異世界演劇概論

チヌ

演劇史Ⅱ

はじめに

 演劇の歴史は、イド歴以前マシルテ王の時代にまで遡ることは演劇史Ⅰで説明した通りですが、ここではさらに近代、ギオテ教皇の時代を中心に扱っていきます。

 演劇に宗教が強く絡んでくるのはギオテ教皇の時代からであるというのは、近年の研究で明らかになっており、彼は宗教演劇の開祖として位置づけられています。ギオテ教皇は演劇に限らず芸術分野において数多くの功績を残し、今日の芸術分野の礎となったと言っても過言ではありません。演劇史Ⅱでは、主に宗教演劇の起こりと宮廷から市井への派生について学んでいきます。ギオテ教皇自身も激的な人生を送っていますので、興味のある方は「我が国の歴史」の授業を参考にしてください。


1.ギオテ教皇即位の流れ

 「我が国の歴史」を履修している皆様には説明が重複してしまいますが、演劇史Ⅱを学ぶ上で最も重要な箇所であるので少し詳しく記していきます。

 王太子時代のギオテ教皇は、当時の最も新しい宗教である「清教せいきょう」に、王族の立場でありながら入信します。(入信の理由、清教については「宗教学」を参照)当時、王族が特定の宗教を信仰することはタブーとされていたため、ギオテ教皇は一度宮廷から追放されます。しかし、ギオテ教皇の父であるメンバラ国王は子宝に恵まれなかったため、王位継承第一位であったラべワ兄王が病に罹ったことをきっかけに、ギオテ教皇を宮廷に呼び戻します。ラべワ兄王の病は完治しますが、メンバラ国王の死後、兄王は王位継承権を破棄したため、ギオテ教皇が誕生します。その後、法律の編纂が為され、王族にも宗教の自由が認められる時代になります。


2.宗教演劇の起こり

 マシルテ王の時代から演劇は上流階級のための娯楽でしたが、本来上流階級に分類される宗教家の間で演劇が発展することはありませんでした。詳しくは「宗教学」で触れられると思いますが、聖職者が使う魔法と演劇技法で用いられる魔法の相性が良くなかったというのが理由の一つとして挙げられます。

 ギオテ教皇の即位後、しばらくは宮廷での演劇が禁止されていたようですが、貴族による反発が高まったため、宗教と演劇の両立へと移行します。その時に、現在の宮廷劇団の前身と言われている「清教魔法研究部」が設立されます。研究員は清教の信者を中心に集められており、宮廷で興行を行う劇団と交流を持っていたそうです。当時、宮廷で演劇の上演が許されていた劇団はごくわずかでしたが、それぞれが独自の魔法体系で上演を行っていたことから、研究は混迷を極めたらしいことが史料によって伺えます。わかりやすく説明すると、同じ「赤」という色を舞台上に映し出すとして、片方は火属性魔法由来のものを使っているのに対し、片方は光属性魔法の拡大解釈によって赤を作り出している、といったようなものです。もちろん、当時の魔法体系は現代と異なりますから、今の説明よりもさらに難解で不可解であったことは想像に容易いでしょう。

 また、清教魔法研究部の活動は、単に宗教と演劇の架け橋となっただけでなく、現代の魔法体系の基礎を作ったとも言われています。話は少し逸れますが、宗教との両立に難を抱えていたのは演劇だけではありません。画家や音楽家、建築家なども独自の魔法体系を持っていました。ギオテ教皇は彼らの存在にも目をつけ、清教魔法研究部の研究者として十分な地位と権力を与えます。結果、その噂を聞きつけた国中の芸術家が宮廷に集まることになり、魔法研究は急激な飛躍を遂げます。専門用語ではこれを「リリアスの魔法開花」と呼びます。

