、怪我はないか?」


 橋へ上がってきたクラヴィスに向かって、ため息をついて腕を広げてみせた。こういうときは、下手に誤魔化す方が面倒くさい。


「大丈夫。無傷だから」

 

 そうは言っても、心配性の彼はぺたぺたと身体を触って確かめる。その大きな手で触れられると、何とも言えずくすぐったい。


「赤くなってる。痛そうだ」


 労わるように、吸盤の跡の残る腕を掴まれた。親指の腹で、優しくそっと撫でられる。サフィラは、苦し紛れの誤魔化し笑いを浮かべた。


「それにしても、その。クラヴィスは、強いね」


 ごまかしたいサフィラに気づいているのかいないのか、クラヴィスは得意げに胸を張った。


「クラーケンは眉間を狙え。お前が教えてくれたことだ」


 サフィラは、ちいさく息を吐いた。出会った頃はサフィラよりも小柄で、華奢な子どもだったのに。

 今やサフィラより頭半分は背が高いし、腕や太ももはサフィラの二倍くらい太い。騎士団でも期待の若手として、噂でよく名前を聞く。

 対するサフィラは貧弱な身体つきに、薄給の下っ端研究員だ。自分の人生を切り開けずに中途半端に流されて、いまいちパッとしない。十六のときから、六歳下の弟を一人で育ててきたことくらいは、誇りと言えるけれど。


「クラヴィスは、立派になったね」


 そうちいさく呟いて、サフィラは、沈みゆくクラーケンの巨体を眺めた。その周りには既に魚がたかり、死肉を食べている。


「……あんなに大きな個体がこんな沿岸部まで来るだなんて。沖で何かあったのかな」

「年に数回はあることじゃないか」


 首を傾げるクラヴィス。そうだけど、とサフィラは指折り数えた。


「十日前にも大型の海棲魔物が現れただろう。魔物が港湾に姿をあらわす頻度は、ここ最近、例年と比べて明らかに高い。何か異変が起こっているんだ」

 

 ひとりごとのように言うサフィラに、クラヴィスは首を傾げる。


「たしかに、俺たちの仕事も増えたが……たまたまこういう年だってだけじゃないのか? それに、豊漁のめでたい年だと聞く」


 さらに遠くに視線をやれば、漁船が網を引いている。やはりその船も、山ほどの魚を積んでいるようだった。


「そういえば同僚たちが、最近日が落ちるのが早い気がすると言っていた。だが、それも季節のせいだろう。そう気にしすぎるな」

「そう、かな」


 サフィラは胸騒ぎを覚え、外洋を見る。

 無限に広がる水平線。憧れの大海原。そして、なにも予測できない、神秘的な海面の下。いつかそこに漕ぎ出でて、遠くへ行って。

 そこに、サフィラの信じるものは見つかるのだろうか。そうでなくても漠然と、ここではない場所への憧れがある。


 サフィラが光る水面をぼんやり眺めていると、クラヴィスがその手を引いた。

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