光ある旅路
たんぼ
第1話 少年ハレル
「おーい!ハレルー!」
「なんだー!?」
「そっちの刈り取り、ひと段落ついたらこっちも手伝ってくれねえかー!?」
「了解!」
雲一つない紺碧の大空の下、何人かの少年たちが畑仕事に精を出していた。
ハレル少年は、上着を脱ぎ小麦色に日焼けした肌を暖かな陽光に晒していた。右手には鋸鎌を持ち、せっせと麦を刈り取っていく。その度に、水滴となった汗がきらきらと飛散して、光の粒となって地面に落ちて行った。
「んー、気持ちいいなあ」
かがめていた腰を伸ばし、左腕で露になった額を拭う。先ほど刈り取ったばかりの麦束にして握っている。手のひらからはみ出し、外に垂れた麦の穂がそよ風に靡いてゆらゆらと揺れていた。ハレルは眼前に広がる黄金色をした麦畑をぼうっと眺めていた。すると、どこからともなく鳥の鳴き声が聞こえてくる。鳴き声は規則的でリズムを刻み、風を運び手にして宙を舞っている。どういう種の鳥なのか、ハレルはあまり知らなかったが、まるで誰かに向けた穏やかな歌声のようだった。瞼を閉じて鳥の調べに耳を傾けていると、麦の刈り取りをする季節特有の、涼しく乾いた優しい香りが鼻孔から忍び込むように入ってきた。それを命一杯吸い込む。脳が空気で満たされる。そうしている間にも、清らかな風が身体全体を撫でていた。
「こうしてると、自然と一緒になった気がするな。よし」
背筋を伸ばして、上半身を左右にゆっくり振ると、ハレルは再び刈り取りの作業に戻った。ある程度刈り取ると、脱穀して束にした麦を籠に放り込む。それを繰り返していった。籠の縁に麦が顔を出すほど満杯になると、道端に停めておいた荷馬車からまた新しい籠を持ってくる。その途中で、遠くから耳慣れた機械音が聞こえてきた。車のエンジン音だった。
「あ、領主様だ」
ハレルの目の前に、黒い光沢を放つ車が走ってきた。車の後方には綺麗に磨き上げられた客車が繋がれていて、取り付けられた窓には内側から紫色をしたカーテンがかかっていた。
「領主様、こんにちは!」
土埃が舞い上がる中、ハレルは客車に向かってを頭を丁寧に下げた。するとカーテンの隙間から顎に肉を蓄えた男が顔を見せた。その奥には、陰っていてもそれと分かるほど、綺麗な金髪をした少女の姿が見えた。車を運転していた運転手がそばまで小走りに駆け寄ってきて、乗り降りするための扉を開いた。客車から降りてきたのは小太りな中背の男だった。どこかのパーティーに出席するのか、めかしこんだ恰好をしていて、そのスーツがより一層身体にまとわりついた贅肉を強調していた。男は背筋とスーツの裾を伸ばし、今もなお頭を下げているハレルをじっとみて言った。
「君は、ハレル・ニールダンといったかね」
「はい!」
「そんなに深々と頭を下げんでもよろしい」
「そうですか。ありがとうございます!」
「どうかねこの畑は?順調かな」
「はい。あ、向こうの方に何人か仲間も居ますよ。呼んできましょうか?」
「いやいや結構」
「御機嫌ようハレル」
「お、お嬢様。こんにちは」
先ほど男がのそのそと降りてきた昇降口の傍には、肌の白い華奢な少女が立っていた。この少女も柔らかく鮮やかな白のドレスを着てめかしこんでいた。
「あら、そんな他人行儀な態度取らなくても」
少女は口に手をあて、目を細めふふと笑った。
「この畑も随分と立派になりましたわねぇ。ハレルたちのおかげです。ありがとう」
「い、いえ。滅相もないです!」
「ところで、どうです?」
「え、は・・・?」
ハレルの目線の先には、ドレスを着た自分を見せつけるようにして少女が立っていた。
「綺麗でしょう?これからパーティーに行くの。ハレルに見てもらいたくて」
「こらシーラ、中へお入り。せっかくのドレスが汚れてしまうぞ」
