『帰郷』
『雪』
『帰郷』
地上を緩やかに照らすのは遥か彼方に煌めく名も無き星々。夜の街を鮮やかに彩るネオンライトの輝きと比べてしまえば、あまりにも小さく頼りないその明かりを唯一の道標にして、真っ暗になった砂浜をただ一人、当てもなく歩いてゆく。
時折、吹き寄せる浜風にさらわれそうになる長髪を優しく指で掬い、うなじの辺りまで手繰り寄せては、撫で付けるようにして後方へと流す。全身を通り抜けてゆく夜の風は、日中の湿気を伴う熱波と同じものとは思えぬ程に涼やかであり、彼女は思わず感嘆の溜め息を溢す。
何時ものように誰に急かされる訳でもなく、何かに追い立てられる訳でもなく、己のペースを持って、砂浜に沈み行く足を僅かに上げ、彼女は次なる一歩を踏み出した。
昼間の喧騒はまるで白昼夢の幻であったかのように静まり返り、ただ波が満ちては引いてゆく音と、彼女自身が通ってきた道のりを示すが如く轍を刻む二つの音だけが反響し、この地を優しく満たしてゆく。
ふと、立ち止まり、彼女は星の明かりを優しく跳ね返している夜の海の煌めきを眺める。
地球に誕生した命の始まりはこの海からだと聞いたことがある。だからなのか、こうして誰も居ない静かな海を見ていると何故か懐かしい気持ちになるだけでなく、不思議と還るべき場所のような気さえしてくる。
爪先を海辺の方へと向けて一歩、また一歩と歩みを進めた。やがて押しては返す波に下ろし立てのサンダルの先が触れる。しかし、そんな事を彼女が気にする余裕は無い。海水に足が沈み、踝をさざ波がそっと触れる。昼間の水温とは打って変わり、程よくひんやりとした感覚が肌に伝わってくる。それに伴って、深くなる潮の香りと波の音を押し流すように夜風が吹き荒れる。重くなる足取り、ふらつく足元を踏み締めて、次なる一歩を彼女が踏み出そうとしたその時だった。
肩から下げたポシェットに入れっぱなしにしていたスマホの着信音が鳴り響く。歩みを止めて、スマホを取り出すと通話を開き、二つ三つ言葉を交わすと彼女は口角の端が吊り上げる感覚を覚えつつ、そっと通話を終える。どういう訳か、つい先程までこの海に感じていたノスタルジックな気持ちは綺麗さっぱり何処かへと消え去っていた。水面をかき混ぜるようにして彼女は踵を返すと、砂浜の方へと戻る。決して振り返る事もなく、引き留めるように纏わり付く波を蹴り上げるようにして夜の海から脱すると、また変わらぬ足取りで元来た方へと歩みを進めたのであった。
『帰郷』 『雪』 @snow_03
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