第8話

 べつに驚かなかった。これは、予想の範囲内。

 こいつは、それ――茉莉がショックを受けること――が俺への抑止力として働くと思っている。自分がそうだから、相手も同じに違いないとしか考えていない。

 だが、それでは戦えないんだよ。浅倉。

「お前なら、俺を殺すとでも言うだろうが、俺はお前に感謝するよ」

 浅倉の無言が俺を竦みあがらせることはない。

 息を凝らしていたのは浅倉のほうだ。

「ひとは、不幸さえも快楽なんだよ。血がつながっているいないなんてことは、俺には本当に問題じゃない。問題じゃないと感じる俺がおかしいんだ。いや、つながっているほうがいいとすら欲望する。

 深町さんは、そんな俺の欲望を否定しなかった。そのいっぽうで近親姦はいまとなっては安手のラブロマンスだと喝破した。あのひとはそう言えば俺が躊躇するとでも思ったのかもしれない。たしかにいっときは抑止力になったが、いまの俺にはなんの効力もない」

 浅倉は口をあけたまま俺の顔を呆然とみて、

「……龍村さん、あんた実は諦めるつもりがないんじゃん」

 ようやく気がついたか。

「そう言ってるだろうが」

「言ってねえよっ」

「だからお前はバカだっていうんだよ。目の前のことだけ見てないで先を読め」

「できればとうにやってるって。オレはあんたみたいにアタマよくないんだよっ」

「それは違う。お前はたんにさぼってるだけだ。俺のはなしも半分しか聞けてない」

「龍村さん、そりゃないでしょ」

「あるよ。お前は自分のことしか考えてない。俺のはなしをきいてさえも、茉莉がかわいそうだとは一度も思ってない」

「つうか、それは、お互いに好きなんだからそれでいいじゃん」

「俺がいつ茉莉を好きだと言った」

「龍村さん」

「お前の論理では、好き同士なら血が繋がってようが親が反対しようが構わないってことなんだろうがな。俺も、そう思うよ。俺が、茉莉を好きなんだとしたらな。また、茉莉も俺を一個の人間として俺の自由を保障して迫ってくれているのならな」

「それ、難しく考えないで、ただたんに、お互いきちんと言い合えばいいだけのことじゃん……」

 だから俺はこいつが鬱陶しいのだ。

 深町さんはいい。あのひとの正論は、それが通らないことを理解したうえでのそれで、こいつのように出来る人間の驕りが少ないから。

「堂々と正論を吐くなよ。お前だって逃げたくせに」

 俺のことばに、浅倉は傷ついたようだった。

 それからテーブルのうえに視線を投げて太い息を吐いた。俺は、こいつのそんなわざとらしい態度には何も感慨をおぼえなかった。そして、俺が気に病むふうもないので浅倉は浅倉で考えを改めたようだ。

「だいたい恋愛なんて、そんな綺麗なものばっかじゃないでしょ」

「お前に言われなくともそんなことくらい俺も茉莉も知ってるよ」

 苦笑でこたえると、浅倉は真顔で返した。

「じゃあ、なんで深町センパイを巻き込もうとするわけ? 自分たちのことは自分たちで始末つけりゃあいいじゃん。あんたなんて何でも出来るんだからさあ」

「そこを考えるのがお前の仕事だろ」

「人に頼るわりにずいぶん余裕があるね」

 厭味たっぷりに皮肉をきかされたが黙っていた。

 浅倉は、俺と茉莉のことなど本当にどうでもいいのだ。というより、俺たちが互いを必要としているという理解でしか想像できない。だから、いちばん底の部分を見透かそうとしない。

 俺にとって茉莉が母親を奪った父と義母への復讐の道具であることも、また、茉莉にとって俺が彼女の父親だった男への断ち切りがたい思慕の肩代わりであることも、恐らくきっと気づいていない。

 だが、それでいい。

 こいつはたぶん、それを語ってみせても、それの何が悪いと言うだろうから。俺は善悪のはなしをしているわけではない。そこをスルーされ、長年の間に山と降り積もった屈託を一刀両断に斬り捨てられると憤懣がたまる。ただそれだけのことだ。そして、何もかもを許容されても苛つくのだ。繊細さの欠片もないこいつには呆れる以外ない。それで救われるひともいるが、俺はそうではない。

 また、来須のように、そもそものところで善悪の判断をされても困る。少女趣味的センチメンタリズム全開の生真面目さを発揮されても萎えるのだ。

 となれば、そこを掬い取ってくれるのは深町さんしかないわけで、たんにこれは、俺の性的欲求不満の解消法のはなしでしかない。

 ついでに告白すると、俺は、茉莉がいつか俺から離れていくかもしれないと考えている。茉莉を本気で愛する男がいれば、茉莉がそいつに惚れて当然だと思う。だからこそ俺は、この四半世紀ちかく、茉莉に近づく男をみな排除してきた。

 茉莉は、そのことを自覚しているだろうか?

