プロローグ ~捨てられた令嬢~

「ステラ。おまえとのこんやくは、今日をもって解消する」

 久しぶりに婚約者から呼び出されたので、部屋を訪問したら第一声がこれ。

 まだ着席もしていませんけど?

 私は新緑色のひとみれそうになるのを、ぎりぎりでえた。

 かたや婚約者──グエナエル・バロー・ラフォルカは、上質な天鵞絨ビロードを張ったソファにふんぞり返って脚を組んでいる。二十二歳の彼はいつぱんの成人男性よりも背が低いことを気にしているのか、自分を大きく見せようと、よくこういう格好をする。

 グエナエルが首をかたむければ、光る絹糸のようなくせのないかみが揺れた。青灰色の瞳は、少しじりが下がっていてわく的な一面もある。だが尊大にり上がったまゆと、口元にかぶゆがんだみのせいで、りよくは半減どころか「無」だ。

 素材はいいのに残念な人、これが私の婚約者。

 いくらこのルニーネ国を統治している王家のちやくなんとはいえ、その態度はお世辞にもぎようがいいとは言えない。

「お言葉ですが、殿でん……結婚式は三か月後ですよ?」

 私──ステラ・レイ・ボードリエは部屋の入り口に立ちくしたまま、努めて冷静にしようを浮かべて返答した。

 久しぶりに王宮へ呼ばれたので何を着ていこうか、となやんだ時間はだったようだ。小花のしゆうほどこされたミモザ色のドレスを選び、それに合わせてメイドが背中まであるあわい茶色の髪を、かわいらしく編みこんでハーフアップにしてくれたのに。

 するとグエナエルは、わざとらしく大きなため息をつく。

「結婚証明書にサインした後では、めんどうな手続きが増える。だからその前に呼んでやった。そんなこともわからないのか」

「そういうことを聞きたいのではなく──」

「父上からの許可はもらった。あとは、ほら、ここにおまえのサインが入れば正式な書類として認められる」

 すでにソファの前のローテーブルの上には、一枚の用紙とインクつぼに立てられた羽根ペンがごていねいに用意されていた。

「失礼ですが、こんいんは家同士のもの。本来この署名らんはボードリエ家の現当主、私の叔父おじのサインが必要なのではありませんか?」

「あんな田舎いなかまで許可を取りに行っていたら、いつになるかわからないだろう? 俺は一日でも早くおまえとの関係を解消したい」

 グエナエルのけんのしわが深くなる。

「理由を……おうかがいしてもよろしいでしょうか?」

 私はふるえる右手を、もう片方の手でぎゅっとにぎり込んでたずねた。

「俺はここにいるカミーユと人生を歩んでいくことを決めた。おまえはもういらない」

 実のところ、入室した時からずっと気になっていた。王太子のとなりにぴたりとくっつき、おたがいの小指をからめて座っているがらなごれいじようが何者なのか。

「フルマンティだんしやく家の長女、カミーユ・フルマンティと申します。このたびはわたしたちのためにわざわざおしくださり、ありがとうございますぅ」

 長い黒髪をしんのリボンでかざっている彼女は、きゅるんとしたくもりない瞳を私に向け、ぽってりしたくちびるの間から感謝の言葉をこぼした。

(んん? そこ、お礼の言葉を言うところだった?)

 私は微笑を顔に張りつけたまま、ゆっくりと首を左に傾けた。

「殿下。曲がりなりにも我が家ははくしやく家でございます。家格でいえば男爵家よりも上のはず。その方との結婚に、どんな利益がおありなのです?」

 気を取り直して正論を口にすれば、グエナエルは鼻の頭にしわを寄せた。げんな時によくする彼の癖だ。

「家格だの利益だの、カビの生えたような古いしきたりなどにしばられない生き方をすると、俺は決めたのだ。カミーユを愛している、理由はそれだけだ」

 ドヤっと胸を張ってみせたグエナエルのかたに、カミーユが幸せそうに頭をもたせかける。

(いったい私は、何を見せられているのかしら?)

