勇敢な彼とぬいぐるみの奇跡

芸州天邪鬼久時

第1話 プロローグ

リディア・アルヴェリア第3王女は、いつも通りその日も王座の隣で静かに座っていた。豪華な装飾に彩られた大広間、煌びやかな衣装に身を包んだ貴族たちが華やかに談笑し、ダンスに興じている。長女と次女がそれぞれの地で幸せな結婚生活を送っているのに対し、リディアは未だ王宮に残され、国王の伴として多忙な日々を送っていた。


社交界でのリディアの役割は、王の傍らに静かに座り、挨拶に応じることだけ。華やかな姉たちと比べ、彼女の容姿は地味と見られており、誰も彼女をダンスに誘うことはなかった。彼女自身も、自分が舞踏会の中心になることなど期待していなかった。いつも通り、彼女は退屈で眠気を誘うような日常に埋没していた。


「いっそのこと、この退屈な生活を捨ててしまおうか…」リディアはふと、そんな考えが脳裏をよぎる。しかし、勇気がない。王女という立場に縛られた自分を解放する術も思いつかない。ただ、俯いてため息をつくしかない。


そんな時だった。


「よろしければ、わたしと踊っていただけませんか?」


低く、落ち着いた声が耳に届いた瞬間、リディアは驚いて顔を上げた。そこに立っていたのは、30年前の戦争で争った敵国の第二皇子、エンブレイズ・ハーベン・シュバルトだった。彼の存在感は圧倒的で、鋭い目つきと整った顔立ち、背の高い体躯が周囲の視線を集めていた。


エンブレイズは、王国の大学院を3番目の成績で卒業し、武勇に優れた戦士でもある。その功績から、敵味方問わず尊敬を集める存在だった。リディアは、彼の突然の申し出に息を呑んだが、断る理由も見つからない。震える手を差し出すと、彼は優しくその手を取った。


「もちろん、よろしくお願いします…」


その一瞬で、リディアの胸の奥に眠っていた何かが目覚めたようだった。これまで感じたことのない感情が、彼女の心に湧き上がってきた。


エンブレイズがリディアの手を引いて、煌びやかな舞踏会の中心へと向かうと、大広間の喧騒が一瞬静まり返った。貴族たちの視線が二人に集中し、その光景はまるで時間が止まったかのようだった。リディアの心臓は高鳴り、彼女自身も驚くほどの緊張感に包まれた。


「こんな風に注目されるのは初めて…」リディアは思わずそう感じたが、エンブレイズの冷静な表情が不安を和らげてくれる。彼の手は温かく、しっかりとした握力が彼女に安心感を与えた。


音楽が再び流れ始め、二人は優雅に踊り始めた。エンブレイズのリードは完璧で、リディアの足取りは自然と彼に合わせられていく。彼女は初めて、舞踏会でのダンスがこんなにも楽しいものだと感じた。彼の腕の中で回転し、軽やかにステップを踏む度に、彼女の心の中に何かが花開いていくのを感じた。


「なぜ私を…?」リディアは疑問を抑えきれず、踊りながら囁いた。彼女は、自分がこのような注目を浴びる理由がわからなかったのだ。エンブレイズのような高貴で魅力的な男性が、なぜ自分を選んだのか…。


エンブレイズは微笑みを浮かべ、リディアの耳元で静かに答えた。「あなたは、私が初めてここに来たときから、ずっと気になっていた存在です。貴族の中で、あなたのように静かで控えめな方を見つけるのは難しい。けれど、その落ち着いた気品と美しさに、私は惹かれてしまいました。」


リディアはその言葉に驚いた。彼女は、これまで自分が注目されることなど想像もしていなかった。むしろ、地味な自分を避けているのではないかとさえ感じていた。しかし、エンブレイズの言葉は、その考えを一瞬で覆した。


「でも、私は…姉たちのように華やかではありません。あなたにはもっと相応しい方が…」リディアは自分の不安を口にしたが、エンブレイズはその言葉を遮るように優しく言った。


「華やかさや派手さが全てではありません。私は、あなたの内に秘められた真の美しさを見ているのです。それは、誰にも真似できない特別なものです。」


その言葉にリディアの胸は温かくなり、彼女の心に新たな希望が芽生えた。エンブレイズの視線は真摯で、その目の中には確かな信頼と誠実さが宿っていた。彼の言葉が嘘ではないと、彼女は直感で感じた。


ダンスが続く中、二人の距離はますます縮まっていった。リディアの心に溜まっていた孤独感は、エンブレイズの優しさによって少しずつ溶けていくようだった。彼と一緒にいることで、彼女は自分が何者であるかを再発見し始めたのだ。


