旅人がいなくなって
まーくん
旅人がいなくなって
旅人がいなくなって、もういくばくの時間が過ぎただろう。
旅人に救いを勝手に求めていただけだと、私が悟るのには十分な時間だった。
私にはずっと何もなかった。
世間一般で言うところの自由さも、恋も、清廉さも、お金も、自制心も。
幸い、人には恵まれた。
でもその事実は、自分に何もないことをより一層引き立たせるだけだった。
つまりは不自由さも、失恋も、佞悪さも、赤貧も、自暴自棄も。
私には本当に何もなかった。
ある日、私の元に旅人が来た。
曰く「季節が過ぎるのと同じ速さ」で、旅をしているのだという。
話を聞いて、人並みの同情をした私は、少しだけ旅人を助けようとした。
旅人はこの辺りに一週間ほど留まると話した。
旅人は一日に一杯の水と寝床とを私に求めた。
旅人は求められて返せるものはないと伝えた。
旅人はそれでもよいかと私に念を押してきた。
元々興味本位だった私は、別段考えることもなくそれで良いと返した。
一日目。
旅人は本当にごくわずかの荷物だけを持って、街を歩いてきたようだった。
戻ってきて水を飲むやいなや、用意した貧相な寝床で眠りについた。
私には旅人のことが何もわからなかったが、それで良いと思った。
旅人はさすらうものであって、私に何かをくれるものだとは考えていなかった。
二日目。
旅人は昨日と同じように、街から帰るとすぐに水を飲んだ。
小さな鞄から手帳とペンを取り出し、少しの間何かを書いていた。
文字であり絵のようであったが、私はそれを見ようとしなかった。
踏み入る勇気も、気まずさに耐える心も持っていなかったから。
三日目。
旅人は私に「この辺りで一番大きな木を知っているか」と尋ねた。
まるで外を見ていなかった私には、落第した試験と同じくらい難しかった。
あてずっぽうでできる限りの木を答えると、旅人は真剣に聞いていた。
帰ってきた旅人はどこか嬉しそうな顔で眠りについていた。
四日目。
旅人が普段よりも早くに帰ってきた。すぐに水を飲んでまた出て行く。
きっとはしゃいでいるのだと思い、私はコップにもう一度水を入れ直す。
再び帰った旅人は、そのコップを見て不機嫌そうに「これは何だ」と尋ねた。
私が答えるより早く、「もう水はいらない」と旅人は眠りについた。
五日目。
私が起きるともう旅人はいなかった。寝床は普段よりも乱れていた。
昨日のことを思い出し、それでも私にできることが見つからなかったので、
私はいつも通り、水をコップに入れて、寝床を整えておいた。
私が寝るまでに旅人は帰ってこなかった。
六日目。
やはり起きると旅人はいなかった。コップの水は飲み干されていた。
寝床には、旅人なりに綺麗にしようとした跡と、書き置きが残されていた。
「明日ここを発ちます お世話になりました」。品のある書き殴りだった。
旅人に似合わない敬語だな、と私は書斎の引き出しにその紙を仕舞った。
七日目。
日が変わってすぐの深夜。旅人はまだ起きていた私を見て驚いたようだった。
私は「少しだけ話がしたい」と、二つのコップを机に置いた。
その夜は、いつもよりもゆっくりと水が減っていった。
丁度旅人が飲み干した頃、普段の旅人が出発する時間になっていた。
助けられたとは思わない。
怒らせてしまったのか、仲直りが出来たのかもわからない。
ただ、最後に出て行く時の旅人は、そんなに不機嫌でなかったように見えた。
旅人は求められて返せるものがないと言ったが、
私はしっかりとあの書き置きを、その匂いを、この話を受け取った。
勝手だけど、ちょうど旅人と同じくらいの勝手さだとも思った。
旅人はいなくなった。
私は自分だけの人生に戻る。
勝手に救いを求めた気になって、
その欠片を手に入れた気になっている。
旅人は、次の季節を迎えられたのだろうか。
きっとその後でも、私には何もないのだろう。
旅人がいなくなって まーくん @maakunn89
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