タバコ飼育キット
山瑞
タバコ飼育キット
研究家である私は、悩んでいた。
もうすぐ子供も生まれるからと、妻にタバコを止めるように言われていたのだ。
私にとってタバコとは、かけがえのない親友のようなものである。
研究に行き詰まった時、淹れたてのコーヒーを楽しみながらベランダで一服し、ぼんやりと外の景色を眺める。この一服こそが、研究を頑張ってきた私へのご褒美と言える時間だった。
そんなふうに長年付き合ってきた時間と、果たしてお別れできるのだろうか。
私はどうすればいいのかと悩んだ。悩んで悩んで、またコーヒーを片手に外を眺めた。気づけば口元にはいつもの彼がいる。
そして、「ふう」と一息つく。
ああ、幸せだ…
いやダメだダメだ、こんなことをしている場合ではない。
どうにか彼と別れをしなければいけないのだ。
そんな時、ふと思い浮かぶ。
とある教育施設では命を学ぶという体で、子供たちに子豚を育てさせ、大きくなったらみんなで食すというある意味残酷な行為をしていると聞いたことがある。
その行為の中で、子供たちは己が育てた子豚に愛情を持ち感情移入し、最後には豚だけでなく肉すら食すことができなくなったものもいるそうな。
これは、使える……!
私は急いで研究を進めた。
寝る間も惜しみ、大切な休息すらも取らず、とうとう完成させた。
無機物に命を与えるという今までにない革新的な研究を。
「で、できた。ついにできてしまった……」
目の前には完成したタバコ飼育キットがある。
ケースの大きさは直径五センチほど、その中には小さな糸屑のようなものが入っている。この糸屑状のものがタバコの幼体だ。
飼育に必要なものは二つ、水とほぐしたタバコの葉を与えるだけでいい。
これらを毎日与えることで、少しずつ成長し、やがては立派な一本のタバコになっていくのだ。
「私は今日から君を育て、最後にはお別れすることを誓うよ」
ケースの中の小さな糸屑のような物体はモゾモゾと動いている。
「お腹が減っているだろう。この水を飲み、そしてこのタバコの葉を食べたまえ」
彼は自分が持っていたタバコの葉をほぐし、与える。
小さな物体はタバコの葉に近づいてモゾモゾしている。
小さすぎてよくわからないが、おそらくしっかりと食べている様子だ。
これから毎日しっかりとお世話をしよう。そして最後は……
1週間ほど経つと、タバコは長さ1センチほどに成長していた。
まだ1ミリほどの太さしかないためよく見えないが、タバコらしい姿になってきた感じがある。
私は嬉しくなりつつも、いつものように水とタバコの葉を与えた。
芋虫のように動きながらも餌を食べる姿は非常に愛らしかった。
そう、私はしっかりとこの生命に愛情を感じている。
タバコを止めるためのこの実験は、どうやらうまく進んでいるようだった。
さらに1週間ほど経つと、3センチほどの大きさになっていた。
小さいだけで、完全にタバコの姿になっている。
私はこの子に対して愛情を持っている。
きっと大人になったキミを殺すなんて残酷なことはしないだろうと思えた。
1週間後、妻との仲が険悪になっていた。
私がタバコを持っているところを彼女が発見し、激昂したのだ。
私は「今タバコを育てていて、その餌に必要なんだ」と説明したけど、妻に伝わることはなく、彼女は僕の頭がおかしくなったと非難した。
証拠のためにと、育てているタバコを見せようとしたが、彼女にはケースに入った芋虫にしか見えなかったのだろう。
彼女は「虫嫌いの私にそんな酷いことをするなんて最低!」と酷い形相で睨みつけてきた。
私には、もうどうすればいいのかわからなかった。
妻と子供のためを思ってやってきたことが、全て裏目に出ている。
怒った彼女はついに、身籠った体で実家に帰ってしまった。
私はそれから1週間ほど引きこもった。
自分の研究にはなんの意味もなかったのだろう。
なんのために私はこんなことをしていたのか。
今更どうしようもないことばかりをぐるぐると考えていた。
そんな時、懐かしい匂いを感じた。
「これは、タバコの匂い……?」
私は思い出した。
それはタバコの性質のことだ。
飼育するタバコに、長時間の放置や餌を与えないなどの愛情のない行為はしてはいけない。
そんなことをすれば自暴自棄になってしまい、自らを傷つけてしまうのだ。
私は部屋へ急いだ。
ケースの中を見ると、マッチ棒で自分に火をつけようとするタバコの姿があった。
いつの間にかタバコは大きくなり、すっかり大人になったと言ってもいいサイズになっていた。
タバコはこちらに気がつき、声を上げる。
「ぱ、ぱぱ。寂しかったよ、お腹減ったよ」
私は感動していた。
あの小さかった子供がこんなに大きくなっているなんて、
言葉を発し、こんな私を父親として認めてくれるなんて、と。
私は彼を両手で拾い上げた。
嬉しくなった私は、彼をお気に入りのベランダに連れて行った。
気持ちの良い風、澄んだ空気、懐かしい匂い。
「あぁ、これだ。これだよ、これ」
これほど清々しい気持ちになったのは久しぶりだ。
長い間飲んでいなかったコーヒーは、今までで一番と言えるほど美味しく感じられた。
「ふう」と一息つく。
部屋に戻ろうとすると、自分の手元にゴミがあることに気づいた。
私はそれをサッとゴミ箱に投げ入れ、部屋に戻った。
研究家はいつもの部屋で、嬉しそうにケースを眺めている。
だが、その中には何も入っていない。
いや、よく見ると小さな物体がモゾモゾと動いている。
それをただ、嬉しそうに眺めていた。
タバコ飼育キット 山瑞 @sanzuisan
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