第9話 灼けた羅勒草

 遠ざかる背をディルクスは目で追わなかった。ただ敵対するヴァルガだけを凝視する。

 ポツリと、禿頭とくとうのてっぺんに水滴が落ちるのを感じた。


「雨、か……」


 今でも雨に濡れると思い出す。

 彼女を助けた日のことを。

 自分が罪を犯した日のことを──……



 * * *



 嵐の礼拝堂に、稲光いなびかりを背負いながら男が入ってくる。その足取りはおぼつかない。


「あぁ、アンベル……みだらな我が娘よ……やはり、やはりここにいたか、その男のもとに向かうと……知っていたぞ……」


 うわ言のように彼女の名を呼ぶアンベルの父がいた。頭髪と衣服は風雨で乱れ、雫が滴っている。一歩、また一歩と進むたび、領主であるはずの彼の威厳は水滴とともに地に落ちていく。


「ひっ……」


 その姿にアンベルは吸い込むような悲鳴をあげる。

 彼の足取りは不確かで、それは頭からべっとりと流れる血が関係していることは明白だった。死んではいないが重体であることは疑いようもない。


 ディルクスは真っ先に思う。

 アンベルは父を殺してはいなかった。ならば、いくらか罪は──……

 軽い。

 ホッと胸をなでおろす。


 そしてすぐ、ゾッとした。いま自分は何を考えた? なんといやしい思考だろう。罪は罪だ。軽いなら取るに足らない……などということはない。

 だというのに、自分は安堵あんどしてしまった。


 己の信仰心が揺らぐのを感じて息が荒くなる。

 そんなディルクスの動揺には気付かないまま、アンベルの父は近づいてくる。


「僧侶……貴様、私の娘を……たぶらかしおって……」

「領主様、誤解です。神に誓ってそのようなことは」

「黙れ! うっ…………ハァ、ハァ……黙れ……貴様が……来てからというもの……妻が死んだあの日から、なにもかも上手くいかない!」


 片足を引きずって彼は歩く。

 ディルクスはアンベルに下がるように目配せし、自身も一歩退いた。燭台しょくだいを握る手が緊張でこわばっているのを、金属の冷たい感触が教えてくれる。


「娘は私の手を離れ……嫁入りを断って、民とたわむれてばかりで……それで、会いに行くのが貴様なのだ! いつもいつも羅勒草らろくそうの匂いを纏わせて帰ってくるアンベルの……ハァ、ハァ……その幸せそうな目!」


 領主は懐から小刀を取り出す。

 雷光らいこうが刀身を照らし、彼の殺意を暴き立てる。


「アンベル、お前が私のものにならないのであれば殺してやる──お前の母のようにな!」

「……え?」


 ディルクスの背後で、アンベルは崩れ落ちるように膝をつく。


「……お母様を、お父様が、殺し……? だって、お母様は、賊に殺されたと……」

「そこいらの賊が領主たる私の屋敷に侵入できると思うのか? 私の指示もなしに」

「うそ……そんな、お父様……ああ、嘘だと言ってください……」


 アンベルは父の言葉を受け入れられなかった。

 だが。


「すべて真実だ、娘よ」


 現実は非情で。


「妻は……あの女は、いずれ私の首を掻いただろう。であれば、こうするのが正しかったのだ……だから、私のものにならないなら、お前も、今ここで……」

「っ……! お母様がどんな気持ちでお父様を支えていたかっ……! それを、それをっ……!」


 アンベルは悔しさに言葉を失う。代わりに、きつい眼差しで父親を睨みつける。涙をこぼしながらも、目は逸らさずに。

 そんな彼女へ、父親は刃を向ける。


「その目をやめろ! その強い輝きが私の心に恐怖を生む! その恐怖が私を駆りたてるのだ! 私は悪くない! お前がいけないんだぞアンベル! 私を……私をおびやかすな!」


 ディルクスは目の前の領主が、話に聞いていた通りの臆病者であることを身をもって感じていた。自らの妻や娘にすら命を狙われるのではないかと猜疑心を膨らませ、ありもしない妄想に憑りつかれて。


「アンベル、お前は……やることも、顔つきも、日に日にあいつに似てきた……愛する妻に似て……美しく、私を恐怖させるほどに、民に慕われて。……いつか私を殺して民を奪い去り、領地をおさめようという腹積もりだろう! そうなのだろう!」

