四章 六
不運だった。美静は逢子が待ちわびる来客に突き飛ばされると、戸に顔の中央を打ちつけた。顔立ちの彫りが深く、他人よりも高い美静の鼻はへし折られそうなほどの攻撃を受けてしまった。突き飛ばした側に悪意はないのだが、痛かっただろうな。
「今さらどうしてこの人たちを呼んだの。逢子、どうしてわたしを頼ってくれなかったの。さみしいじゃない」
「えっと、あっ、美静さん」
「もういい帰る誰がこんなところ二度と来るかバーカ!」
鼻血がとまらない顔を押さえながら、美静は悪態をついて出て行ってしまった。聞きたかったことなど彼方へ消し去ってしまったに違いない。魁人が苦笑交じりにまたと手をあげて戸を閉め、二人の男は帰っていった。
心配であれこれ詰問してくる涼風には、一から説明をしなければならなかった。通常の倍以上の速度で体の腐敗が進行し、死ぬかもしれなかったこと。魁人が呼んでくれた拝み屋の美静が鎮めてくれたおかげで、こうして命をつなぐことができた。
涼風は、美しく整った顔をゆがめた。美人の憤怒の形相が怖いとは美静も口にしていたが、確かに美人は笑顔以外の表情が恐ろしく見えるのだなと、涼風のとなりに居続けた逢子は彼女の顔で実感する。
「どうしてひどくなっていたの」
涼風に、呪いの詳細を話して伝わるだろうか。
彼女は、機械人形だ。人の叡智を結集した技術で造られた、機械の体の持ち主。逢子をとてもかわいがってくれる。愛してもくれる。だがそれは、技術者たちが女性向けの男性型愛玩用機械人形を作るための試作段階のテストであって、涼風自身の意思ではない。下半身に男根をつけることになった理由として、涼風から教わっていた。
そもそも、機械人形は意思も意志もない。いらない。不要として削られている。もしもついていたら――それに準じた過去があったせいで、人形大戦が勃発してしまったのだと考える人もいるし、原因のひとつとして数えられてもいる。だから機械人形に、意志などあってはいけない。
月の障りが開始した直後と同じくらいに体が回復した逢子を、涼風がぎゅっと抱きしめてくれる。性フェロモンのにおいは男性を惑わせるが、同性を癒す力もある。母性に似た香りも涼風は身につけている。身寄りを失った逢子と家族同然に、ずっとそばにいてくれたのは涼風だった。
「心配なのよ、逢子。教えてちょうだい。わたしは、あなたや魁人さんたちとは違って人ではないわ。しょせん機械よ。でもね、機械でもあなたを気づかうことはできるし、心配する気持ちも生まれるの。どうして悪化なんてしてしまったの。わたしの愛しい子、教えてちょうだい」
頭皮ごとむけてしまった髪は、腐敗が止まって癒されていくあいだに魁人が押さえていてくれたので元どおりにくっついた。そこから伸びるのはビターチョコレートのように濃厚なこげ茶の髪で、つややかな毛並みが背中におりていく。涼風の白く細い指が、逢子の毛束をすいていく。人工皮膚で覆われた彼女の指に毛穴や指紋はなくて、つるりと仕上がっていた。チーズケーキのようにねっとりとした、甘い指触りがする。
「姉様は、一季さんを覚えていますか」
「……もちろんよ。あなた以上にわたしは忘れられないわ」
一瞬の間は、その脳内に蓄えている膨大なデータから一致する人間を探し出すために必要な時間だっただろうか。普段の彼女にそんなタイムラグは生じない。
機械でも、嫉妬するのか。自分以上に忘れられないなんて、張り合う必要ないのに。
「逢子の恋人でもあったからね。それでいて、わたしの開発者。わたしたち二人にとっての大切な人だけど、わたしには親のような存在でもあるから、忘れられないわよ」
「私が殺してしまったけれど」
「ああ、逢子、だめよ、そんなふうに言わないで」
涼風が、それ以上を口にすることは許さないと。言葉ではなく行動で示してくる。ふんわりと、唇で制してくる。綿あめのような軽い戯れ。
「でも、本当のことですから」
「あなたのせいじゃないの。自分を悪く言わないで。そう考えるのは良くないわ」
「でも」
「あなたを愛するには、あの人はああするしかなかった。仕方ないのよ。あの人も後悔なんてしていないわ」
「そうでしょうか」
「そうよ。そうに決まっているわ」
涼風の胸に頭を預け、なでられているあいだに、逢子の葛藤は入れたてのコーヒーに沈むマシュマロのようにとろけていった。ここ二日の傷の理由を、涼風に伝えた。いつもよりひどいと、涼風も感じていたらしい。自分が帰った直後からそんなに悪化していたなんてと、涼風に責任なんて少しもないのに、ごめんなさいと謝られては逢子も切なくなる。
「本当に、死んでしまうかと思った。魁人さんが気まぐれに訪ねてくれなかったら、私今ごろ」
「命の恩人ね」
もしも、もしも昨日あの人が来ていて、涼風とのひと時を見ていて、それで今日来てくれていなかったら、私は死んでいただろう。怖い。死ぬことは、とても怖いのだと、あの村を出てからはもう、考えが変わってしまった。
でも、一季を失ってからは、その考えもまたねじれてしまった。
「一度は本気で愛した人ですから」
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