氷河大開拓時代
静月夜
第1章 終わらぬ雪の理想郷
001 絶望のその先に
「グレイシャ・パイオニア。汝を窃盗の罪で流刑に処す!」
辺りは酷く静まり返っていた。
終わりのない積雪の音だけが、辺りに響き渡る。
高官であろう男の指した先には、十、十一にも満たない少女の姿があった。
グレイシャ・パイオニア。正しく、それは少女の名だった。
だが、窃盗罪を掛けられたのに対し、彼女の顔は眉ひとつ動く気配がない。
彼女は見た目に反し、賢明で用心深かった。
この世界の本質には、もう既に気が付いていたのだろう。
本質、それは裏顔を指しており、この世界では氷河期の資源不足を解消するべく、女子供お構いなく既に数十人の民を何らかの罪を着させ流刑にしていた。
人間はそうして一日を終える。グレイシャはこの世界を心底憎く思った。
どうせなら自分は生まれてこなければ良かった、そう思う時もあるが、グレイシャにはただ一つ、生きる希望があった。
それは、一足先に他界した父母に代わり、自身を育てて来てくれた祖父の思い出話だ。
六年前。
『昔、五十年前程だった。世界は緑で満ちていた。家から出れば木々が生い茂り、 無知の国に足を踏み入れれば花が私を迎え入れた。それ程の幸福は、この世に存在するのだろうか?』
『するよ!きっと!だってね、氷河期が終われば、木って言うのが見れるんでしょ?私、お爺ちゃんと一緒に見てみたいの。だから、今度一緒に見に行こうねっ』
そんなグレイシャに、祖父は寂しそうな笑みを浮かべていた。
数年が経った。
祖父は今にでも消え失せそうな掠れた声で、グレイシャを呼んだ。
グレイシャは、ベッドに横倒れる祖父を見て、心配そうな声で訊ねた。
『お爺ちゃん……どうしたの?何か食べたいものでもある?そうだ。私ね、頑張って稼いだお金でパン、買って来たんだよ。ガチガチでどうやって食べるか分からないんだけどね、ハハハ』
グレイシャは祖父を元気づけようと、精一杯の笑みを浮かべる。
だが、祖父の顔は変わらず、寂しいような悲しいような、そんな顔をして、グレイシャに言った。
『グレイシャ。私の好物を知っているかい?』
『う……うん。焼き立てのパン、でしょ?』
『そうだね。口の中で溶けてしまう様なやわらかさに、ほんのりとした甘みが加わって、とても美味しいんだ。何かをトッピングして食べるのも美味しいけれど、やっぱり生で食べた方が、優しい味わいが伝わってくるんだ』
『………』
グレイシャは息が詰まる程、喉を鳴らした。
祖父はよく思い出話をしていた。その思い出話は、グレイシャの希望となり生きる気力と成った。だが、
今回は何か不穏な気配を感じたのだ。それが実に居心地が悪くて、今にでも逃げ出したい……グレイシャはそう思った。
『……君と一緒に居られたのが、私の何よりの幸福だった』
『お爺ちゃん……?』
すると突如、祖父の息が薄れていく。
『お爺ちゃん‼一緒に、一緒に木を見るって約束したじゃん‼忘れたの!?
