中編

 高校三年の夏。偶然目に入った夏祭りのチラシを見ていると、うしろから斗真に声をかけられた。


「なに、行きたいの?」


 その言葉にすぐに「別に」と返せてればよかったんだと思う。いつものあたしなら、そうしていたはずだ。

 でも、そのころのあたしは毎日のように真尋のお見舞いに行って、自分の時間をすべて彼女に捧げていた。それが当たり前だったし、真尋のお見舞いに行かずに遊びに行くなんて選択肢、考えもしなかった。


「行きたい、のかな?」


 夏祭りのチラシにでかでかと映っている花火が、見たいと思ってしまった。だから、ついうっかり口を滑らせてしまったんだ。斗真が「じゃあ、一緒に行こうぜ」と誘ってくれた言葉に、あたしはノーと言えなかった。

 行きたい、と思ってしまったのだ。


 真尋に夏祭りに行くことを相談すると、彼女は笑顔で「いいね」と言った。やっぱりあたしの行動を制限するようなことは一言も言わないのだ。


「夏祭りってあれでしょ、花火があがる」

「うん。今年も花火やるっていってた」

「去年もね、この窓から見えたんだ。今年も見えるかな」


 カーテンの隙間を覗き込む真尋は少し身を乗り出していて、危ないよとあたしが注意すると渋々ベッドに戻り布団をかぶった。

 本当はこんな話しをするのも嫌だった。真尋が行きたくても行けない場所に遊びに行くことも、思い出話をすることも。真尋が辛い思いをするんじゃないかと不安だった。でも、あたしのこの考えは杞憂だといわんばかりに、彼女は夏祭りで出る屋台の話や、食べたいものとかやりたいことの話をいっぱいしてくれた。まるで、わたしの代わりに楽しんできてくれと言っているようにも感じ取れて、少し気まずかった。


「あ、そうだ。真尋」


 楽しそうに夏祭りのスケジュールを勝手に決めようとする真尋を制止するように、あたしは声をあげる。


「これ、誕生日プレゼント」

「……え、いいの。かわいい」


 真尋に渡したのは大きな白いリボンがついた麦わら帽子だった。

 ちょうど季節が夏だったこともあったし、最近少し元気になってきたから病院の外を少し散歩でもしてみないかと誘うために買ってきたものだ。

 彼女は麦わら帽子を気に入ったのか、すぐにかぶってあたしに見せてくれる。


「ねぇ、似合ってる?」

「うん。真尋に似合ってる」


 真尋は昔から変わらない。清らかな乙女。純粋無垢なお嬢様。はにかむように笑う彼女の下がった目尻に少し涙がたまっていたのに気づいて、あたしも思わず泣きそうになってしまった。


「ありがとう、芹香」


 あたしたちはずっと友達だよ。その約束は絶対に破られることはないのだ。




 夏祭りの日、斗真はあたしを家まで迎えに来てくれた。わざわざ来なくていいと言ったのに、あたしのいうことを一つも聞いてくれやしない。


「浴衣、似合ってんじゃん」


 玄関から出てきたあたしの姿をじろじろ見て、面白そうににやりと笑う。おばあちゃんがせっかくだからと浴衣を着せてくれたけれど、下駄は歩きにくいし、いつもと違う格好をしているからか、視線が気になって仕方がない。


「もう、屋台とか出てるかな」

「まだじゃない? てか、何時のバスに乗るとか決めてるの?」

「その場のノリでいいじゃん」

「ちょっと、うちの近くのバス停つぎ来るまでに数十分かかるんだからね、確認ちゃんとしてよね」


 向かう最中もずっと口喧嘩みたいに喋っていて、なんだかんだ楽しかった。斗真といる時間はやっぱり楽しいのだ。自分が普通の女子高生でいられる、自分がありのままの自分でいられる唯一の時間。


「あ、朝顔咲いてる。かわいい」

「お、ほんとだ。俺もそういや小学生の時に育てたな」

「あたしも、そういや育てた。懐かしいね」


 通りがかった家の柵をからまるように伸びていく蔦。青い綺麗な朝顔がこちらをじいっと見ていた。もう三時だけど、相変わらず日差しは強く、額からはじんわりと汗が出てくる。あたしが何気なく「暑いね」と言うと、すぐに斗真は「アイス買おうぜ」と返答してくる。あたしはスマホで調べた時刻表を見ながら「そんな時間はありません」と突っ返して、歩き続けた。