「あなたと踊れて、本当に光栄です…」リディアは感謝の気持ちを伝えた。彼女は、この瞬間が永遠に続いて欲しいと願った。しかし、その願いとは裏腹に、音楽はゆっくりと終わりに近づいていった。


エンブレイズはリディアの手を取り、軽くキスをして礼を表した。その行動に、リディアの頬は赤く染まり、胸の鼓動は一層速くなった。


「リディア王女、これからも貴女と時間を共にすることができるならば、私は何よりも幸せです。どうか、私にその機会を与えてください。」


その言葉は、彼女の心に深く響いた。リディアは、これから何が起こるのかを考えると、胸が高鳴るのを抑えられなかった。エンブレイズの提案に、彼女は自然と微笑みを返し、静かに頷いた。


「私も、あなたと共に過ごせる時間を楽しみにしています。」


こうして、リディアの静かだった日常は大きく動き出した。これから待ち受ける未来に、彼女は胸を躍らせていた。


翌朝、リディアはいつもより早く目が覚めた。夜の静寂の中、彼女は昨晩のことを何度も思い返していた。エンブレイズと共に踊った時間は、まるで夢のように感じられた。だが、彼の温かな手の感触と優しい言葉は、確かに現実だった。


まだ薄暗い朝の光が差し込む寝室で、リディアは少しずつ準備を整えながら、心の中で様々な感情が渦巻いているのを感じた。期待と不安が交錯し、これからの日々がどうなるのか想像もつかなかった。彼女の心は、エンブレイズとの出会いによって、少しずつ変わり始めていた。


朝食の時間になり、リディアは王座の間へと向かった。王座の間には、すでに父である国王が座っていた。彼の顔にはいつもと変わらぬ厳粛さがあり、リディアは少し緊張しながら父の隣に座った。彼女が何かを言う前に、国王は静かに口を開いた。


「リディア、昨夜の舞踏会でのことだが…」彼の声は穏やかだが、その奥には何かを思案するような響きがあった。リディアはその言葉に耳を傾け、心の中で少し動揺を感じた。


「エンブレイズ・ハーベン・シュバルト殿下と踊ったことは、私も知っている。」国王は娘をじっと見つめ、その言葉を慎重に選んでいるようだった。「彼は、30年前の戦争で我々と敵対した国の第二皇子だが、今では友好の意を示している。彼の国との関係を改善するため、私たちは慎重に対応しなければならない。」


リディアは黙って頷いた。父が何を言いたいのかは理解できたが、それでも心の奥底で何かが引っかかっていた。エンブレイズとの出会いが、単なる政治的な駆け引きに過ぎないのではないかという不安が、彼女を少しずつ侵食していった。


国王はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと続けた。「リディア、私はあなたとエンブレイズ殿下が友好関係を築くことを許可する。彼は我が国にとっても重要な同盟者となり得る存在だ。あなたが彼と親しくすることが、両国にとって利益をもたらすだろう。」


その言葉を聞いた瞬間、リディアの心は揺れ動いた。父の言葉は正しい。彼女もそれを理解していた。しかし、昨夜のエンブレイズとの時間が、ただの外交的な策略の一環に過ぎないと思うと、胸の奥に冷たい不安が広がっていった。


だが、同時に彼女は、エンブレイズの誠実な言葉と真摯な眼差しを思い出していた。彼がただの策略家とは思えなかったし、昨夜の踊りも彼の本心からの行動だと信じたかった。


リディアはゆっくりと口を開き、父に答えた。「お父様、エンブレイズ殿下との友好関係を築くことは、私も賛成です。しかし、それがただの外交手段ではなく、私たち自身の意思であることを示したいのです。」


国王はその言葉に少し驚いたようだったが、すぐに理解を示すように頷いた。「そうだな、リディア。お前の気持ちはよくわかる。彼との関係が政治的な道具で終わることなく、真実の絆となるよう願っている。」


リディアはその言葉に感謝し、少しだけ安堵の息を吐いた。彼女はエンブレイズとの関係が、単なる政治の道具として終わらないように、自分の心を大切にしなければならないと強く感じた。そして、彼と過ごす時間が本物のものになるよう、心から望んだ。


その日の午後、リディアは宮殿の庭で静かに歩きながら、エンブレイズとの次の再会を心待ちにしていた。彼との関係がどのように進展していくのか、まだわからない。けれども、彼女は自分の心に正直に生きることを誓った。


その誓いが、彼女の未来にどのような影響を与えるのか、リディアはまだ知らなかった。しかし、彼女の中で生まれた新たな希望が、これからの道を照らしていくことを信じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る