紺色の好奇心 〜宇宙イルカの謎〜

根竹洋也

第一章

プロローグ 宇宙イルカの紺ちゃん

 2035年5月8日。 

 優しく室内に入り込む波の音とコンピューターのファンが奏でる通奏低音を下敷きに、キーボードの音がリズミカルに響く。


 カタカタ、カタカタ、カタカタ、タン。


 時折、まるで合いの手のように実験用プールから聞こえてくるポチャン、という水音を聴きながら、私、旭美理仁あさひみりにはぐっと伸びをして大きく息を吸い、それからゆっくりと吐いた。室内に漂う潮の香りには、もうとっくに慣れた。

 今日も遅くなってしまった。私はスマートグラスを外し、霞んだ目の周りをマッサージしてから首を回し、肩を揉んで立ち上がる。いつの間にか、開発室の中にいるのは二人だけになっていた。隣のデスクに座る宇田賀綾うたかりょうに、私は呼びかけた。


「宇田賀さん、ちょっと中身確認してもらえますか?」

「あん? どれどれ……見せてー」


 宇田賀は、そのぽっこりと出た腹に似合わない、まるで踊るような軽快な足取りで私の横にやって来ると、ディスプレイを覗き込んで満足そうに頷いた。


「おー、はいはい。うん、オッケー! 美理仁。お疲れ!」


 丸い顔にニコニコした笑顔を浮かべ、私の肩をパンパンと叩く宇田賀。


「ありがとうございます。これでフルダイブ中のこんと外でも簡単に話せるようになったはずです」

「紺ちゃんも喜ぶな。はははっ」

「早速、試しに動かしてみますね」

「おう、先に行っていてくれ。俺は夜飯食べてから行くよ」


 そう言って、宇田賀は大きな腹を揺らしながら自分のデスクへと戻る。私はスマートグラスをかけ直し、プレハブ小屋の開発室から外に出て隣のプール棟へと入った。目の前に広がる実験用プールの水面は穏やかで、高い天井から注ぐ白いLEDの灯りがくっきりと水面に映り込んでいた。私はスマートグラスが社内のシステムに繋がっているのを確認してから、水面に向かって呼びかけた。


「紺、お疲れ。聞こえるかな?」


 水面に映り込んでいた照明の形がグニャリと歪み、ザバッという音と共に一頭のイルカが顔を出す。イルカの名前は「紺」だ。


 紺は、普通のイルカではない。「宇宙イルカ」だ。


 キュウ、キュッ……という鳴音とほぼ同時に、私のスマートグラスの骨伝導スピーカーから少女の声が流れる。


「おつかれ、みりに!」


 次に、ポーンと音がしてプールサイドに置かれた立体ディスプレイが起動し、映し出された少女が私に向かってにっこりと笑って手を振った。ゆるくウェーブのかかった銀の長い髪に、透けるような白い肌、瞳の色は深い海のような青。フリルのついた紺色のワンピースが体の動きに合わせて揺れている。

 。彼女は本来の体と同時に、仮想世界の中の少女のアバターを操り、さらに人語でコミュニケーションができる。

 先ほどシステムに組み込んだ機能は正常に動作しているようだ。これで私が仮想世界に入らなくても、スマートグラスや接続された外部スピーカーで紺と話せるようになった。

 私は一息つこうとプールサイドに腰を下ろした。その時、思わず「どっこいしょ」と声が出てしまい、それに紺が反応した。


「みりに、どっこいしょ、ってなに?」

「えっ、なにって……難しいな」

「そうなの? よっこいしょ、とはちがう?」

「うーん、まいったな」


 私が言葉に詰まって頭を掻いていると、よく通る大きな声が実験用プールに響いた。


「紺ちゃん、そりゃあな、特に意味はないよ。人間は歳を取ると筋力が衰える。座ったり、立ち上がったりってのは見た目より体力を使うものだから、声を出すことで気合を入れているのさ。何か言えればそれでいいんだ。だから特に言葉に意味はない。みんなが言うから、自然にそう言うようになったんだろう。多分な」


 振り向くと、そこには今夜の夕飯であろうプロテインバーを齧る宇田賀がいた。紺がパタパタと胸びれを動かし、一方で両手をひらひらと動かしながら、楽しそうに言う。


「へえ、きょうみぶかい、ね! おいしいね!」

「紺ちゃんも長生きすれば、水面からジャンプする時に無意識によっこいしょ、とか言うようになるかもな。紺ちゃん達もそうなのかはわからないが、普通のイルカは野生だと三十年とか生きるんだろう? そしたら、今の俺らと同じくらいじゃないか」


 そう言って、宇田賀は堂々と「よっこいしょ!」と言って私の隣に腰を下ろした。紺はイルカの体でワワワ……みたいな鳴音を出しながら、少女の姿で笑った。


「あはは、よっこいしょ!」

「はははっ、紺ちゃんにはまだ早いぞ」


 豪快に笑う宇田賀の横で私も笑う。紺も少女の姿で笑う。私は紺を見て目を細め、そしてポツリと呟いた。なんとなく心の呟きが口に出ただけで、この時、別にその問いの答えを得ようとは思っていなかった。


「ふふ、君は一体、何をするために現れたのだろうね」


 それを聞いた紺は一瞬考えるように二つの体の動きを止め、そして少女の口で言った。


「じんるいを、たべにきたよ!」


 私と宇田賀は顔を見合わせ、数秒の沈黙が流れた。


「え?」

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