嫌だ嫌だ。目を覚ましてよ‼ねぇってば……!』
『一口だけ……一口だけいいから。最期くらい、焼き立てのパンを食べたかったなぁ………』
そう言って、祖父の息の根は、一枚の花びらのように消え散った。
『お爺ちゃんはね、私の唯一の誇りだったんだよ。いつも優しくて、親切で。
ごめんね……ごめんね……。お爺ちゃんの願い、何も叶えられなくて……っ』
『………赦してッ』
それからだった。彼女の瞳が何処か儚げになったのは。
高官を見つめるグレイシャの瞳も、何処か虚ろで今にでも消え失せてしまいそうな雰囲気を漂わせていた。
それが高官の癪に障ったのか、グレイシャを見つめる高官の目が、更に険しくなる。
だが、そんな事、グレイシャにはどうでも良かった。
自分には、もう生きる理由となるものが存在しなかったからだ。
「何をやっている。早く追放しないか」
不機嫌そうな顔を浮かべる高官に、焦る部下達。
それをグレイシャは、如何にも凍り付いた冷徹な瞳で見つめていた。
「承知致しました。高官」
すると一人の部下が高官の言葉に従い、グレイシャの両手を縛っている縄を持ち、乱暴に引っ張る。
村と氷河の境を示す門の前で足が止まったと思うと、突如門が鈍い音を立て開いた。
門の奥には、荒れ狂う氷河と猛吹雪がグレイシャを待ち構えていた。
部下は何も口にせず、グレイシャを氷河に放り投げた。
門が閉まる音が微かに聞こえたが、大半は猛吹雪に掻き消されていた。
仕方なく立ち上がり、猛吹雪の中を独り、歩き出した。
ゆえに、数十分――――……。
グレイシャに行き先は無かった。
このまま村に戻り無罪を懇願したとしても叶うはずが無く、かといって荒れ狂う氷河の中、一人して生き残る事も不可能だった。
グレイシャは黄昏るように降り積もる雪を眺めていた。
彼女は、既に死を覚悟していた。
終わりを知らない雪、そして果てしなく続く氷河。
私の最期は、やはりこの光景だったのか、とグレイシャは酷く疲れたような溜息を吐いた。
もう終われる、その願望だけを胸に、目を瞑った。
死ぬ直前、グレイシャは昔の走馬灯を見た。
『草の緑って、どういう色なの?』
『緑はね、私達のように生きているんだよ』
『……生きてる?動いてるの?』
『いいや。同じ個所に留まって、一生を過ごすんだ。ある者は蕾を持ち花を咲かせ、ある者は子を残すために種を撒き散らす』
『凄い!人間みたいだね!』
『………確かに、個性の豊かさはまるで人間そのものだ。だけれど、一つだけ違う。それは、善悪が無いという事だ。人間は、人々によって善と悪があるだろう?だが、緑にはそれが存在しない。種が異なろうが、皆共存の道を選んでいる』
『………いいかい、グレイシャ。例え種族の違う者と出逢っても、決して軽蔑するような真似はしてはいけない。種族にも個人個人の善悪があり、人間との共存を望んでいる者もいる。勝手な決めつけだけを信じ、種の違いを理由に離れるのは、実に勿体ないからな』
『うん!分かったよ。でも、お爺ちゃんは悪い人じゃないでしょ?』
『どうだろうね。人によって、善悪の捉え方は違うからね』
『………でも、私にとってお爺ちゃんは優しい良い人だもん。私がそう思うんだから、お爺ちゃんは良い人なの!』
『ハハハハハ。そうかそうか………』
祖父の嬉しそうな笑みを見て、グレイシャはそっと微笑んだ。
………だが、そこで体に異変を覚えた。
暖かい………その感覚が、グレイシャを吞み込むように広がっていく。
「はっ」
慌てて目が覚めると、どうやらそこは洞窟の中のようだった。
焚き火がある……という事は、近くに人がいるのだろうか。
冷静な判断の裏側には、途轍もない程の不安が潜んでいた。
なぜ私は生きているのだろうか。
最期くらい安らかに眠りにつきたい………そんな願いすら、神は私を見捨てるのだろうか。
まあ、それはそうか。祖父の願いも叶えられなかった無能な娘の願いなど、
簡単に受け入れてくれるはずが無い。
だが、直前まで死を決意していたのにも関らず、なぜか恐怖感を覚えた。
手が震えている。寒さのせいかもしれないが、確かに胸の中には、密かに恐怖が潜んでいた。
ここから離れたくない。そのくだらない直感だけで、グレイシャはその場に留まった。
「あ、やっと起きた!」
突如、洞窟の奥から吹雪に似合わない高らかな声が響き渡った。
声質的に、年は十三、十四くらいの女だろうか。声の聞こえる方向を向き、じっと見つめる。
すると、声の主らしき女が洞窟の奥から出てきた。
そこでグレイシャは驚くべき光景を見た。
思わず体が硬化してしまう。
