影の囁き

星咲 紗和(ほしざき さわ)

本編

夜は静まり返り、時計の針が午前2時を指していた。残業で遅くなった僕は、疲れ切った体を引きずりながら、閑散とした道を歩いていた。いつもの道なのに、今夜はどこか違う。薄暗い街灯がぼんやりと光を投げかけているが、その光の範囲が妙に狭く感じられた。


ふと、視界の端に何かが動いた気がして足を止めた。視線を向けると、地面に揺れる小さな影が見えた。風に揺れる木の影かと思ったが、その影は異様に不規則に動き、徐々に大きくなっている。まるで生き物がそこにいるかのように。


「何だ…?」僕は足を止め、影に目を凝らした。影は動きを止めず、次第に街灯の下を歩く人々に近づいていく。次の瞬間、その影が一人の男性に重なったかと思うと、彼の姿がぼんやりと薄れて消えた。


「え?」僕の心臓が一瞬止まったかのように鼓動を遅らせた。見間違いかと思い、目をこすったが、その瞬間、再び影が別の人に重なり、今度は女性がふっと消えた。彼女の姿が消えた直後、涼しげな風鈴の音が微かに耳を打った。


「何なんだ、これ…?」恐怖が背中を駆け抜けた。これは普通ではない。僕は急いでその場を離れようとしたが、足が重く感じ、まるで地面に縛り付けられたかのように動かない。影は次第に僕の方へと向かってくる。


近づく影に怯え、必死に逃げようとする僕の耳元で、突然若い女性の声が囁いた。「楽にしてあげる…」


その声は、甘く、しかしどこか冷たく感じられた。僕は身体の力が抜け、意識が遠のいていくのを感じた。目の前が暗くなり、全ての感覚が消え去ろうとしたその時、僕は深い眠りに落ちた。


目が覚めた時、僕は見知らぬ場所に立っていた。周囲を見渡すと、古びた石畳と古寺の軒先が目に入る。夜空に浮かぶ月が、薄い雲に隠れ、ぼんやりとした光を放っている。蝉の声も、風の音も聞こえない。何一つ動かない静寂が、重く僕を包み込んでいた。


「ここはどこだ…?」僕は自分に問いかけたが、答えが返ってくるはずもない。足元を見ると、影がゆっくりと僕に近づいてきていた。動かない足を無理やり引きずりながら、僕は逃げようとするが、全く動けない。


再び耳元に風鈴の音が響き渡った。影は僕に覆いかぶさるように迫り、その時、僕の意識は完全に途絶えた。


それ以来、僕が再び目を覚ますことはなかった。しかし、あの夜、影に飲み込まれた場所では、風鈴の音が時折、奇妙に鳴り響くという噂が広がっている。


影に囚われた僕の魂が、今でもその音色と共に漂っているのかもしれない――。


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影の囁き 星咲 紗和(ほしざき さわ) @bosanezaki92

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