ある夏の日、私は夢を見た……(短篇集)

KAI@WordsARTWORKS

かげろふのそれかあらぬか

 私が目を覚ましたと思った時、鼻孔をくすぐる甘く香る懐かしさに、たまらない気持ちになった。

 その時の私は縁側の落縁の上で両足を犬走りのほうに投げ出し、左肩を上にして横になっていた。恐らく遊び疲れて一休みしているうちに眠ってしまったのだろう。

 着ているランニングシャツはいたるところが擦り切れ、泥汚れがそれに拍車をかけていた。焦げ茶色の半ズボンや厚手の布の靴もそれに倣っている。

 そこから伸びた腕や脚は真っ黒に日焼けし、表面には強い陽光に充分に炙られた熱が残っていた。その香ばしい匂いがじっとりと素肌にまとわりつく汗と混じって私の周囲を満たしている。

 空は、西から青や藤、そして橙の光を投げかけていた。遠くの入道雲は淡く霞み、私の頭上では綿をちぎったような不揃いな雲たちが残陽を受けてそれぞれに自己主張している。

 開け放たれた腰付き障子の向こうに見える居間の畳の上に、麦わら帽子が落ちていて、その横には竹で組まれた虫かごと、半分ほど破れてしまっている虫取り網が置いてあった。あの虫かごの中に入れてあるはずの、片手では余るほど大きなショウリョウバッタはどうしただろうか。

 蒸された薄い空気の中で、蝉が暮れようとする太陽を必死に呼び戻していた。

 息苦しい気だるさが、私の意識をはっきりとさせてくれない。色褪せた風景が私を不安にさせる。

 その時、私の上に大きな影が被さった。私はそれを見上げたが、逆光に目が眩み、その輪郭すらはっきりと捉えることができなかった。

 だが口元に浮かぶ優しい笑みを見て、私はとても穏やかな、それでいて狂おしいほどの切なさと焦燥に襲われた。

 それは母だった。顔はほとんど見えない。ぼやけた輪郭が記憶の中の母と合致しない。しかし愛おしい笑みは私の記憶そのままに、西日から私を守るようにはだかり、長い紺色のスカートの中で脚を崩し、豊かな胸をおさめた白いブラウスのボタンを上から二つほど開けて、私を覗き込んでいた。

 母であるのか、そうでないのか、私には判らなかった。だが影の形は記憶と違っていても、その佇まいは母に相違ないと、根拠のない自信が私にはあった。少なくとも私が愛し私を愛してくれる、そんな近親(ちか)しい者にしかない絶対的な安心感があった。

 私は彼女を見ているにつれ、彼女に対する奇妙な焦燥ばかりを募らせた。私は何かを伝えなければならなかった。何をと聞かれれば判らない。ただ全てを、思いつくままに彼女に伝える、それが今の私に課せられた使命であるような気がしていた。

 しかし意に反して言葉が口から出ることは叶わなかった。彼女の笑みは、何も言わなくていい、全てわかっている、そう私を諭しているかのようだった。

 でも私の焦燥感は酷いものであった。彼女が私を微笑みで諫めるほどに、私の胸の中で感情が迸り渦を巻いた。

 私は必死になって訴えかけようとした。だが喉元に鉛でも詰まっているかのように言葉はそこで押し戻され、逆流した感情で胸は破裂しそうなほどに苦しかった。

 逆光はさらに強く彼女の輪郭を滲ませ、それがますます母の姿と乖離させる。それでも胸の中で渦巻く想いは激しくなっていった。

 逃げ水の如く私を寄せない彼女に、私はふと母ではない別の姿を描いた。その瞬間、私は悟った。そうだ、私が想いを伝えなければならないのは母ではない、彼女なのだ。私は。


 不意に意識を引き戻された私の眼に、見慣れたリビングが映った。花の図柄が浮いたシックな白い壁紙と薄い緑のカーペット、そう呼ぶには些か貧相なシャンデリア、流行りの大きな薄型テレビ、木目調の黒い小さなテーブルを左右から挟むソファ、私はそのソファにいた。空調は動いてなくて、部屋は少し開かれた窓からの外気に蹂躙されるがままになっている。