 そこには完全に二人の世界が出来上がっていた。ぽやぽやと春のかおりのする花が二人の周りに零れ落ちるげんえいすら見える。

「カミーユが二十歳はたちのうちに結婚したいというので、その願いをかなえてやりたい。今回は伯爵代理でおまえのサインでもいいことにしてあるから、早くしろ」

 なんて自分勝手な人だろう。

 ぐっと唇をかみしめる。

 私だって今年で二十歳だ。婚約の手続きをしたのは十年も前。

 貴族令嬢として、これから婚活をするにはややおそい部類に入るだろう。婚約中、指一本つないだことはないと主張しても、世間は穿うがった見方をして私との結婚を敬遠するかもしれない。

 だまってきさき教育を受けてきた結果が、一生独身コース?

 きっと私に何か落ち度があったのだろう。

 気づかないうちに、グエナエルの不興を買っていたのかもしれない。ここ数か月、顔を合わせる時間が減ってきて、うすうすそんな気もしていた。けれど彼も将来のためぼうな公務にいそしんでいるのだと、前向きにとらえていたのに。

 私はグエナエルのいらたしげな視線に気づき、あきらめて肩を落とした。

「わかりました」

 うなずきながら二人の前のに浅くこしかける。

 羽根ペンを取り、書面に目を落とした。『婚約解消についての同意書』と上の方に書かれており、すでにグエナエルの自筆の署名、そして彼の父の署名もあった。

 国王が決めたのならば、それにそむくことはできない。

 震えの止まらない右手で、なんとか自身の名を書き記した。

「よし。これでおまえとの婚約は解消だ。もう下がっていいぞ」

 虫を追いはらうみたいに、しっしっと手をりながらも、うれしそうににやけるグエナエルの顔をしりに、私は彼の部屋を後にする。

「解消」とはいうものの、実際はグエナエルからの一方的な「」という方が正しい気がする。

 とびらを閉める直前、二人の甘ったるい声が聞こえたような気がしたが、勢いよくドアノブを引いてそれをしやだんした。

 衛兵ににらまれたが「たてつけが悪いようですわ」と、にこりと笑ってしやくをし、その場を足早に立ち去る。

「これから、どうしようかしら」

 はあ。今後のことを考えると気が重い。

 とぼとぼと一人で王宮の長いろうを歩き出す。

 半円状のてんじようには天使やがみえがかれ、支える柱には金細工が施されていた。これまでいくとなく通ってきたこの通路も、今日で見納めかと思うとかんがい深い。

 窓辺から見える薔薇ばら園を見つめながら、グエナエルとのドラマチックな思い出でもあるかと思ったが、何一つ浮かんでこなかった。

「……なみだも出ないわ」

 すん、と気持ちが冷めて鼻で息をつく。

 どうぞ愛する人とお幸せに。

「そうよ。落ち込んでいたって仕方ないわ。殿下より、もっともーっと幸せになって、私との婚約を破棄したことをこうかいさせてあげる!」

 たとえ悪いのが私だとしても、自分の幸福を願うくらいはいいわよね。

 正直なところ、自分勝手ですぐに不機嫌になるグエナエルのことは、好きになれなかった。だが結婚して何十年もいつしよにいれば、家族としての愛が生まれるかもしれないと期待していた。そうでなければ悲しすぎるから。

 ゆいいついい点があるとすれば──。

「ステラ」

 心地ここちのよい落ち着いた低音の声が真っぐに届いて、私は薔薇園から通路の前方に向き直った。

 陽光をたっぷりと浴びたとろける金のかみをなびかせながら、長身の男性がこちらに向かって歩いてくる。背中に高貴な白薔薇を背負っているまぶしい幻影が見え、今にも天井画の天使たちの歌声さえ降ってきそうなこうごうしさだ。

「ルドヴィク殿下」

 おうていであり、この国のさいしようも務めるルドヴィク・ミシェル・ラフォルカは、グエナエルの叔父に当たる。

 よわい四十とは思えない若々しい見た目に加え、そうめいかつ実直で部下からのしんらいも厚い彼が独身ともなれば、あこがれる人間がいないわけがなかった。

 私も例にもれず、そのうちの一人だ。

 こんやく者がいるくせにいいのかって?

