第27話


 *



「――手鏡を取り上げることができない、ですか?」


 フレイソン公爵家に向かい、そこでステイシーの婚約者であるニールに言われた言葉にマッソンは首をかしげた。


 ステイシーの状態はランフォート伯爵の計らいによって安定していた。しかし、安定剤がわりの『手鏡』をステイシーが離さなくなってしまっている。


 いずれ取り上げようと思っていたとニールが言い訳をするのだが、現在ステイシーは、食事も排泄も自力ではできない状態が続いている。


 どうにかして彼女に一筆書かせなくてはならないのに、鏡から視線を一秒たりとも逸らさない。


「すみません。ランフォート伯爵には、使用頻度を控えるように言われていたのですが……」


 申し訳なさそうに項垂れたニールは、以前にも増してへなちょこ具合が増している。


「取り上げようとすると、ひどく暴れてしまいます」


「押さえつければいい話じゃないですか」


 そんなことはできないとばかりに、ニールはさらに縮こまった。


 問題を打開する能力が彼から欠如しているように思えて、マッソンはイライラしてくる。


 本来なら、自力でなにもできなくなってしまうまで、放置すべきではなかったはずだ。


 それでもニールが『必ず現状を打開する』と豪語していたため、一般人のマッソンは手出しできなかった。


 そうこうしているうちに、ものすごく事態が悪化している。


「ならば自分でやります」


 もうこれ以上、貴族登録を先送りにするわけにはいかない。


 なんとしてもステイシーに一筆書かせて自分たちを貴族の家族として登録し、ポーラにイヤリングを装着させる。


 それが今日のやるべきことで、最優先事項だ。


 ステイシーのいる部屋に向かい、マッソンは入室するなり眉をひそめた。ちょうど食事の時間だったようで、侍女が食事の介助をしてくれている。


 器を見れば、固形物がほとんど見当たらない。もうずっとこの状態が続いているのをマッソンは知っていた。


「咀嚼をしてくれるのならもっと食べてもらいます。ですが、それをしてくれないのでもう手一杯なんです」


 ニールは複雑な表情のまま、言い訳を口にする。


 話題の中心となっているステイシーはというと、ずっと手鏡を覗き込んだまま、うっとりした表情を崩さない。


 以前よりも格段に痩せ、枯れ枝のような身体になっている。


 これでは、骨董遺物を取り払ったとしても痩せてしまっているに違いない。マッソンは義娘に近づいた。


「ステイシー、もう少し食事をとらないと」


 話しかけてみたが、彼女はいつもと同じようにニコニコ笑ったまま、ピクリともしない。肩を揺らしても、ずっと鏡面を見続けている。


「放っておくと、水も飲んでくれないんです」


「まさか」


 マッソンはカップを手に取るとステイシーに渡そうとした。しかしニールの言う通り、彼女がそれを受け取ることはなかった。


 ステイシーが娘であるため、彼女の世話はほとんどポーラに任せていた。しかし、マッソンの知らないうちに、こんなに容体が悪くなっていようとは。


「ステイシー、そろそろやめなさい」


 声をかけてもちっとも反応をしないため、マッソンはしばらく待ったあとにしびれを切らした。


「やめろというのが聞けないのか!」


 彼女の細い手首を掴み、マッソンはステイシーの手から鏡を取り上げようとする。


 すると耳障りな叫び声が部屋中に轟いた。


 マッソンはそれがどこから発せられた音なのか一瞬理解できなかったが、ステイシーの喉から出ていると気付いて驚愕した。


(この細くて小さい身体の、いったいどこからこんな声量が出てくるんだ!?)


 耳を塞ごうとしたが、鏡を取りあげることを優先した。


 だが、驚異的な力でステイシーは手鏡を握り締めており、ちっとも離そうとしない。


「離すんだ。叫ぶのをやめなさい、喉がつぶれてしまう!」


 説得してみるが、しかし彼女のもう一方の手が伸びてきて、手鏡の柄をがっちり握りしめてくる。


 マッソンが無理やり引き離そうとすると、ものすごい咆哮がステイシーの喉から発せられた。


 あまりの声量に耐えられなくなったのか、音と同時に彼女の喉元から血が噴き出してくる。


 マッソンの顔や服に、血液が飛び散ってくっついた。

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