「お父様、ですから、そんなことは少しも……」

「黙れ! 私が正しいのだ! アンベル! お前は……ハァ……ハァ……いつか私を殺す前に、しつけなければならぬ……どちらが主で、どちらが下僕げぼくであるかを……お前の母にしてやったように……! お前は私のものなのだ!」


 ディルクスはそこで全てを理解した。

 ギラギラと瞳孔を開いて興奮した彼の目を見て、アンベルの破れた衣服を見て。

 嵐の夜に起きた全てを悟る。


 全身の血液が突沸とっぷつする感覚がディルクスの身を熱する。

 つまり領主は。この哀れな男は。


「襲ったのか。自分の娘を」

「私がこさえた娘だ! 私のものだ! 私の好きにして何が悪い!」


 叫びと共に白刃はくじんが振り上げられる。

 アンベルが頭を覆うように身を屈める。

 ディルクスの体は、考えるより先に動く。

 沸騰ふっとうした血流がてのひらを熱し、冷たい燭台しょくだいを熱く握り締めさせる。

 銀色の殺意は、おぼつかない足取りの領主の頭蓋ずがいへと振り下ろされ──……



 * * *



「──雨か、ちょうどいい」


 ディルクスは腰に提げた聖典を開く。降り始めた雨粒が点々と染みを作っていく。


「……申し訳ありません、アンベル様」


 私が身を捧げねば邪人とやらは止められない。

〈勇者の剣〉を、届けられない。

 人々のためにはこうするしかないのです。

 心の中で謝罪を終えると、ディルクスは呪文を唱える。


「天上の神よ。我が魂に刻まれし罪を、その清きいかづちもって裁きたまえ──〈神判しんぱん〉」


 ヴァルガが何事かと尋ねるのを待たずして、空から六対ろくついの光の柱が降り注いでくる。

 一つ一つが王都の神殿を支える石柱のごとき太さ。大人が数人がかりでようやく抱えられるほどの巨大な光の柱だ。


 それが六対ろくつい──十二本。


 ディルクスとヴァルガを取り囲むように円を描いて地面に突き立った。

 辺りに生えていた木々は全て圧し潰され、周囲がまっさらになる。頭上の雨雲が見えるほどに視界が開けた。


「なっ……ンだこりゃァ!」


 ヴァルガが周囲をぐるりと見まわす。

 と、十二の柱から光の鎖が伸びてくる。数えきれないほど大量の魔法の鎖。そのうち半分が〈光壁〉を通過してヴァルガを捕らえ、もう半分がディルクスの体に巻きつく。


 二人の動きは封じられてしまった。

 ヴァルガがその剛腕ごうわんで引きちぎろうとするも、鎖はビクともしない。


「クソがッ! ンだよ、これッ!」


 ディルクスは焦るな焦るなと笑う。


「〈神判〉はこれからだ」

「はッ、光の柱でオレ様をズドンってわけカ?」

「いいや。これらの柱は〈神判〉が行われる神の法廷を構築するための礎のようなものさ」

「ホウテイ? イシズエ?」

「心配せずとも柱にも鎖にも攻撃性はないということだ。貴様の言うとおり、私は他者を攻撃するための魔法を持たな──……」


 そこでディルクスはひとり微笑む。ライラに教わった発火の魔法を思い出したのだ。

 あれだけは破戒僧となってからの人生で、他人との繋がりの中で覚えた、唯一、攻撃にも用いられる魔法だ。

 教えてくれたライラの不機嫌そうな顔や、火を囲む部隊の面々との日々を思い出して、つい、頬がゆるむ。


「……──まあ、持たないと言っていい」

「あァ? そんジャあ、なにをするつもりダ」

懺悔ざんげを行う」

「ハ? ざん……げ……?」

「見えるか、あれが」


 ディルクスはすっかり開けた頭上を指差す。