 ひそかに王弟親衛隊なるものが貴婦人たちの間でほつそくしており、ルドヴィクのりよくについて語り合ったり、彼の活動内容を毎月まとめて文書にしたものを発行したりしている。こん、独身問わず入隊を許されているのだから、私が心の中で憧れるだけなら問題ないでしょう。

(はあ……今日も殿でんのお顔は天才)

 目がくらむような尊さに、思わず胸が震えてしまう。

「兄から話は聞いている。私のおいが許しがたい決断をしたと」

 目の前で足を止めたルドヴィクにれていると、現実をきつけられて私は一気に気分がしずんでしまった。

「ええ、はい。本当に、私の十年を返していただきたいです」

 十歳の時にグエナエルにめられてから二十歳になるまで、生まれ故郷をはなれ、厳しい妃教育にもえてきた。

 同年代のむすめたちが茶会を楽しんだり、町へ出かけて欲しいものをぎんしたりしている間にも、自由をうばわれ、勉強のためにタウンハウスと王宮の往復のみ。たまに馬車で出かけるのは王都の近くの児童養護せつへのもんなどふく活動に限られていた。

「私に何かできることがあれば言ってくれ」

 だんしいまゆのラインが、わずかに八の字に寄せられる。どんな難しい案件にも冷静に対応するという宰相が、ほんの少し困った顔をしているのだ。

(ああ、今すぐキャンバスに写し取りたい……!)

 描くものがここにないのがやまれる。せめておくの中に深く刻んでおこうと、ルドヴィクの尊いおもちをじっと見つめた。

 グエナエルとの婚約は解消され、もうここへ足を運ぶこともなくなる。つまり憧れの人とこうして会話をするのも、今日でおわりということ。

 勉強が難しかったり、故郷がこいしかったりして王宮の薔薇園で泣いていた時、声をかけてくれたのがルドヴィクだった。子どもの頃をなつかしみ、色とりどりの花をぼんやりとスケッチしていた時に、絵をめてくれたのも彼だ。当時、宰相に任命されたばかりでいそがしかったはずなのに、一人でいる私を気にかけてくれたことも嬉しい思い出。

 グエナエルにお茶会をすっぽかされた時には、クッキーを包んで持ってきてくれて薔薇園のベンチで一緒に食べたこともある。

 ふと、ルドヴィクが婚約者だったら、今こんなみじめな思いはしていなかっただろうかという考えがよぎった。

 普段であれば、忙しい彼をおもんぱかって、『だいじようです』の一言で済ませるところだが、グエナエルにさんざん好き勝手なことを言われ、部屋をめ出されたばかりで感情がせいぎよできない。

 ルドヴィクが婚約者だったら──?

 この先、行きおくれと言われてかたせまい思いをするのなら、最後くらい憧れの人に好きなことを言っても、ばちは当たらないわよね。どうせルドヴィクも断るに決まっているのだから、『じようだんです』と笑えばいい。それが一番すっきりする。

「では、王家の一員であるルドヴィク殿下が責任をもって、私と結婚してくださいませ!」

 勢い任せで出た言葉は、しゆくじよらしさの欠片かけらもないずうずうしくはじらずなものだった。

 悪いのはグエナエルであって、ルドヴィクにはじんも責任はない。彼にとって完全にとばっちりだ。

 当然ながらルドヴィクは、数秒間目を丸くしていた。

(ああ、どんな表情もいとしい。けれど──)

 いくら十年間王太子の婚約者だったからと言って、一回り以上も年の離れた娘からの常識外れの提案は、かいきわまりないにちがいない。

 はっきりと断られたら、さらに惨めな気持ちになるし、やはり早くこちらから冗談だと言ってげよう。

「……な、なーんて。おどろきまし──」

「わかった、君の望みをかなえてあげよう」

 引きつったみをかべた私が最後まで言い終えないうちに、ルドヴィクがすぐに言葉をかぶせてきた。

 湖水に似た、んだ青い目が細められる。それから自然な動作でその場にひざまずいたルドヴィクは、私の手を取り、こうにそっと口づけた。

「私と結婚していただきたい、ステラ」

 頭の中で祝福のファンファーレが、うるさいくらいに鳴りひびく。

 ちょっと待って。

 勢いで言っただけなのに、うそでしょう!?

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