花家小町

 花家小町はないえこまち

 高校の入学式の日、張り出されたクラス表から幼馴染の折原を見つけ出すより先に、その名前が目に留まった。記された名前の華やかな佇まいに、僕はまず心を惹かれたのだった。

 名は体を表す。そんな言葉を実証するかのように、小町はその名に相応しい容姿をしていた。すらりと伸びた鼻梁。光に晒すと透き通ってしまいそうなほどに白い肌。手入れが行き届いていながら潔く下ろされた長い黒髪。怜悧な光を密かにたたえている、睫毛が伸びた切れ長の目元。そして、そのどこまでも凛然とした容姿と調和するように、彼女からはうっすらと薄荷の香りがした。

 有り体に言うと、僕がそれまで目にしてきた異性の中で、彼女は最も美しい存在だった。

 その場にいる大半が初顔合わせという独特の空気が満ちる教室の中にあって、小町は気安く声をかけられるような存在ではなかった。誰かと話すこともせず、ごく自然に孤高と隔絶を纏わせて席についている彼女に、多くのクラスメートが遠巻きに視線を送っていた。僕もまた、当初は彼らに倣うようにして視線を送るだけに留めていた。

 そんな小町と最初にコミュニケーションを取ることに成功したのが折原だった。彼の社交性というのはこれがなかなかのもので、初対面の相手であっても、ほとんどの場合時間をかけずに意気投合してしまう。対して僕はというと、初めて顔を合わせる相手とは、ほとんどの場合うまく話すことができない。きっと、小学生の頃から一緒に過ごしているうちに、僕は折原に社交性というものの大半を吸い取られてしまったのだ。

 高校生活最初の放課後、折原の「さっき仲良くなった子」という紹介で僕は小町と最初の対面を果たした。

「花家小町って、綺麗な名前だね」

 僕は、折原に吸い取られまいと守り通したわずかばかりの社交性を総動員させ、普段であれば絶対に口にしないようなことを言った。

「名前なんて、誉められても嬉しくないわ」

 小町の声は、冬の日の澄んだ小川を思わせた。ひんやりと耳を浸す、どこか冷淡さを帯びた声。

「どうして?」

「花家小町って、字面からしてショウフみたいだから」

「ショウフ?」

「風俗嬢って言ったら伝わるかしら?」

 研ぎ澄まされた目つきでそこまで言われて、僕はようやく頭の中で娼婦と変換することができた。その思いがけず過激な発言に面食らいながらも、なにか気の利いた返答はできないかと言葉を探した。

なんて今は使われない言葉だから、気にしなくていいんじゃないかな」

 今度は彼女が言葉に詰まる番だった。クールな印象を与える切れ長の目を少しだけ見開かせたその表情を目の当たりにして、僕の中で彼女のイメージは小さく、しかし確実に変化していった。

「まさか伝わるなんて思わなかったわ」

 なぜか呆れたようなため息をついてみせ、小町はつまらなそうに視線を僕から外した。

「僕が理解できていなかったら、どうするつもりだったのかな」

「別にどうもしないわ。あなたはただ、私のことを頭のおかしい女と思うでしょう」

 それだけのことよ。

 その声質と相まって、小町の言葉は目の前の相手を近づけまいとする棘のようものをまとっているように感じられた。けれどそれは、触れるほどの距離に立つな、という意思表示にすぎず、関わることそのものを拒絶はされていない。少なくとも、僕はそう受けとった。

 実際に話してみると、小町は当初のイメージほど冷たい人間ではなかった。静かなトーンで冗談も口にすれば、思いがけない言葉に対して微かに笑いもする。当初はどこか恐る恐るといった感じに関わっていた僕や折原も、少しずつリラックスして話せるようになっていった。

 小町は英語が得意で、授業中に教科書の音読を当てられたときには、驚くほど流暢に英文を読み上げていた。話を聞くと、どうやら英会話のレッスンに通っているらしい。

「あなたたちはしていないの? 習いごと」

 小町は僕たちを交互に見渡しながら訊ねた。

「中学んときまで親に色々習わされたからな。高校生になったら遊びまくるって決めてたんだよ」

「ふうん」

 折原の返答に、小町は唇を結んだまま、さして興味もなさそうに相槌を打った。そして、視線を僕の方へと移す。

「僕はアルバイトをしようと思ってる。今、バイト先を探してるところだよ」

 涼しげな表情の小町に見つめられると、そんな些細なことを答えるだけで、僕は変に緊張してしまう。

「ふうん」

 と小町は二度目の相槌を打つ。それからなにか話を総括するようなことを口にするのかと思いきや、無言で席を立ち、教室を出て行ってしまった。なにか気を悪くするようなことを言ったかと思ったけれど、その後の昼休みにはごく普通に話しかけてきた。どうやら彼女には彼女なりの間というか、距離のとり方があるようだった。

 そうやって僕たちは少しずつ一緒に過ごすようになった。休み時間は一つの机を囲って話をしたし、昼食も一緒に食べた。そして、放課後になると学校の近くにある河川敷に座り込んでとりとめのない話をした。

 ある日の放課後、なんの話題からか小町がこんなことを言った。

「私って、とかく同性から敵対視されやすいのよ」

 その突然の告白に、僕も折原もすぐに返事ができなかった。けれど、言われてみればたしかに、クラスでは一部の女子が小町に対して刺々しさを含んだ視線を向けているような気がする。

「みんな、ろくに話もしないうちから勝手に私という人間を判断しようとするわ。花家小町は綺麗だけど、冷酷で、非常識で、協調性の欠片もない、頭のおかしい人間だって」

「綺麗って、自分で言うかよ」

 と茶化したのは折原だった。

「だって、その通りじゃない」

 小町は気を悪くした様子もなく、澄み切った声でそう言い切った。

「たしかに私は冷酷で、非常識で、協調性なんて欠片もない頭のおかしな人間かもしれないわ。でもね、自分の美しさには絶対の自信があるの。だってあのクラスに私より綺麗な子は存在しないもの。伊勢君も折原君も、そう思わない?」

 小町の放った、美しさという言葉の真剣な響きに、僕たちは圧倒されてしまう。こう言ってしまうと大袈裟に聞こえるかも知れないけれど、そこには間違いなく彼女の矜恃が備わっていた。二人して同意の言葉一つ返せずに固まっている中で、小町はさらに続けた。

「だから、誰かが私のことを陰で笑っていたり、馬鹿にするようなことを言っていたとしても、そんなことはなにも気にならないの。本当よ。知ってる? 人より美しいってね、それだけで人生が豊かになるものなのよ。それに……」

 そこで小町は言葉を切った。湿った匂いのする暖かい風が吹き、彼女の長い黒髪を揺らす。そして、唇の片側だけを持ち上げてシニカルに笑い、僕たちを見渡しながら、こう言った。

「私が綺麗じゃなかったら、きっとあなたたちはここまで仲良くしてくれなかったんじゃない?」

 そのあまりに直接的な物言いに、やはり僕たちはなにも言い返せなかった。

 小町は別に、綺麗な女の子と仲良くしたいという、男なら誰しも抱いているどうしようもない願望を糾弾しようとしていたわけではなかった。ましてや自分のことを顔以外に取り柄のない女だ、と卑下してあんなことを言ったわけでもない。

 そのとき、きっと彼女は、ただ正直な胸のうちを語ろうとしていたのだと思う。僕は不思議と、そう直感した。

 誤解を恐れず、自分の気持ちを自分の言葉で伝える。小町のそんな潔さがはっきりと伝わってきて、僕は彼女に好感とも関心ともつかない、胸のすくような感情を抱いたのだった。

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