 折り重なった木々よりもずっと天高く、空の奥の奥を埋め尽くすように広がる雨雲。分厚いその灰色を割るようにして、空間に十字の裂け目が生まれて、そこから現れたのは。


「……金槌かなづち、なのカ?」


 黄金に輝く巨大な槌と、それを握る””の手。


「神の雷槌らいついと呼ばれている」


 実際に見るのは私も初めてだがね、とディルクスは黄金の槌を眺める。


「これはあまりの危険さゆえに、使用を禁じられた神の奇跡でな」

「ふン、だろウさ」


 ヴァルガは忌々しげに鼻を鳴らす。自らを縛る鎖を引っ張り、それから、頭上の雷槌らいついを睨む。


「あの金槌で俺をぶん殴ろうってノか? やってみロ!」


 ディルクスは肩をすくめる。


「言っただろう、攻撃する魔法は持たないと。あの雷槌らいついが裁くのは、

「あァ? そんなの………………そん……な……ン?」


 ヴァルガが首を傾げた。


「オマエに裁きを下す、って言ったカ?」

「そうだ」

「オレ様じゃなくてカ?」

「そうだ」

「じゃあどうしてオレ様も縛られてンだよ」


 ヴァルガは忌々しそうに鎖を引っ張る。


「〈神判〉を邪魔することは許されていないのさ。大人しく、

「……ハ?」


 ヴァルガは目を点にさせてから、ディルクスの言葉の意味するところをゆっくりと理解して、それから噴き出した。


「ギッギッギ! オレ様じゃなくてだっテ? ギッギッギ! こいつァ、イカレてやがル!」


 ヴァルガがあざけるようにてんつちを見て、それからディルクスを指差し、また大声でわらう。だがディルクスは気にしたようすもなく。


「〈神判〉が禁術となったのは百年以上前でな」


 雨音と同じ律動りつどうでぽつりぽつりと語る。


「元は儀式として使われていたのさ、自らの潔白を示すためにね。敬虔けいけんな僧侶であれば罪など犯しているわけもなく……神の怒りは買わないというわけだ」


 破戒僧の自分が言うのもな、と自嘲して笑う。


「ともかく、事件は起きた。とある年の儀式で一人の聖人が〈神判〉を実行したんだがな、神殿一つが雷に打たれて灼け失せたそうだ」

「つまりなんだァ? そいつは悪人だったってワケか?」

「極悪だったさ。彼は多くの孤児を引き取り、育て──


 ヒュウ、とヴァルガが口笛を吹く。上機嫌に邪人は尋ねる。


「オレ様は知ってるゼ。ニンゲンはニンゲンを食わねえンだろ? だから罪なんダ」

「ああ、残忍な食人鬼しょくじんきだ。二十余年にじゅうよねんに渡って五一人ごじゅういちにんもの子供を食べた。だが」


 冷たい雨が頭のてっぺんを打ち、こめかみを伝い、あごから足下へと落ちていく。せせらぎが雨粒を呑みこんだ。水面に映るディルクスの顔は、川の流れにぐにゃぐにゃと歪む。


「彼は自らが悪だという自覚がなかった」

「へェ?」

「子どもというけがれなき存在を自らの血肉とすることが、けがれなき魂を手に入れるためのだと信じて疑わなかったそうだ。つまり、本人は至って敬虔けいけんな信徒のつもりだった」


 そんな教えは聖典のどこにも書いていないのだがな、とディルクスは呆れる。


「そして悲劇は起きた。自らを無罪と思い込む猟奇殺人鬼のおこなった〈神判〉は、神殿を跡形もなく破壊して、儀式に集った多くの僧侶たちが殉職じゅんしょくし。そして〈神判〉は禁術きんじゅつとされた」


 呪文や伝承は書庫の奥深くに封じられてしまったのだった。

 ディルクスが〈神判〉に関する記述を見つけたのは〈勇者の剣〉に関する文献を探す任を受け、王都の禁書庫へと立ち入ったときであり、それはただの偶然に過ぎない。本来は目にすることすら無かった。だが。