「お父様だって、外へ出て彼と話している癖に。どーして私は同じことをしてはならないんです?」
むすっとした表情でシーラと呼ばれた少女は男に言い返す。そこにはまだあどけない少女の顔が見え隠れしていた。この人も僕とあまり変わらない。生まれた環境が違うだけで、とその様子を見守りながらハレルは感じた。その間も父と娘でなにやら言い合っていた。
「そうやって面倒くさくなるといつもお父様はすぐ逃げる!」
「まったく。ああ!もうこんな時間だ。ハレル君仕事の邪魔をしてすまなかったな。これからも励んでくれたまえよ。シーラ、もう出発するぞ。早く中へ戻りなさい」
懐中時計を取り出して時間を確かめた後、男はハレルに声をかけていそいそと客車に戻った。
「またねハレル」
客車の奥からシーラがハレルに手を振っていた。ハレルが何かを言い返す前に扉は閉じられ、またあのカーテンが窓を覆った。運転手が座席に戻り、エンジンを動かした。排気口から煙を吹かして車はのろのろと発進した。客車もそれに引っ張られて車輪が土でできた道に轍を残した。はじめの内はゆったりと走っていたが、次第に加速していきやがてその姿は黒い点となっていた。
「さっきの領主様んとこの車でねえか?」
「ああ。そうだぜ」
「ハレルお前またシーラお嬢様のご尊顔を拝めたのかよぉ!」
がやがやとハレルの仕事仲間たちが集まってきた。今まで働きっぱなしだった故に、皆が皆汗を大量にかいていた。ハレルは彼らにもみくちゃにされるように絡まれ、その熱気を直に感じていた。
「は、はなせよ・・・!別に、大したもんじゃ・・・・」
「大したもんだよぉ!」
ハレルにヘッドロックをきめている少年が言う。
「あのな、お嬢様なんだよ。お・じょ・う・さ・ま!このメディナ地区一帯の領主、アンドレア家の長女なんだぜ?何年もすりゃあよ、俺たちのご主人様になるお方よ」
「そのくらいは!腕緩めろよ・・・」
「なんでもハレルは、お嬢様のお気に入りみたいだからな~」
別の少年。
「そんな、訳ないでしょ。人と話すことが好きなんだよ」
「でも噂になってるがね。なんでも、どっかの良い家柄の坊ちゃんからの結婚話を断ったってな」
「それだけでお気に入りにされてもね」
「んいや、まだあるさ。そのプロポーズを断った後よ、どんな人が好きなのか聞かれたんだと」
「・・・・それで?」
「そしたらまあ、ちょっとだらしのない長い黒髪で、明るい赤色をした瞳をもって、すらっとしていて筋肉もあって小麦色に日焼けした肌が似合う人。って答えたんだとよ!」
「いやに具体的じゃないか。ほんとなのか?それ」
ヘッドロックからようやく抜け出して、タオルで顔を拭いながらハレルは言った。
「もうお前のことに決まってんじゃねえかよ!特徴がドンピシャリだぜ!」
「羨ましいよお前・・・」
「そうは言ってもッ・・・よっと」
荷馬車から新しい籠を取り出して、背負う。
「まだ俺だと決まった訳じゃないだろ。それに今日の分の作業早く終わらせようよ」
「ま、それもそうだな」
そう言うと、先ほどの熱と浮かれ具合は幻だったのかと思うほど彼らは自分の作業場へと足早に戻って行った。
日が傾き、空を茜色に染める頃ハレルたちは帰路につく準備を始めていた。作業の途中ハレルは籠で荷馬車を一杯にすると、仲間の仕事を手伝ってやっていた。
「今日はこんなもんでしょ」
「帰るぞー」
ハレルは馬を引き、ゆっくりと家への道を歩き始めた。その後ろから仲間たちも着いて行く。彼らが歩く田舎道の左右にはまだ刈り取っていない麦畑が残っていて、麦は夕日を受け一層黄金に輝きながら風にその身を委ねていた。さわさわと優雅に揺れるその光景は、生命を育む神秘的な海が波立っているようにも見えた。空にはカラスがその翼で風を切りながら飛翔しており、ハレルたちの頭上を飛び回っては、夕食にありつけるかどうかをしきりに窺っていた。
