小町がいたこと
有希穂
Prologue
追想の夜
「
手にしたビールのジョッキをテーブルに置いて、赤ら顔の
突然口にされたその名前に、心がはっきりと波立つのがわかった。僕は気持ちを鎮めるために、ウーロン茶のグラスに手を伸ばす。
「そうか」
注意深く言葉を選んで、そんな抽象的な相槌を返す。
「
ビールの泡がついた口元をおしぼりで拭いながら僕を見る折原の瞼は、眠気のためかほとんど閉じかけている。けれど、彼の瞳には、どこか責めるような色が含まれていた。
「ああ」
「どうして帰らない」
「時間がないんだ」
「出版社っつーのは、そんなに忙しいところなのかよ?」
今度は明らかに非難めいた口調と視線が向けられる。僕がなにか言い返す前に、折原は舌打ちをしてビールをあおった。
「悪い。別に責めるつもりじゃないんだ」
「ああ」
「でも、一回くらいは顔を見せてやれよ」
十年だぜ、と折原は呻いた。そして、ジョッキの中に残っていたビールを全て飲み干すと、ゆっくりと溜息を吐いて、とうとうその場に突っ伏してしまった。
十二月二十日。この日、僕と折原は一年ぶりに会っていた。僕の住んでいる町に彼が出張で訪れているという報せを受けたのはつい昨日のことで、『飯でも食おうぜ』という電話越しの一言のせいで、僕は年の瀬の週末に予約をとることができる飲食店を探し回るはめになった。
僕と折原は、小学校から高校まですべて同じの幼馴染だ。僕が地方の、折原が東京の大学にそれぞれ進学してからというもの、会う機会というのは激減してしまった。それでも、長期休暇の折などに時間を作っては一緒に食事をした。僕が定期的に会う友人というのは彼だけだった。お互いにどれだけ仕事が忙しくなっても、一年に一度は必ず会って食事をした。
今年、僕たちは二十八になった。そんな僕たちが会って話すことというのは、実に他愛のないことばかりだった。お互いの職場の愚痴であったり、折原の子どもの成長具合であったり、観た映画の話であったり。とにかく、僕たちの間で交わされる話題というのは、日を跨ぐと霞のように消えてしまうような内容ばかりだった。
しかし僕は、そんな風に彼と話している、まったく生産性というものが欠如している時間が、決して嫌いではなかった。僕が勤めている出版社の制作部には、こんな風に軽口を叩ける同僚というのは存在しないからだ。
だから、僕としては今日も、毒にも薬にもならない話題に終始すると考えていたのに。
――花家小町の命日から、もうすぐ十年だ。
それは、僕が今日まで避け続けてきた人物の名前だった。折原の言葉を受けて、僕は静かに動揺していた。しかしそれを決して表に出さなかった。僕は、一度眠ると消えてしまうようななんでもない話の中に、折原のその言葉をも埋めてしまおうとしていた。
けれど、記憶の奥深くに眠る過去の思い出が、それを阻もうとしている。この十年間、注意深く抑えこんできた、彼女とすごした日々。いくつもの言葉や仕草。僕は慌てて蓋をする。そしてそろそろと息を吐き、自分のグラスに入っているウーロン茶に口をつける。
店員が僕たちのもとに来て、二時間が経ったのでテーブルを空けるように告げた。僕の再三の声かけの末に、折原はテーブルから顔を上げた。
「悪い。先に帰るよ」
ダウンジャケットを着込み、テーブルに五千円札を置いて、僕は席を立った。わざわざ連絡をくれた彼に対して悪いと思う気持ちはあったけれど、僕は一刻も早く一人になりたかった。
「伊勢」
名前を呼ばれて立ち止まってしまう。けれど、僕はその呼びかけを無視すべきだった。振り向くまでもなく、折原は言葉を続けた。
「頼む。小町に、会ってやってくれよ」
切実な声。僕は、奥歯をぐっと噛んで、そのまま店の外へ出た。そうしないと、この居酒屋の中で叫び出してしまいそうだった。
黙々と、脇目も振らず歩き続ける。クリスマスを目前に控えた夜の街は、多くの人が行き交い、尽きることのないイルミネーションに彩られていた。
なにもかもを忘れ、このまま眠ってしまいたかった。そして朝が来たら、顔を洗い、髭を剃り、歯を磨き、身支度を整え、車に乗り、コンビニで朝食を買い、いつものように仕事場へ向かう。僕のやるべきことは変わらない。これまでずっと繰り返してきたように、日常の中へと自分を没入させる。そうしていると、余計なことを思い出さずに済む。それは、この十年で僕が唯一身につけた生きる術だった。
冷たく吹きすさぶ北風に身を固くしながら、僕はひたすら足を進めた。そして家に帰ると、そのままベッドに倒れこんだ。なにも考えることなく意識を手放し、十二月二十日の夜から一秒でも早く遠ざかりたかった。
けれど、その日の夜、僕は夢を見た。とても長い夢だ。
それは、僕の中でいつまでも手つかずのまま残っていた記憶を拾い集めて、丁寧につなぎ合わせたようなものだった。
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