毒親ではないけれど

@koh0218

第1話 失敗への恐怖


アキは窓を開けた。

ふわりと春が芽吹く前の香りがすっと入り込んできた。


(あの時と一緒の匂いだ)


看護学校を卒業してこの家に引っ越してきた日、ガランとした部屋を見ながら思い切りベッドにダイブした、あのときの香り。


「あぁ……自由だ……!」


あのとき、何に心地よさを感じているのかアキは分からなかった。

だけど、あのときの爽快感を思い出すと、それまで我慢していたものの多さにアキは自分を抱きしめたくなるのだった。


     ✿


「もう、どうして勝手なこと言っちゃったの?恥ずかしいったらないわ」

美容室から帰ってきた母親、サヤコの一言にアキの背筋はヒヤリとした。


(あれは言っちゃダメだったのか……)


アキが高校生のとき、母のサヤコが通っている美容室で髪を切ってもらったことがあった。明るい美容師さんのトーク力につられて


「この前、母に怒られたんですよ~鬼の形相でめっちゃ怖くてw」

「えぇ~いつもお母さん穏やかなのにね、意外な一面だわw」


沈黙を恐れたゆえの話題の提供だった。だが、


「今日、いきなりあの美容師さんに『娘さんにあんまり怒っちゃダメよ~』って店内に響き渡る声で言われたの!もう信じられない……!私のことそんなに貶めたいの!?」


ただの世間話なのに……と、とっさに心の中で自分をかばった。

そうしないと、アキの心は深く沈んでしまいそうだったから。

絶望感を遠慮なく垂れ流すサヤコの声を聴き、アキは


(耳をパタリと閉じられたらいいのに)


と妄想しながら脳内メモにサッと書き込む。


『サヤコのマイナスイメージは些細なことでも他人には話してはいけない』


(マーカー線を引いておきたいくらいだね)


脳内メモにはこれまで踏んでしまった地雷源がリストアップされていた。


・サヤコの言葉をそのまま受け取ってはいけない。裏にある思いをくみ取るように。

・サヤコのイライラは表情から読み取れ。

・サヤコの話は話半分で聞き、真正面から受け取らない(後々変更されることがある)。


メモを書き込んだときの詳しい記憶なんてすでにない。

ただ、心臓に冷たいものを突き付けられたようなヒヤリとした感覚だけは、よく覚えていた。


(あんな辛い思いはもう勘弁だわ)


アキは苦しげに微笑んだ。

こんなメモの内容を覚えておくことでしか、自分自身を守る方法がないなんてバカみたい、と寂しく思ったのだった。


       ✿


天井を見ながらアキは1人つぶやいた。


(サヤコは承認欲求が強い人だったな……)


あれは中学時代のこと。


アキは真面目だったので、学力はそこそこよかった。

クラスではいつも上位で


「なんでアキは塾に行ってないのに成績いいの~?」


と、のんびりとした調子の友達によく聞かれた。


(塾なんて行けるわけないよ、送り迎えが面倒だってサヤコに言われるに決まっているし、月謝だって高いもんね)


と思いながらも、


「暗記系は得意だけど、数学はヤバいんだよ、私www」


と、アキは自虐的な笑いでその場を誤魔化した。


「アキ!100点!」


中間テストが返ってきた。

先生がニマッと笑ったあとに広がるどよめき。

社会は問題数が多く、みんなテスト勉強はヒィヒィしながらやっており、

「アキちゃんすごっ!」

クラスの子たちから手放しでほめられ、アキは顔をほころばせた。


(テストの3週間前からノートをまとめ直した成果が出たな、たいへんだったけどやってよかった)

とアキは心から喜んでいた。


「お母さん、見て!」


アキが珍しく感情を爆発させて、家に帰った。

サヤコはテストを受け取り笑顔で


「おぉ~ご苦労様、また頑張ってね」


点数にだけ視線を走らせ、サヤコはテレビに視線を移した。

アキは笑顔を引きつらせた。


「え?あ……うん……」


(え、この答案の価値分かってる?みんな驚いていたんだよ?サヤコだって100点なんて取ったことないでしょ…)


アキはクラスで褒められたことを伝えようか迷った。

するとサヤコは、


「ヨウ君のお母さんに自慢しよっと。いつもさ~ヨウ君のお兄ちゃんの成績自慢してくるんだよね~。これは悔しがるだろうなぁ」


ふふんと笑うサヤコ。


「アキの成績が唯一の癒しだわ~」


さっきまで輝いていた答案が、光を失った。


(この人に答案を見せるのはやめよう……)


ほんの少しでよかったのに。


「夜遅くまで頑張って勉強していたもんね」


とでも言ってくれたら、よそのお母さんに自慢しても何とも思わなかったかもしれない、とアキは思った。


サヤコは、私が努力して100点を取ったのが嬉しいんじゃない。

『自分の』娘が100点を取ったことに喜びを感じている。


(子どもを褒めるのってそんなに難しいのかな)


1人自室に戻り、アキは社会の答案用紙を見つめていた。


「褒められたくて頑張ったはずじゃないのに、虚しいね……」


アキは頑張り抜いた答案用紙を引き出しにしまい、ベッドにごろりと転がった。


〈続く〉






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