日が沈み星空が天空を彩る頃に、ハレル一行は自分たちが暮らしている集落に帰ってきた。彼らが住む場所には大人が居らず、最年長でも二十歳そこそこの青年であった。ハレルを入れて30人余りが生活をしている。男手は基本的に畑仕事や、近くの鉱山へ出稼ぎに出ている。女手は裁縫や家屋の掃除、家畜の世話などを受け持っている。皆親を持たず、紆余曲折があってこの場所に流れ着いた者ばかりだった。彼らは持ち主がいない荒地を開墾・整備することを条件にメディナ地区の領主アレクセイ・アンドレアとの交渉でここに住居を築き住むことを許されたのだった。
ハレルはその交渉の場で、父アレクセイに連れられていたシーラと出会った。彼女と直接関わりあうことはこれまでに少なく、またハレル自身も積極的にシーラと関わりあおうとはしなかった。それは、彼女は言わば支配者層で貴族階級であり、自分は被支配者層であってそのような身分の者が上流に位置する人間と親しくするなど失礼極まりない、と思ってのことだった。反面シーラはハレルのことを気に入っていて、父に彼を召使として家に迎え入れたいと再三直訴していたが、その全ては徒労に終わっていた。父であるアレクセイは娘の気持ちに薄々気が付いていたが、召使自体は足りているし何より定住しているとはいえ、出自不明な流浪の民に嫁がせるより、それが明白で実社会にコネを持っている家の男に嫁がせたいと思っていた。
「明日はドートさんのところに収穫している分を持っていくよ」
荷台を外し、馬小屋に馬を繋ぎ留めながらハレルは言った。
「また持っていくのか?向こうから取りにこさせればいいじゃないか」
「キース、ドートさんたちも忙しいんだよ。それに街へ出て行くのは嫌いじゃないし、いいさ」
「ま、ハレルがいいならそれでな」
キースと呼ばれた少年は、ハレルの友人で同じ15歳だった。ハレルに比べると体格が良いのだが、本人はあまりハレルほど真面目ではなかった。繋ぎ留められた馬のたてがみを優しく撫でながら少しからかうように続けた。
「お前もよく働くよ。ハレルがご主人様なもんだから、毎日忙しいだろ。あいつさえ良ければ、俺んとこで引き取って楽させてやるんだがねえ」
「そんなことないさ。ちゃんと世話してるし、こいつも色んな所に行けて喜んでるんじゃないかなぁ」
ハレルの声に反応するように馬は尻尾を左右に振りだした。前足で地面を小さく蹴っている。
「ご主人に似て、働きもんだ」
「そうやって生きてるから」
「まあな。あ、今日さマリカがトンプソンさんから豚の肉貰ったって。勿論食べに来るだろ?」
「豚の肉!?行くに決まってる!」
「じゃ伝えてくるから後でな」
「おう!」
背中を向けて右手を振りながらキースは馬小屋を後にした。
「今日、肉料理だってさ!」
キースの代わりにたてがみを撫でてやる。その後、小屋の奥から餌の干草を持ってきてそれを敷き、井戸から馬の飲み水を汲んできた。
「今日は早く寝るんだぞ。明日朝早いんだから」
ハレルの言葉には全く耳を傾けない様子で、彼ははぐはぐと干草を食べていた。
「お休みな」
そう言い残してハレルは馬小屋から外に出た。視界には幾つかの家屋が見え、窓からうっすらとオレンジ色の光が外に漏れている。中には煙突がついている物もあり、煙が静かに上空へ昇っていく。家屋を取り囲むように針葉樹が並び立っていて、どこかに留まっているのか梟の鳴き声が聞こえる。星空を眺めながらなんとなく鳴き声を聞いていると、遠くの空から微かにぶるるると音が伝わってきた。その音は次第に大きくなり、今までの静寂を一瞬にして奪った。風が起こり、梟の鳴き声もかき消された。そして僅かな間にハレルのすぐ頭上を1機の複葉機が飛び去って行った。また音は遠くの方へ消えていき、先ほどまでの静けさが周囲を支配した。
