ともだち
@fu-yu-yu
ともだち
「さーよ! 一緒に食べよ」
午前の授業が終わると、私はいつものように後ろの席を振り返ってそう言った。
「うん、食べる」
小夜は嬉しそうに笑って、小さいバッグからお弁当箱を出した。肩を流れる艶々の黒髪は何度見ても綺麗で、つい見とれてしまう。ただ人の視線が苦手だからか、厚めの前髪はいつも目にかかっている。
小夜は高校に入学してから最初にできた友だちだ。出席番号が前後だった私たちは何かあるごとにペアを組むことが多く、いつも一緒にいた。共通の趣味があるわけでも性格が似ているわけでもない。それでも小夜と一緒にいるのはなんだか心地が良くて、気づけばいちばんの友だちになっていた。
私は椅子だけ回転させてお弁当箱を小夜の机に置く。そっと蓋を開けるとおにぎりに卵焼きにブロッコリー、それから……
「ハンバーグ入ってる!」
「わあっ」
カラン、と音がして、小夜の手から落ちた水色の箸が隣の机の下に転がっていった。
「ごめん小夜、驚かせちゃった?」
またやってしまった、と心の中で呟いた。小夜はちょっと、どころか結構どんくさいところがあるから私が気を遣わないと。私はおろおろしている小夜に代わって隣の子にごめんね、と言いながら落ちた箸を拾う。
「ううん、大丈夫。ありがと優ちゃん」
小夜はうへへ、と笑い、洗ってくるねと言って席を立った。小夜のそのどんくささには初めこそ驚いたものの、優しくて何事にも一生懸命な彼女の性格もあって、それをフォローすることを負担には思わない。先に食べるのもなんだか気が引けたので一度お弁当箱の蓋を閉じた。
手持ち無沙汰になって教室を見回すと、日直の佐々木ちゃんが一人で黒板を消しているのが目に入った。持ち前の明るさで体育委員を務める彼女とは席が近くて何度か話したことがある。確か今日はペアの斉藤さんが休みだった。前の授業は数学だったので黒板は端から端までみっちりと数式で埋められていて、見るからに大変そうだ。
「佐々木ちゃーん! 手伝うよ」
私は席から立ち上がって黒板の前まで行き、黒板消しを手に取った。
「あ、優ちゃんありがとー! めっちゃ助かる。先生筆圧強いし、超書くし、一人だときつかったんだよね」
佐々木ちゃんは、これから委員会の会議もあるし、と付け足して笑った。彼女に合わせて短いポニーテールがぴょんと揺れる。彼女が真っ白になった黒板消しを新しいものに持ち替えるのと同時に、私も一度クリーナーにかけて再び黒板を消した。
席に戻ると、ちょうど小夜が戻ってきた。気のせいかも知れないがなんだか少し顔が赤い。
「おかえり小夜。なんか遅かったね?」
小夜はうん、と頷いて不安そうに目線を落とす。
「帰る途中でもう一回落としちゃって、しかもそれ水木くんに見られちゃった」
「水木? って、斜め前の席の?」
「うん」
それは大変だったね、と言いながら頭の中に疑問が浮かぶ。小夜は人と話したり注目を浴びたりするのは苦手だが、周りからの視線には疎いところがある。それに小夜が男子の名前を口にするのは初めて聞いた。もしかして、という思いが一瞬よぎるが、小夜に限ってそんなことはない気がする。あまり問い詰めてもまた慌てて何かやらかしてしまう気がして、私からは触れないようにしようと決めた。小夜のほうもそれ以上何も言わなかったので話題が変わるうちに小さな違和感は消えてしまった。
お弁当の蓋を開け、二人でいただきますと言っておにぎりにかぶりつく。オレンジ色をした鮭がこれでもかと入っていて、午前中の疲れが回復していく。特に今日は苦手な数学が二時間もあったのだ。
「あ、そうだ小夜」
私は今日の授業を思い出して、おにぎりを持ってない方の手でお願いの形を作って小夜を見る。
「放課後に数学で教えてほしいところがあるの。解説読んでもよく分からなくてさあ」