 入り込んできた風の中に、焼けた地面を程良く濡らしたときに立ちのぼる匂いを嗅ぎとった。濃い湿り気を含んだそれは、明らかに夕立を迎える合図だった。

 蝉時雨と呼ぶには物足りない遠くからの響きの中で、取り残されたような庭の樹からの蝉の声がやたらと大きかった。

 部屋を明るくしているのはほぼ真横から入る橙色の鋭い夕日だった。一日の黄昏を間近に控え、まだ暴れ足りないとばかりに部屋を一直線に穿っていた。

 リビングのそこかしこが朱に染まり、孫のために買ってある部屋の片隅の麦わら帽子と緑色の安っぽい虫取り網と虫かごが、主を迎えられる日を待ちわびながら、迫る夕闇に沈もうとしていた。

 でもその光景は鮮やかな彩(いろ)を帯びていて、私の意識にはっきりとした説得力を与えていた。

 体を起こそうとして、重く固まってしまっていることに気づく。ソファに長く背中を預けすぎたせいだ。

 ちゃんと座り直し、首を何度か振った私の前に、濃い液体をなみなみと湛えたタンブラーが置かれた。黒い木目調のテーブルのうえでコースターが敷かれたそれは、表面についた水滴と相まって、西日を受けた反対側に美しい色を投げかけてた。          テーブルを挟んで反対側にもう一つ、妻が腰をかける。そしてタンブラーをひと口運んだのち「もうお目覚めですか?」と尋ねた。

 私は、ああ、と答えて彼女に倣う。香ばしい茶が喉元を通るとき、じんと体が潤った感じがした。それで私は酷く乾いていること、逆に額にはじっとりとした汗がまとわりついていることに気がついた。

 妻は中身を半分ほど飲んだところでタンブラーを置き、テレビのリモコンを手にした。低いノイズ音と一緒に映し出されたのは、戦後六十五年を迎えた終戦記念日の、厳かな平和への祈りだった。

 ふと妻の横顔をみる。最近は涙もろくなったと言うとおり、テレビをみて瞳から滲んできたものを拭う妻は、目尻や口元にその齢にふさわしい年輪を浮かべ、白がとうとう半分を越えてしまった髪を、せめて若く豊かにみせようと手を尽くしていた。

 そんな横顔に何故か懐かしさを覚えた。何かの記憶が胸の奥で膨らんでいく。つんと鼻の奥で熱いものが走った。

 そして私は突然、さっきまで夢をみていたこと、それは幼い夏の日のことで、そこには母らしき姿があったこと、を思い出した。それでさらに私の胸は熱くざわめいた。

 私の様子に気づいた妻が、少し首を傾げて「何か?」と尋ねた。私が、ちょっと子供のときのことを思い出したんだ、と答えると、妻は、あら、よろしいですね、と笑った。

 私は今の想いを悟られまいと平静を装いながら、そうでもない、と首を振った。私の家は比較的ましだったとはいえ、貧しかった時代、兄弟も多く、娯楽もなかった。だが、思い返すとあの時ほど夢中になるものが今もあるだろうか。時間を忘れて遊んだ純粋な記憶は何時から途切れてしまったのだろうか。

 そんなことを話すと、妻は、あら珍しい、と驚いた。「あなたはご自分のことをお話しになられたことはほとんどありませんから」と笑う。

 私が、そうか? と聞き返すと彼女はそれが事実であると自信をもって頷いた。

 その微笑みをみた瞬間、私は唐突に悟った。喉元の鉛が弾け、胸の奥から洪水のように感情が押し寄せた。

 そうか、私が伝えたかったのはこれだ、私がどうやって生きてきたのか、私がその時何を思っていたのか、その私のすべて。

 だがその相手は母ではなかった。私が伝えなければならない相手は別にすぐ近くにいた。

 仕事優先だった私を支え、家庭を切り盛りし、ようやく人生に一区切りついた今も私の側にいてくれている妻。私は彼女に何が出来ただろうか。何をしてきただろうか。

 だから夢の中で母は教えてくれたのだ。私がしなければならないことを。私が伝えなければならない相手を。

 きっとそうだ、と私の中でそれは既に確信となっていた。

 私はリモコンを手にとってテレビを消すと、妻に向き直った。そして、じゃあ少し昔のことを話そうか、というと、妻は少しだけ姿勢を正し「ええ、是非」と瞳を輝かせた。

 話したいことは沢山ある。時間もたっぷりとある。私は考えた。やはり語るならここからだ。

「じゃあ、まずは子供の頃の夏のことにしよう。こんな風にとても暑い夏のことだ」



(終わり)

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