 田舎のバス特有の時間通りに来ない、は相変わらずみたいで、時間ぎりぎりにバス停に到着したはずなのに二十分近くあたしたちはベンチで座って待たされた。

 斗真はその間「やっぱアイス買ってても間に合ったじゃん」とか都合のいいことを言うし、あたしも暑くてキレのある返答ができなかった。


「そうだ、真尋に連絡入れとかなきゃ。体調とかどうって」

「いいだろ、今日くらい」

「……え?」

「せっかく遊びに行くんだし、今日は真尋のお世話係はお休みでいいだろ」

「……でも」

「真尋だってお前が夏祭り楽しんでほしいって思ってるはずだろ、邪魔したいなんて思わねえよ」

「……う、ん」


 スマホと睨めっこしているうちに、バスが到着してそのままあたしたちは夏祭り会場に辿り着く。

 夏祭り会場は屋台がたくさん並んでいて、人もたくさんいた。

 正直な話、あたしはすごく楽しみだったのだと思う。綿あめ、金魚すくい、射的、くじ引き。斗真に誘われるがままに、たくさんの夏っぽいことをした。

 本当に小さなときにお父さんとお母さんに連れて行ってもらった夏祭りを思い出して、あたしは思わず泣いてしまいそうになる。もう何年ぶりだろうか。


 楽しい。ただ、楽しかった。

 斗真があたしの腕を引っ張って進んでいく。それについていくだけで幸せだったんだ。


 花火の音が聞こえる。バチバチと空に火花が散っている。

 視覚と聴覚を楽しませる、綺麗な花火。こんなに近くで見たのは初めてかもしれない。


「……なんだけど」


 花火の音で最初は何を言っているのか分からずに、あたしは斗真に聞き返す。


「なんて?」


 大量の花火がバン、バン、と打ちあがったあと、彼はあたしの目を見てそう言った。


「俺、芹香のことが好きなんだけど」


 それはあたしの世界を簡単に壊してしまうような爆弾だった。


 斗真の告白から、あたしの記憶はおぼろげだ。脳はショートしてしまったのだろう、驚きすぎて。ぎこちなくなるあたしに、戸惑いながらも彼は「すぐに答えが欲しいわけじゃないから」と言った。

 花火が終わり別れたあと、斗真に射的で取ってもらった小さなクマのぬいぐるみをもって、あたしはそのまま真尋のいる病院に向かった。真尋に聞いてほしかった。初めて浴衣を着させてもらった話も、下駄で動き回りすぎて靴連れして痛かった話も、花火が思ったより綺麗だった話も、斗真から告白された話も。

 全部最初に真尋に聞いてほしかった。ねぇ、真尋。真尋。


 病院に着いたのは面会時間ギリギリ。彼女の入院している個室のドアのプレートがないのに気づいて、あたしは思わず息を止める。病室のドアを開けるけれど、そこに何もなかった。昨日までそこにいたはずの「真尋」はそこにいなかった。


「あの、704号室の、そうです個室の女の子は」


 受付の人の表情は変わらなかった。


「あ、そうなん、ですね。わかりました、連絡して、みます」


 あたしは動揺を隠せずにすぐにトイレに駆け込んだ。

 胸のあたりが気持ち悪くて、何かがこみ上げてくる感覚がした。表情がみるみるうちに壊れていく。涙なのか唾液なのか鼻水なのか、わからない。便器に向かって咳き込むように息を吐く。呼吸の仕方が分からない。おえ、と声が出たと同時に胃液とともに全部が吐き出される。力がどんどん弱まっていって、あたしの体は縮こまっていく。


「……ひろ、ま、まひろっ」


 真尋が昼過ぎに体調を崩して亡くなったらしい。

 あたしがおばあちゃんに浴衣を着せてもらっている頃、真尋は生きるか死ぬかの手術をしていた。

 あたしが斗真とお喋りしながらバスに乗っていたとき、真尋の息は止まって、あたしが斗真に告白されたとき、真尋はもうこの病院からいなくなっていた。

 あたしが、約束を守らなかったからだ。だから、真尋はあたしをおいて先に行っちゃったんだ。


「ぜったい、まいにち、おみまい、いくって、いったのに」


 後悔はあたしの胃液とともに吐き出される。

 大切な人はたったひとりしか作ってはいけない。あたしはそのルールを破ろうとしてしまった。真尋だけを大事にすれば、真尋が苦しんでいたとき、ずっとそばにいてあげられた。自分だけ楽しんで、本当に何をやっていたんだろう。


 ごめんね。ごめんね。

 もう、真尋はこの世界にいない。あたしのたったひとり大切な人。

 あたしは、彼女にさよならも、ありがとうも、何も言えなかった。




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