小夜はうんいいよ、と頷いてにこっと笑う。
「優ちゃんあの、私もね、今度隣の駅にできたパンケーキ屋さん行ってみたいの。一人だと入る勇気なくて」
「もちろん! 行こ行こ」
小夜は人と話すのが苦手なためにあまり気づかれていないが、勉強が得意だから私はこうしていつもお世話になっている。運動も人並み以上にできるし、長い前髪に隠れていて見えないが目は大きくて顔立ちは整っているのだ。内気なのはなんだかもったいないなあと思う反面そんな小夜が私を頼ってくれるのは嬉しかった。
小夜と話しながらお弁当を食べ終わると、スマホのアラームが鳴る。そろそろ委員会の会議の時間だ。私は小夜にまたねと伝えて急いでお弁当箱を片付け、教室から出た。
放課後、部活に入っていない私たちは教室で数学の問題集を挟んで向かい合っていた。
「ここまでは合ってるんだけど、ここの公式がちょっと違ってて」
私のした質問に小夜は大して考えることもなくすらすらと解説を始める。小夜の持つシャープペンが流れるように動いて、あっという間に解答を作り出していった。
「そういうことか。やっぱり小夜はすごいなあ。めっちゃ分かりやすい」
私がそう口にすると小夜はそんなことないよ、と照れくさそうに笑う。
「優ちゃんのほうがもっとすごい。困ってる人がいたらすぐ手伝えるし、話すの上手だし、いろんなことに気が回ってすっごいかっこいい」
小夜は一息にそう言うと、前髪の隙間から私を見つめた。私は真正面からそう言われるとなんだか照れるなあと笑って、問題集を鞄にしまう。
「ねえ小夜さ、前髪切らないの?」
「え?」
私の突然の質問に、小夜は少しうろたえて両手で前髪を抑える。
「せっかくかわいい顔してるのにもったいないよ。せめて目が見えるくらいにしたらどうかな。普段も目に入っちゃって大変じゃない?」
勢いに任せてそう言うと、鞄を持って小夜の手を取り昇降口へ向かう。小夜の手は私よりも少し冷たくて、でも温かくて、離さないようにぎゅっと握った。
「切りたくなったら私切ってあげようか? いつも自分で切ってるし」
そう言って小夜のほうを振り返る。このとき長い前髪の下で、小夜の大きな目がもっと大きく見開かれているのに私は気づかなかった。
「切りたくなったら、お願いするかも」
少しの沈黙の後、小夜はにっこり笑いながらそう言って、私の手をぎゅっと握り返した。
次の日の放課後。私と小夜は隣駅にできたパンケーキ屋に来ていた。頼んでいたパンケーキが届いて、一口目を食べようとしたそのときだ。
「ね、ねえ優ちゃん。あのね私、前髪、切ってほしくて」
「え?」
突然のお願いに、半分口に入れかけていたパンケーキも相まって変な声が出た。とりあえずパンケーキを飲み込んでから、小夜と向き合う。
「もちろんいいけど、なんかあった?」
昨日話題に出したのは私だが、こんなにもすぐに返事が来るとは思っていなかった。
「あのね、私」
小夜は届いたパンケーキに一口も手を付けず、それどころかフォークすらも持たずに何かを言いたそうにもじもじとしていた。小夜は話すのが得意ではないが、この感じはただごとじゃないと思った。
「うん、どうしたの。ゆっくりでいいから言ってごらん」
私はそう言って、一回飲みな、と届いた紅茶を小夜の分を注ぐ。小夜は紅茶が好きで、学校にある自販機で買って一緒に飲んだりすることもある。私は少し苦みのあるものは苦手だったが、小夜が勧めてくれるものは皆好きだった。
小夜はそれを一口飲んでゆっくりと深呼吸をすると、何かを決めたように口を開いた。
「私ね、好きな人ができたの」
「ん? …………え」
小夜が好きな人?
それって恋愛って意味で、だよね? さすがにそうじゃないとあんな言いにくそうには言わないもんね。え、小夜が好きな人?