その驚くべき光景、というのも、彼女の容姿にあった。
「あぁ。この耳の事?確かに人間とは違うけれど、そんな警戒しなくていいよ。
そうそう、申し遅れたけど、私はソーラ。長い付き合いになると思うから宜しく」
そう。彼女は、人間と似ても似つかない長く尖った耳が有った。
その耳に、グレイシャは見覚えがあった。
………亜人。
人間の亜種であり、外見は似ているものの、暴君で強暴。
人間を更々嫌い、襲い掛かって来る者も少なくはない。
ソーラと名乗る亜人を前に、未だ体が硬化していた。
だが、ほんの微かに有る勇気を振り絞り、彼女に訊ねる。
「なぜ、私を助けたんですか」
勇気を振り絞ったものの、久しぶりに喋ったせいか、声は掠れ萎れていた。
そんなグレイシャを驚きの表情で見つめるソーラ。
「そりゃあ、こんな猛吹雪の中、少女が倒れていたら助けるでしょ。そんなに亜人が冷酷だと思った?またまた、独断の程が過ぎてるよね」
そう言い、ソーラはくしゃっとした笑みを浮かべる。
ソーラの性格は、今までの亜人の印象を逆転させるかのようだった。
如何にも楽しそうな高らかな声に、子供のような笑顔。まるで何かを待ち望んでいるかのような光の灯った瞳。
全てが、グレイシャとは正反対だった。だが、何処か新鮮さを感じさせる。
そんな性格だった。
「こんな猛吹雪の中歩き回ってたなら、お腹空いたでしょ。ほら、保存食があるから。お構いなく食べな」
そう言い、そっと味噌汁らしき食べ物を差し出してくる。
久しぶりの味噌汁を前に、思わず一息でそれを飲み込んでしまう。
「お、やっぱお腹空いてたんだ!待ってて、今もっと持ってくるから」
そう言い、洞窟の奥に向かおうとするソーラ。
「食事はもう十分なので大丈夫です。その前に、聞きたい事があるんですけど」
その言葉に反応し、こちらに戻って来るソーラ。
「それで、聞きたい事って?」
「確かに、人を助けるという事は立派な善行だと思います。ですが、行動にはやはり理由が付き物です。もう一度聞きます。なぜ私を助けたんですか?」
そう訊ねると、ソーラは如何にも驚いたような顔をした。
そして、少しの微笑みを見せ、地面にへたり込むように座った。
「見透かされてたか………まぁ、そうだね。私が貴方を助けたのは、私の願いを叶える為でもある」
「願い、ですか………?」
そう訊ね返すと、よくぞ聞きました、とまでも言わんばかりに胸を張るソーラ。
「実は私、種族差別のない公平な国を築きたいと思っているんだ。まあ単純に言えば亜人と人間が共同生活をする、それが願望かな。だから、私はその賛同者を集めるために、君を救った」
ソーラは、自身の願望を語るとき、とても楽しそうに瞳を輝かせていた。
そして何より、自身で夢を現実に形作るという威勢が、グレイシャに衝撃を与えた。
そういえば走馬灯でも、祖父が言っていた。
”異なる種でも善悪が存在する”
その中には人間も含まれていて、他種には共存を望んでいる者もいる、そう言っていた。
まるで未来予知をするかのようだ。
だけれど。
「私にはもう、生きる希望は存在しない」
生きる希望、それはその人にとっての大切な何かだろう。
私の場合は祖父だった。いつも懸命に私を見守ってくれた祖父を、昨日の事のように未だ鮮明に覚えている。
だが、祖父は数年前に死んだ。衰弱死だった。
死と言う恐怖は、まるで胸をえぐられるような激痛そのものだった。
私は二度と同じ過ちを繰り返したくはない。
そう決意したんだ。今死ねば、何も背負わなくて済むから。
終わりのない雪も、もう見ることは無いから。
「……そうは思えないけど。だって、貴方の瞳は微かに揺らいでいるじゃない。まるで本心を隠し通すように。本当は、まだ生きていたいんじゃないの?」
その言葉が、グレイシャの胸元を突き刺すように響いた。
だが、自然と苦しくは無かった。というよりか、胸に秘めていた激痛がいつの間にか和らいでいた。
そうか。彼女の言う通りだった。本当は、私はまだ生きていたかったんだ。
死んでしまったら、今まで過ごした祖父との思い出も、全て無かった事になってしまうのではないかと思ったからだ。
「ソーラさんは、まるで私の心を透視するかのようです。
………分かりました。賛同者となって、私がソーラさんの願いを叶えます」
誰かの願いを、叶えられるなら。
生きる理由が、まだ私に残っているのだとしたら。
最期くらい、死ぬまで懸命に生きればいい。
それだけでいいから。
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