「・・・あんなの作れるんだもんな。人って」
山吹色を基調とした胴体が、月明りの下夜空に溶けていく光景を眺めていた。あの飛行機はいったいどこまで人を乗せて行けるのだろう、遠い昔に聞いたあの星空がある場所、宇宙という場所にも行けるのだろうか、と羨望に似た眼差しを向けて。
そうこうしている内に、腹の虫がぐ~っとなりハレルを夕食の場へとせかし始めた。豚肉が食べられると分かった時から、この虫はずっとそれにありつける事を心待ちにしていた。ハレルはもう少し星空に思いを馳せていたい気持ちだったが、あまりにも鳴り響くのでその『声』に従うようにキースとマリカが暮らす家へと足を進めた。扉をノックすると、中からキースの声がした。
「ハレルか?入れよー」
「今晩はマリカさん」
「ハレル!いらっしゃい。キースから聞いてきたのね?」
「当たりです。でも、本当にいいんです?」
「気にすることないわ。皆で食べたほうが楽しいでしょ」
「じゃあお言葉に甘えて!」
「ええ、ええ。甘えられる時に甘えておきなさいな」
扉を開け中に入ったハレルは、仕事仲間のキースと彼の婚約者であるマリカから温かな出迎えを受けた。家は二人で生活するには充分な広さがあり、玄関からみて右手には冬の到来を待つかのように、手入れをされた暖炉が黒い口を開けて居座っていた。部屋の中央に長方形をした木造りのテーブルがあって、卓上には同じ木造りの平皿がありその上には香ばしいにおいを放つ豚肉の切り身と、別の皿にパンが並べられていた。
「豆のスープもありますからね」
用意された椅子にハレルとキースはそれぞれ座る。
「ごちそうじゃないか!」
「だろ。ありがたいよほんと」
「キースいつ結婚するんだよ」
「いつって言ってもなあ」
「女の人ってこういうのあんまり待たせちゃ駄目なんじゃないの?」
「時期ってもんがあんのよ」
マリカはキースの婚約者で、彼より三歳年上の女性だ。キースとマリカと同じく、若い年齢で婚約もしくは結婚する例は彼らの間では珍しくなかった。他にも男が年上で女が年下の組み合わせもあれば、双方同い年の場合もあった。子供が生まれた場合、仲間全員で面倒をみることが慣わしであり、育児に参加しない者はやや冷ややかな目で見られることが常であった。
「フンフフ~ン」
二人の会話が聞こえたのが、鼻歌交じりにキースに詰め寄るような瞳を向けてマリカがスープを運んできた。スープが入ったお椀を置力がいつもより強いとキースは感じた。右手を後頭部に回し、どぎまぎしながら頭を軽く掻いた。そして話題をすり替えるようにしてハレルに言い放った。
「で、そういうお前はどうなんだよ?ハレル」
「なんで?」
「お前にだって待ち人が居るんだろ?」
「キースもあの噂信じてるのかぁ・・・?」
「ハレルにお嫁さん??」
「い、いや違いますよ。あ、ほらお祈りしないと」
マリカが席に着く。三人分の夕食が机に揃った所で、皆目を閉じ両手を胸の前で合わせ心の中で命の恵に感謝した。そして遠い未来でも同じように食卓を囲めることを祈った。その後、一呼吸を入れてそれぞれ食べ始めた。
「それで、どんな人なのかしら?教えてくれないと酷いわよ」
「誤解ですよ。キースや他の連中が勝手に言ってるだけです」
「誤解なもんか。ハレルさ、アンドレア家のシーラお嬢様に惚れられてるんだぜ」
「まぁ!良かったじゃないのハレル」
「何の確証もないのによく言う」
この先、噂が自分のあずかり知らぬところでアレクセイの耳にでも入って追い出されたらどうしよう、とハレルは気が気ではなかった。そう思うとこの美味しいパンも喉を通りにくくなったような気がした。