 清教魔法研究部が最初に上演した作品はオザパ作「ラッカッパヤの祝福」だと言われています。現代でも有名な作品ですね。知っている方ならわかると思いますが、この作品は演劇史Ⅰで扱っていた叙事詩「メキ(ロ)ン」を引用したものです。大がかりな魔法演出を必要とせず、かつ宗教に寄り添った内容であることから選ばれたものだと推測されます。上演には宗教者や芸術家も集まり、宮廷が祭事と見紛うほどの人で溢れかえったそうです。成功を遂げた清教魔法研究部は、ギオテ教皇からより一層の援助をもらいます。これが清純で潔白な宗教演劇時代の幕開けとなります。


3.宮廷から市井へ

 宗教演劇の隆盛は当初、宮廷内に限定されていましたが「ラッカッパヤの祝福」をはじめとした有名な作品が上演されるにあたって、市民の間にも噂が広まることとなります。演劇史Ⅰで述べた通り、当時の演劇は絢爛豪華な貴族文化に傾倒したものだったので、市民にとっては馴染みの薄い、理解しがたいものとしての印象が強く残っていました。しかし、清教魔法研究部の演劇はそれまでの貴族に媚びを売った演劇とは異なり、宗教色の強さゆえの質素で落ち着いた上演が人気を博していました。貴族のみならず、市民が見ても楽しめるような内容が多かったのです。ギオテ教皇は、演劇の上演が行われる期間のみではありましたが、宮廷を開放し、市民にも演劇を観るようお触れを出します。このような施策を取った理由は諸説ありますが、追放された時代に市民と生活を共にしていたギオテ教皇の懐の深さがあったためとも言えるでしょう。

 市民に演劇が広まり始めると、当然、市民の中からも演劇を志す者が現れます。市民劇団の誕生です。当時の市民劇団の数は最盛期で30~40ほどあったと推測されています。当時の人口から考えると市民の6割ほどの人間が演劇に関わる仕事をしていた計算になります。それほど、市民にとっても演劇は刺激的で中毒性のある娯楽だったのです。「ケマスの会」など一部の劇団は現在も活動を続けています。爆発的な人気を博した理由の一つとして、清教魔法研究部の研究成果が広く一般に公開されていたものであったことが挙げられます。論率派の貴族たちは研究結果を秘匿し貴族の繁栄にのみ使われるべきだと主張していたようですが、ギオテ教皇はこれを一蹴し、研究成果の全てを王立図書館に寄贈するよう指示します。文化の発展には市民の力が必要であるとわかっていたんですね。ギオテ教皇の英断は実を結び、我が国は当時の近隣諸国とは比べ物にならないほど発展した演劇文化を持つこととなります。


4.市民劇団の趨勢

 ギオテ教皇は市民劇団の演劇にも興味を示し、お忍びで観に行くほどだったそうですが、増え続ける劇団の全てを観に行くことはできなかったようです。数が増えると生存競争が行われるものですが、驚くべきことに当時の文献でそのような記述は一切ありません。というのも、演劇によって一般に広く聖典の内容を教えることが出来ると気づいた宗教家が、こぞって劇団に支援を申し入れ始めたのです。当時の宗教家は貴族王族と並ぶ権力者ですから、劇団を作り、教会に申請するだけで勝手に儲かるような仕組みが徐々に出来上がっていきます。当時の市民劇団は教会による潤沢な資金援助を受けながら、作品の上演ができていたと推測されます。そのため、チケット代や鑑賞代の徴取を必要とせず、誰でも気軽に演劇を楽しむことができていたのです。現代に生きる我々からすれば、タダで観劇できるなんて羨ましいと思うかもしれませんが、劇団が教会の援助を受けていたため、観客は一作品ごとに一冊の聖書や経典を持ち帰らなければならなかったようです。当時の識字率の高さはこのようなところからも伺えますね。


おわりに

 演劇史Ⅱでは現代の演劇に多大な影響を与えたギオテ教皇の時代を学びました。ギオテ教皇の死後、市民劇団はここからさらに魔法演出の技術を競い合い、かつ教会による保護を失った劇団による熾烈な資金稼ぎが勃発する時代へと移行します。

 それではみなさん、演劇史Ⅲでまたお会いしましょう。












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