 俺が深町さんに期待するのは、閉じられた共同体に「他者」の視線を導入することだ。家族のなかにあっては普通のことも、他者からみれば普通ではない。そのことを、俺も、茉莉も知らない。

 そしてまた、俺はここまでしておきながら、茉莉が「自分」というものを持つことを恐れている。捨てられたくないと怯えているから、茉莉を縛る。支配の実態の内情はこんな薄汚れた小心がすべてなのだ。

「あああああ、だから、なのかっ」

 ずっと無言でいた浅倉が、いきなり何がしかの到達点に辿りついてぐしゃぐしゃと頭を掻いていた。こちらの予測した地点に浅倉が達したのかどうか、たしかめる気もなかった。

 俺は、浅倉のことなど実はどうでもいいのだ。たしかにこいつには世話になった。浅倉がいなければ大学生活はさぞや侘しいものだったと想像できる。とはいえこいつに失望していたのも事実だ。

 俺は、深町さんを援けられなかった自分の勇気のなさを認めることができず、かわりにこいつを蔑んだ。お前がしっかりしないから、あのひとが不幸なままじゃないかと罵りたくて、だが、そうは言わなかった。同情されたくないという気持ちを慮ってくれたひとに、哀れみをかける不躾は許容できなかったからだ。

 いってみれば、俺と彼女とのあいだに交わされていたのは騎士道精神に満ち溢れた協定で、互いに不可侵、共通の敵があればともに戦いうというもので、それ以上のものではなかった。

 そして今、俺は勝手にその協定を破り、何もかもを壊そうとしているのだ。

「浅倉、俺は今夜のはなしを書き残し、なにかあった場合には深町さんに送り届けるよう来須に預けておく」

「は?」

「来須はあの性格だからこれを覗き見ることはしまい。そして、もしもの場合にはあやまたず、彼女にこれをさしだすだろう。深町さんは、俺と付き合ったことを浅倉に知られたくないと思ってるはずだ」

「そうに決まってるじゃん、あの人、他人の陰口大嫌いなんだから!」

「だが浅倉、自分が正しくあれば相手も正しくしてくれるに違いないっていうのはおかしくないか?」

 浅倉の眉間のしわが深くなる。俺はそれを眺めながらつづけた。

「いや、おかしいわけじゃないか。ひとはそれを正義と呼ぶのかもしれないが、それがまかり通らないのが現実だ」

「あの人だって、そのくらいはわかってる」

「だが、認めたくない」

「みんな、そうじゃない?」

「みんなって誰だ。お前のそれは反論にすらなってない。一般論なんてやつは糞以下だ。そんなんで深町サンに相対しようとすると死ぬぞ」

「言ってることはわかるけど、死にはしないでしょう」

「ことばがひとを殺すこともあるんだよ」 

 思い当たる節でもあるのか、それを聞いて浅倉が苦い顔つきをした。

 そう。

 ことばがひとを殺すことはこの世にいくらでもある。

 俺はそうして茉莉の生きる力を奪いつづけてきたし、茉莉もまた、二重の、相反するメッセージを含めたことばや行動で俺の自由を封じてきた。俺の嫌いな食べ物をつくりそれを食べさせることで俺が茉莉を見捨てないか試し、自分の好きでもないものを欲しがり俺の愛情をたしかめ、俺もまた、同じように茉莉の好きにしてやるといいながらいざとなるとそれに難色を示し、駄目なものを駄目といえず、赦しつづけた。

「はなしを戻すが、少なくとも俺がなにかを期待するのは茉莉だけだ。俺は他人に期待しないし、お前も俺と同じだろう」

 浅倉は頷かなかったが、否定もしなかった。

 それに満足して口にした。

「誰かに、なにかに、頼ってもいいとあのひとに伝えられるのはお前しかしない。自分の判断の限界を知れと突きつけて、あのひとに強かに殴られて気持ちいいのはお前しかできない特権だろうが」

 浅倉はここにきてようやく俺のはなしが飲み込めたようで、俺の顔を注視した。

 ほんと、こいつはどうしようもない。

 だが、そんな男でも、浅倉が約束を守る男だということは実証済みだ。


 ということで、

 これを最後まで読んでくれたなら、

 深町サン、

 俺がこれからしようとすることを、

 茉莉と俺との関係を、

 またこの感情の正体を、

 何と呼ぶかは貴女が決めてくれ。


 名付けの問題に、貴女は鋭敏であったはずだ。

 俺は、貴女に判断をあずけ、何かを命じられれば出来得るかぎり、それに従うつもりでいる。

 俺と茉莉の血がつながっているかどうかは実のところ関係ないと、貴女はもう気がついただろう。俺は彼女を嫌いなのだ。それと同時に、自分を憎むのと同じ強さで彼女を狂うほど恋うている。

 そしてまた、万が一にも俺が貴女の命令に従えない事態になるならば、そのときは俺のことも茉莉のことも忘れてほしい。

 貴女が俺に親切で優しくあろうとしても、こうして俺は貴女に暴力を振るってしまう。俺たちを見捨てて逃げるのが正解だが、そのいっぽうで、俺は、貴女が茉莉を救ってくれることを祈っている。俺の手の届くところから、彼女を連れ出してほしいとも願っているのだ。


 近いうちに、浅倉が話をしにいくはずだ。


 俺に「不幸」と勝手に断じられ、

 貴女がそれを不愉快に思うだろうことも承知している。

 また、他者の幸不幸など論じることが、貴女からすれば、そもそも下品な行為でもあるだろう。


 だが俺は、

 俺と茉莉の幸福を祈ることはないが、

 貴女のそれは何かへと希う。

 聞き遂げる神はとうに死んでいるかもしれないが、

 この願いが、

 貴女への「呪い」ではないと信じて。     

                     龍村功拝

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それを何と呼ぶかは貴女が決めてくれ ―龍村兄妹物語2 磯崎愛 @karakusaginga

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