「ハレルがシーラお嬢様のお婿さんになったら、この辺一帯はハレルの物になるのかしらね。もしそうなるんだったら楽させて欲しいわね」
マリカが目を細めニコニコとしながら言った。
「楽と言っても。俺は好きですけど」
「皆が皆、お前みたいに畑仕事が好きな訳じゃないさ」
「それは、そうなんだろうけど」
「ハレルお前さ、シーラさんに直接確かめてこいよ。明日メディナ街に行くんだろ?会ってきたらどうだい」
「どこに居るかも分からないし、分かったとしても門前払いされるのが関の山だよ」
「あなたはシーラお嬢様のことどう思ってるの?」
「どうって言われても。綺麗だし優しい人だとは思います。俺みたいな人にでも話しかけてくれるし・・・」
「そりゃあ、お前がお気に入りだからだ。他の連中じゃそうはいかないね・・・んー!うま!!」
豚肉の切り身をフォークで突き刺し、口に放り込んだキースから感嘆の声が上がる。
「あちらさんが好きでも、ハレルも同じように好きでないとね」
「でも俺は流民です」
ハレルはスープを静かに飲んだ。
「確かに、俺たちは流民さ。街の連中からしてみればその辺の動物と大差ないのかもしれない。でもあいつらの飯の種を育てているのは俺たちのような畑仕事してる奴さ。文句は言わせない。だからハレル『俺みたいな』なんて言うな。そんなこと言っちゃいけない。自分を殺すぞ」
「キース、説教じみたことを」
マリカが咎めるように言う。
「大丈夫ですマリカさん。ありがとうキース。でも本当、好きかわかんないんだ」
彼らの話題はハレルのこの言葉を機に別の内容に移った。食卓には終始笑い声が絶えなかった。何度か恋愛話に花は咲いたが、その日ハレルとシーラのことが話題に上がることは二度となかった。
「ありがとう。お客様なのに悪いわね」
「ご馳走になったんですから、これくらい」
マリカが洗った食器をハレルが布巾で拭いて食器棚に戻していた。キースは明日の作業の準備をする為に道具を整理していた。
「でも明日早いんでしょう?そっちの準備もあるでしょうし」
「まあ。じゃあ・・・・・・よしこれで帰ろうかな!」
まだ水に濡れた皿を一枚手に取り、水滴を綺麗に拭きとってあるべき場所に戻した。布巾を置き、マリカに礼を言ってキースたちの家を出ようとした。するとキースが玄関に見送りにきた。
「ご馳走さま。美味しかったよ」
「マリカだからな。明日、街気を付けてな」
「すぐ済むだろうし、戻ったら畑にいくよ」
「りょーかい。じゃな」
「お休みな」
互いに手を振りあい二人は別れた。玄関の扉が締まり、暗い外の世界に一人で立っていると得体の知れない寂しさがハレルを襲った。その感情を打ち消すように足早にハレルは自分の家へと戻った。
中はがらんとしていて、キースの家のような温かみは感じられない。部屋を照らすのは窓から差し込んでくる月明りのみだった。ハレルは蝋燭に火を灯して、明日街へ赴くための着替えを用意した。自分が持っている洋服の中で、一番上等だと思えるものを選んだ。それを丁寧に折り畳み、丸いこじんまりとしたテーブルの上に置く。
「寝ようか」
ゆらゆらと揺れる灯をしばらく無言で眺めた後、ふっと息を吹きかけて消した。ベッドに横たわり睡魔の到来を待っていた。
「ガイストが居ないだと!?」
「のようですな。隔壁を破り外へ出たと思われます。詳しいことはまだ不明ですが」
「ここを抜け出して何処へ行こうと言うのか」
「小生には分かりかねます。しかし我が君よ、分からないながらも凡その見当はつくでしょう」
「・・・それは?」
「地球です」
「何故かな?ポリス・ルナに行った可能性もあるだろう」