一拍遅れて彼女の言っていることを理解した私の脳内では、ミニチュア優ちゃんたちが会話を始める。もう何が何だか分からなくなっていると、一人で百面相している私に今度は小夜が紅茶を注いでくれる。
「おいしい」
私の率直な感想に小夜もうん、と返してくれる。温かくて穏やかな味と優しい香りに、ゆっくりとだが落ち着いてきた。昨日は小夜に限って安易に恋愛と結びつけるのはよくないだろうと思ったが、彼女にも高校生らしい感情があることは嬉しかった。
「これ食べながら、ちょっとだけ私の話聞いてくれる?」
小夜は届いたパンケーキを見て、それから困ったように私を見た。不安そうな表情に、どうにか力になりたいという思いが湧いてくる。なによりも私に相談してくれるのが嬉しかった。
私はうん、と頷いてにっこり笑う。
「もしかしてだけどさ、好きな人って水木くん?」
話したいとは言ってもなかなか話し出さない小夜に、私は昨日一瞬抱いた疑問を口にした。
「えっ、何で分かるの」
小夜が慌てて紅茶の入ったカップを倒しそうになるのを、手を伸ばしてなんとか止める。危なかった。
「昨日、もしかしたらそうなのかなってちょっとだけ思った」
小夜は白い顔を赤くして、やっぱり優ちゃんはすごいなあと笑った。
「それじゃあ前髪切ってほしいってのは、かわいくなりたいからということでよろしい?」
私の質問に、小夜は更に顔を赤くしてこくんと首を縦に振る。
「もーなにそれ小夜かわいい! うん分かった、全力で応援する! 力になれるか分からないけど何でも相談して」
勢いよくそう言う私に小夜は安心したように笑って、ありがとう、と私の目を見て頷いた。
小夜の力になりたい、と本気で思った。――そう思ったはずだった。だからその瞬間に胸の奥がズキン、と痛んだのを、私は見ないふりをした。
前髪を切った小夜はかわいかった。
その後もヘアアレンジや簡単なメイクを教えていくうちに、小夜はどんどんかわいくなっていった。
もともと顔が整っているからだろう、話しかけにくかった暗い印象がさっぱりと消えた。そのためクラスメイトから話かけられることが増えたようで、最近は私以外の子と話しているのをときどき見かける。
「さーよ! 一緒に食べよ」
「うん」
それでも話し方もドジなところもいつもどおりで、それがなんだか小夜らしくて安心する。
「優ちゃんあのね、私この前水木くんとちょっと話せたの」
小夜は卵焼きを箸に挟んだまま、ちょっと照れたようにそう言った。
「おおすごい! 頑張ったじゃん」
私は箸を持っていない方の手で小夜の頭をよしよしと撫でる。小夜は何かあるごとに私にこっそり教えてくれて、私たちの中にできた共通の話題はいつも以上に話が弾んだ。
「あの、竹田さんと塚本さん」
「ん?」
突然名前が呼ばれたことに驚きながら声がした方へ目を向けると、近くの席の佐々木ちゃんと斉藤さんがお弁当箱の入ったバックを片手にこちらを見ていた。小夜はというとまた箸を落としたらしく、机の下に潜り込んでいる。
「私たちも一緒にいい?」
私と机の下にいる小夜を交互に見て、ずっと話してみたいなあって思ってたんだ、と付け足した。
小声で小夜に、いい? と聞くと嬉しそうに頷いた。
「うん! 一緒に食べよー」
私はそう言って四人で二つの机を囲む。
もうすぐテストだとかそれが終われば体育祭だとか、四人で話したことはなかったのでそんな話題ばかりだったが、小夜はときどき楽しそうに会話に参加している。
「そういえば小夜ちゃんてさ、体育得意なほうだよね?」
デザートのりんごを食べているときに、突然佐々木ちゃんがそう口にした。
「全員リレーの走順どうしようかなって五〇メートルの記録見てたら、小夜ちゃん結構速くてさ。それで気になって最近体育のときとか見てたら、なんでも上手で驚いちゃった」
佐々木さんはそう言うと、学年混合の代表リレー出てみない? と真面目な顔で小夜に提案した。
小夜はそういうのは苦手なんだろうなと思っていたが、なにやら真剣に考えこんでいた。
「やって、みようかな」
そして数秒間の沈黙の後、そう言った。え、と思わず声が漏れていた。あの人前に出るのが苦手な小夜が、代表リレーに出るなんて考えられなかった。
「ほんと? 助かる! 男子はすぐ水木くんに決まったんだけど、女子がなかなか出たいって子がいなくて困ってたんだよね」
ああ、そういうことか、と思ったがそれでもまだ驚きのほうが大きかった。見た目は変わっても小夜は小夜のままだと思っていたが、小夜は本当に変わっていないのだろうか。
ズキン、ズキン、と心臓のあたりが痛い気がした。気のせいだ、と言い聞かせても、少しずつたまっていた黒い感情が、顔を出しそうで怖かった。
「えっ、小夜ちゃん九八点? すご!」