「はじめはおののいたよ。恐ろしいもあったもんだとまわしくも思った。だが、ふとひらめいた。神の裁きが下る奇跡ならば、破戒僧たる私が唱えるべきではないか、と」


 ヴァルガは頭上の雷槌らいついをちらりと見る。

 それから異空間から生える””の手を。


「アー……っとォ……もしかしてやっぱり、オレ様、ヤベーのカ?」

「さぁな。私はかつて人を一人殺した。その罪がどれほどの重さなのかは──」


 ディルクスはなにかに気付いて微笑む。


「時間のようだな」


 頭上の雷槌らいついがゆっくりと傾いてきている。振り下ろされはじめたのだ。質量を持たないはずの魔法の槌が、黒雲こくうんを裂きながらごうごうと音を立てて迫りくる。


「……神のご加護があらんことを」


 聖典を閉じる。信仰へと別れを告げるように。現世へと別れを告げるように。

 それから。

 さようなら、アンベル様。

 あなたの元には、もう────


 ディルクスの呟いた声は、頭上から降り注いだ雷に飲み込まれて消えた。



 * * *



 羅勒草らろくそうのにおいがする。

 胸のすくような爽やかなにおいが。

 ふところにしまっていたのが雷でけたのだろう。

 自分がどうなったかも分からない。

 ただ羅勒草らろくそうけた匂いだけがしていて。


 懐かしい。

 アンベルが執務の合間に礼拝堂に遊びにくるたび、彼女のために羅勒草らろくそういていた。



「ディルクス様はきっと世界で一番優しいわ」


 ある穏やかな午後。まだディルクスが誰の命も奪っていない、平和だったころ。

 訪ねてきたアンベルは、礼拝堂の椅子でまどろみながらそう言った。


「なんです、急に」

「ふふ、施設の子が言ってたんです。あなたがこっそりとおやつをくれた、って。干果ほしくだものを嬉しそうに分けてくれたのよ」

「それだけで世界で一番だなどと、言い過ぎです」

「ううん、きっとそうよ」


 アンベルは夢見心地ゆめみごこちで言う。


「だって私も、あなたの優しさに救われたんですもの」

「優しさ、ですか。それはたとえば、お昼寝されるアンベル様へ毛布をかけるとか?」


 今みたいに、とディルクスは用意していた毛布を彼女へとかけてやる。

 ありがとうとアンベルは微笑み、しかし首を横に振る。


「それだけじゃないわ。お母様の葬儀の日、あなたは私を救ってくれたのよ、ディルクス様」


 懐かしい日の記憶が羅勒草らろくそうの香りと共によみがえる。


「ええ。ディルクス様は見苦しくても吐き出した方がいいって言ってくださって……私、領主の娘として弱音を吐くわけにはいかないって思いこんでいたもの。でも、あなたの言葉のおかげで今は前を向いて歩けている。昔のお母様みたいに、ね」


 アンベルは目を閉じて幸せそうに呟く。


「ディルクス様はきっと世界で一番優しいわ……きっと……」


 彼女が少しでも休めるようにと羅勒草らろくそうく。

 母の死を乗り越えた彼女が──孤児を育て、民を導くことに心血を注ぐ彼女が、少しでも安らげるようにと。


「優しい、か」


 僧侶になると誓った幼き日から、そうれるようにと努めてきた。

 邪族に滅ぼされた村で一人泣いたあの日から、ずっと。

 村人たちの弔いをしてくれた巡礼じゅんれいの僧侶の背を追いかけるようにして、ずっと。

 ずっと努めてきた。


 困っている人に優しくできる人であろうと。

 大切なものを喪った人に優しくできる人であろうと。

 為すすべなく全てを奪われた幼いころの自分と同じ痛みを抱える人を、少しでも救えるようにと努めてきた。


 それをアンベルに認めてもらえて。

 あの頃から己に誓ってきた生き方を肯定された気がして。

 穏やかな寝顔のアンベルを見て、ディルクスはふっと口元をゆるめる。


「……嬉しいものだな」


 ここは羅勒草らろくそうの香りがする。

 僧侶たる自分にとっては、はじめ、死者を弔うための匂いでしかなかった。

 それがいつの日か、彼女のためにくお香になって。

 安らぎの象徴へと変わっていった。


 午後のさびれた礼拝堂を、優しくおこうの煙が満たす。

 ここは羅勒草らろくそうの匂いがする。

 ここは、幸せの匂いがする。



 * * *



 叶うのであれば、あの場所へ帰りたかった。

 もう一度彼女に会いたかった。

 けれど今となっては、もう──……

 いや。

 優しい僧侶として人々を助けられるのであれば、なにも思い残すことはない。

 彼女だって困ったように笑って許してくれるだろう。





 片耳の僧侶・ディルクスは、そうして命をまっとうした。


 命を、まっとうした。

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