「ガイストの機能を思えばそれは愚問というものですな。あそこにはせいぜいルナティックベルトを形成する工業地帯と、そこで働く技術者しかおりますまい。そんな所へガイストを持って行ったとしても意味はないでしょう。かつて繁栄を極めたとされる時代ならば、それも有り得ましたが。それにポリス・ルナへ行ったとするならば、そのように報告が向こうから上がってきている筈」
「・・・もう一つの問題は誰がガイストを持ち出したのかということだ」
「動かせる者は限られております故、時期に判明するでしょう。そんなことよりも、ガイスト奪還のために早急に手を打たれた方がよろしいと存じますが?」
「分かっている。すぐにジュピターシュタシスの開発部の者共を呼び対策を練らせる」
「ジュピターシュタシスの・・・・・?ほぉ。・・・ではそのことが成った暁には、我がヘルシャフト家を使って頂けると?」
「当然である。その為に卿らの家が興ったのだ。祖先から続く務め、真っ当せよ。ヴォーダンエイム・ヘルシャフト」
「御意」
「もう下がれ。今宵は疲れた」
「は」
大理石が黄金に輝く広間で、2人の男が話し合っていた。1人は姿勢良く直立し、もう一方は仰々しく片膝と片腕を地面に付き跪いていた。その男がすっと立ち上がると、もう一人の男の背丈を優に超える影が出来上がった。くるりと丁寧に体を回して大男、ヴォーダンエイム・ヘルシャフトは広間を去った。男が去った後広間の明かりは消え、壁には暗闇の中無数の星々が爛々と煌めく風景が映し出された。そしてその中に、光に照らされてひと際青く輝いていた球体があった。
「我らの故郷か」
残っていた男はそう言い捨てるとゆっくりその場を去った。
「アインクルシュ家も落ちたものよなぁ。政治闘争、権力闘争に明け暮れた挙句がこの作戦とは」
「ヴォーダンエイム様」
「誰もおらんよ」
広間から出たヴォーダンエイム・ヘルシャフトは、傍に従者を連れて長く白い清潔に保たれた廊下を歩いていた。廊下は天井から眩い光で照らされていた。たまに彼らの足元を小さな小動物サイズの機械が数体、何かを求めるように彷徨っていた。
「元々我がヘルシャフト家は、外宇宙から流れてきたとされる漂流化石が発端となり興ったのだ。その地球外生命体に対抗するべく武を司る家としてな」
「それは存じております」
「しかしどうだ。現アインクルシュ家の当主、キュンメル・アインクルシュは我々の武力を未知の生命体ではなく同じ人間にまで使おうとしている。つくづく人というものは争いを忘れられん種と見えるなぁ!まあ、ガイストなどというあの大それた機体を開発させるほどだからな!」
「しかし閣下はそれがお好きなのでしょう?」
「当然だとも。武門の家に生まれたからには、戦いとは名誉であり人生である!ようやく戦場に見えることができそうなのだ。この興奮、抑えること甚だ堪える。・・・あの政治屋ども、エントライはどうか。」
「それも抜かりなく」
「ならば良い。せいぜい利用させて貰うとしよう。アインクルシュ家同様にな。ははは!」
ヴォーダンエイムは腰まで届く銀色の長髪を宙に靡かせたまま高笑いを続けていた。
熱い。熱い。大丈夫かな。下がる、下がる、落ちる、墜ちる?これが重力というもの??こんな重苦しい感覚あの場所には無かった。もっと自由でふわふわして。なんだ?青い地面が目の前一杯に広がっている。ああ、あれだ。太陽だ。あの青い地面が太陽の光を吸っている?あれが海なのかな。・・・・・?なんだろう。温かい想いが流れてくる。どこからだろう。聞いたことが無い声だ。色んな声が聞こえてくる。嬉しい?腹立たしい?悲しい?楽しい?凄い!たくさん聞こえてくる!
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