テストも一段落し、もうすぐ体育祭という頃だった。数学教師が一人ずつテストを返していく中、少し大きめな斉藤さんの声が教室に響いた。彼女は、はっとしてごめん、とすぐに小夜に謝る。先生はなにごともなかったかのようにテストを返し続けるが、え九八ってすごくね、という声が周りから聞こえてくる。
「すげえじゃん塚本、頑張ったな」
斜め前の席から、水木が振り返ってそう言った。小夜は嬉しそうにうん、と頷く。二人は私考案の『テスト期間に一緒に勉強して仲良くなっちゃおう大作戦』がうまくいったのか以前よりいっそう仲良くなった。
そういえばうちのクラスのリレー代表ってあの子なんじゃなかったっけ、という声がどこからかあがった。それを皮切りに小夜の話題が波紋のように広がっていって、一つ前の席の私にまで届く。
「勉強もできるし運動もできるって」「しかも最近かわいくなったよね」「一回話してみたい」
なぜだろう、返されたテストの点数も先生の解説も、何も頭に入ってこない。
どうしてこんなことになってるんだろう。どうして何も考えられないんだろう。見ないふりをしていた感情が、私の中で暴れている。
授業が終わって昼休みになると、一人の女子が小夜に話しかける。それに続いて何人ものクラスメイトが小夜の周りに集まった。私はなんだかいたたまれなくなって教室を飛び出した。後ろから私の名前を呼ぶ小夜の声が聞こえた気がしたが、振り返る気にはなれなかった。
遠くの校舎まで走って行って、人のいない渡廊下で立ち止まる。喉がカラカラに乾いて引っ付きそうだったので自販機で暖かい紅茶を買った。この前小夜が勧めてくれたやつ。これを飲めば落ち着ける気がした。
キャップを開けて貪るように口に流し込んだ。だけど喉を素通りするだけで、少しも潤わない。胃の中に重たい塊を流し込んでいるようだった。小夜との思い出が目の前で、色を失っていっていくようだった。
どうして、どうして、どうして、と私の中で私のようで私じゃない誰かがずっと囁いている。
「優ちゃん! やっと見つけた」
小夜が綺麗に整ったハーフアップを揺らして走ってくる。田舎感の漂う紺色のセーラーも、小夜が着ると都会の香りがした。小夜は大きな目を心配そうに細めて、私を見る。胸の中で渦巻く感情を鎮めようと小夜に背中を向ける。逃げないと、小夜を傷付けてしまう。
だけどその場を去ろうとする私の手を掴んで、小夜は私を逃がしてくれなかった。
「優ちゃん急にどうしたの、何かあったの?」
小夜の白い手が、私の手をぎゅっと握る。ちょうどいい長さに切りそろえられた前髪は、小夜の大きな目に光を取り込んで、その瞳に私が映る。
どうして?
ずっと溜まっていた真っ黒な感情が――蓋を破って渦巻いて、私を飲み込んでいった。
「小夜って変わったよね。すっごく」
「え……うん。優ちゃんがいろんなこといっぱい教えてくれて、たくさん応援してくれたから。いろんなところに気が回る優ちゃんに憧れて私もそうなりたいって思ったの」
どうして、ってそれは。
「入学したばっかりのときに、話しかけてくれて嬉しかった。私話すの下手だから友達作るの苦手で、でもどうしたらいいか分からなくて」
「そっか」
彼女の言葉を遮ると、私は手に持っていたペットボトルを彼女の頭の上でひっくり返した。
「え?」
小夜は何が起こっているのか分からないのか、その場で固まって動かない。
私の手の中にあるペットボトルからは、重力に従って透明な液体が勢いよく零れる。それは彼女の髪に吸い込まれ、頬を伝った。
勉強も運動も才能があるしそれに見合う努力もできる、生まれつき容姿も整っている。
そんな彼女が私を頼らないとなにもできない。敵うはずのない相手に頼りにされることで優越感を覚えて、私はそんなことばっかりで自分を保っていた。
私の手を借りずともクラスに馴染む楽しそうな今の彼女は、私の望んだ彼女じゃなかった。
彼女が顔を上げて私を見つめる。何が起きているのか理解できないという顔で。光が消えた瞳が私を映した。
もともと光なんてない私の瞳からは、何だかよく分からない液体がぼたぼたと溢れていた。何でこうなっているのか自分でも分からない。
「私いなくても、楽しそうじゃん小夜。かっこいいなんて嘘じゃん、小夜のほうが何でもできる」
どこからか出てきたその言葉は、みっともなく震えていた。視界がぼやけてもう何も見えない。
もっと必要としてほしい。私がいないと何もできない小夜のままで、よかった。これじゃあ私が……
「……ごめん、小夜」
ごめん、ごめん、とただ何度も口にする。だけど自分が小夜になんと答えてほしいのか分からなかった。私が小夜にかけた紅茶の香りが漂う。落ち着く優しい香りがするはずのそれが苦くて苦しくて、涙が止まらなかった。
ともだち @fu-yu-yu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます