第8話
ニールが困った顔でどうしようかと逡巡していると、ノアがコホン、と咳払いをした。
「こんばんは、シュードルフ男爵殿、ポーラ夫人」
ノアの笑顔を見るなり、二人は途端に愛想をよくした。金貨をもらう約束を思い出したのだろう。
「ランフォート伯爵様、こんばんは。いらしていたんですね」
「ええ。ココと一緒に」
広間の中央で起こっている出来事に、会場にいた貴族たちがいったい何事だと五人に注目していた。
ココはノアに目配せする。それは始まりの合図だ。
ノアは微笑みながら口を開いた。
「実は、少々困ったことが起こっています。それをシュードルフ男爵殿にお伝えしたくて参じました」
「まさか、金貨の支払いが!?」
マッソンの呟きを、ノアは「もっと深刻なことです」と真面目な顔つきになる。
「男爵殿。シュードルフ家の家長は、現在どなたかご存じですか?」
マッソンはじめ、ポーラもステイシーもわけがわかっていないという顔になる。
一方で、ノアの言葉に慌てたのはニールだ。思わず目を見開いてノアに近寄った。
「……ランフォート伯爵。もしかして、シュードルフの家長がココだということですか?」
ノアはゆっくり頷いた。
そう、金で爵位を購入した商人上がりのマッソンも、娼婦上がりのポーラも、ましてやステイシーも知らないことがある。
それは、貴族の家長になるためには、三人以上の他貴族の許可と署名が必要だということだ。
ココの母が亡くなった時、マッソンはポーラと結婚することに夢中でそのことを知らず手続きを怠った。
そのため、ココ自身が聖天使教会の司祭に頼み、司祭と懇意にしている貴族の署名をもらって家長を引き継いでいた。
正式に家長になった人物が初めにする仕事は、自分の一家と一族を貴族として登録し直すことだ。
つまり、家長が家族と認めた者以外は、貴族でもなんでもない一般人である。
ニールの顔面から、どんどん血の気が引いていく。
「まさかココは、シュードルフの三人を貴族登録していないと?」
「その通りです」
ニールは唇を噛みしめ、晴れの日だというのに表情が曇った。
「ですから現在、こちらのお三方は貴族でもシュードルフ一族でもない、宙ぶらりんな状態というわけです」
「ちょ、声が大きいです。ランフォート伯爵……!」
ノアの言葉にニールがさらに青ざめ始める。額には冷や汗がじわりと浮かんでいた。
「これは失礼しました」
二人のやり取りに耳を澄ませていたステイシーが、ハッとしたように眉を寄せた。
「まさか、あたしがニールと婚約できないってこと?」
ステイシーもやっと、事の重大さに気づいたようだ。ノアは彼女に向かって頷き口を開いた。
「自分が一般人であることをステイシー嬢が知らないのも無理はありません」
一般人という言葉は会場に響き、波紋を広げていく。ニールだけでなく、ステイシーも焦り始めた。
「フレイソン大公爵様も、この事態にはお気づきになっていなかったようですので。わたしも、ココから聞くまで知りえなかったのです」
ノアは『仕方ない』と言いつつも、ちっとも仕方ない状態ではないという意味を強く含んでいた。
ニールの父であるフレイソン大公爵は、貴族をまとめる議長の立場だ。
本来ならば議会の招集があった時、家長であるココやメルゾが出席しないのはおかしいと一番に言わなくてはいけない。
にもかかわらず、シュードルフの家長が変わっていたことにも気づかない無能っぷりをこの場で盛大にさらしてしまったことになる。
ココは元婚約者であるニールの顔を見ながら、愚か者めと胸中で吐き捨てた。
自分たちが貴族でもなんでもなかったと気付き、マッソン以下、シュードルフ一家の血の気がどんどん引いていく。
「このままではニール殿は、娼婦の子と婚約したと言われることになってしまいます。なにか、対策をせねば」
近くで耳をそばだてていた貴族に、ノアの響く声はばっちり聞こえていた。彼らの口から、都合の悪い事実が会場中に爆速で広がっていく。
「一体どうすれば……!?」
ニールはすっかり顔を青くしてノアを見上げる。
「ココが承諾し、かつ、三人以上の貴族の許可と署名があれば、家長を移すことが可能ですよ」
気が気じゃなくなっていたシュードルフ一家は、それに安堵したようだ。
「幸いこの場には、多くの貴族がいます。わたし、そしてニール殿、それからフレイソン大公爵様の署名があれば十分でしょう」
ノアの言葉を耳に入れるなり、ニールはすぐに父であるフレイソン大公爵を呼び寄せた。
――これが罠であるとも気付かずに。
事情を知ったフレイソン大公爵の顔はみるみる険しくなる。
マントを翻しながら、肩で風を切るようにして中央にやってきた。
「すぐに手続きを開始しよう」
大公爵が準備を急かそうとするのをノアが止めた。
「その前にココの許可が必要でして」
一歩前に進み出たココを見たフレイソン大公爵は、驚いたあとに視線をそらして口を閉じた。
(この人は、私に対して後ろめたいに決まっているわ)
ニールが婚約者をココからステイシーに変えたいと言った時、フレイソン公爵は理由を息子に問わなかった。
大公爵は、叱ると激しく気落ちしてしまう息子を心配していたから、ニールが理由を言いたくないと苦しそうにすれば黙ってそれを呑み込んだ。
ココではなくステイシーがいいと言えば、仲を取り持った。
触らぬ神に祟りなしと、手のかかるニールは上手く状況をごまかしながら育てきた。そして、もれなく自分自身も都合の悪いことには蓋をする性格だ。
議会に来ないメルゾを心配し、マッソンからきちんと事情を聞いていればこんなことにならなかったはずだ。
やるべきことをせずにいたことによって、公爵家の仕事が形だけで中身を伴っていないという証明をしてしまったのだ。
華やかな祝賀ムードだったのが一転し、醜聞があちこち飛び交い始めている。
聞くに堪えない悪口までがささやかれ、いつの間にか事実とは異なる尾ひれをつけた噂が
「……家長を譲る許可を下ろしなさい、ココ・シュードルフ男爵令嬢」
「フレイソン大公爵様。お久しぶりでございます」
ココは丁寧にカーテシーをする。
つま先から指先まで、洗練された素晴らしい所作だ。公爵はステイシーとココの違いを敏感に感じ取り、苦々しい顔をしながら負け惜しみを口にした。
「ニールが、君からステイシー嬢に乗り換えるのも納得だ。失礼ながらあまりにも醜い」
瞬時に殺気を立ち上らせたノアを、ココは視線だけで牽制する。
(――ここから先は、私の演技が始まる番だから)
ココの胸中を察したノアは、怒りを収めて口元を引き結んだ。
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