海の家のかき氷
まくつ
ブルーハワイ
青空は燦燦と輝き、海が煌めく。今年も夏がやってきた。日本海に突き出した半島の先の方に位置する海水浴場は今日もほどよく賑わっている。過密でもなければ過疎でも無い。そんな海水浴場の端に一軒の古い小屋があった。所謂、海の家というやつだ。もっとも、老店主が一人で切り盛りする屋台に近い、冴えない小さな小屋に過ぎないのだが。
「おっちゃん、ブルーハワイ!」
少年はいつものように威勢よく百円玉を差し出して注文をした。
「はいよ!」
老店主は衰えを感じさせない快活な返事をすると慣れた手つきで氷を機械に嵌め、スイッチを押した。ゴリゴリッという鈍い音と共にちゃちなプラスチックのカップに半透明の雪が積もっていく。真っ青なシロップをかけて、再び氷を削り、シロップをかける。一分とたたずに青空色のかき氷の完成だ。
老人から水の滴るカップを受け取った少年はストローにもなる細いスプーンで氷の山を切り崩し、口に運んだ。
「ありがと! ん、シンプルに美味い。結局こういうのがいいんやよねー。上等でもなくって気張らない感じが逆に最高」
「喜んでいいのか分かんねぇ誉め言葉だな。まあ、常連のお前さんがそう言ってくれるならこれで良いんだろうな。お前さん、かれこれ十年くらいウチに通ってんじゃねえか?」
「そうやね。ここの売り上げは俺が握ってると言っても過言じゃないわ」
「過言だろ自惚れんな」
少年は高校三年生の十七歳。この小さな町で生まれ育ってきた生粋の田舎者である。小さいころから近所にあるこの海水浴場で遊んできた。当然、この寂れた海の家の常連客である。夏場は海で遊ばない日もかき氷を食べにやってくるほどだ。近所にスーパーマーケットやコンビニの類が無い彼にとって夏季限定の海の家は文字通りのオアシスだった。
店主もまた、この近隣に住んでいる。四十年間町役場で堅実に働いてきた彼は退職後に知り合いのやっていた店を受け継いだ。理由は暇だったから。夏季限定の仕事は老後の彼にとって程よい刺激だった。店を継いで十四年。七五になった彼は生涯現役を掲げて毎年夏になると仕事に勤しんでいる。言わば、この店は彼にとって第二の人生を送る場だ。
そういうわけで、少年と老人はすっかり旧知の仲なのである。軽口を叩き合うのは日常茶飯事だ。少年はいつものように食べかけのかき氷を片手に老人に話しかける。
「それにしてもさー。最近客が少なくなったと思わんけ?」
「確かにな。若者が減ってきてる気はしてる。事実、売り上げも毎年減っとるしな」
老人は若干の溜息混じりに答えた。資本の無い小規模の店だけに客が減っているというのは重大な問題である。
「マジで? この店が無くなったら俺は夏をどうやって生きてけばいいんだよ」
「だったら手伝ってくれや。駄賃は出すさかい」
「分かったよ。ゴミ出してくるわ」
少年は当たり前のように海の家の扉を開きゴミ箱の中身を一つの袋にまとめていく。店の横にあるゴミ箱の中身も回収し、軽々と背中に担ぎ上げた。
「ほんじゃ、俺は行くわ。明日はかき氷サービスね」
「おうよ。ありがとな」
少年は軽く手をあげて踵を返す。
少年が店を手伝うようになったのは高校に入った頃だった。老人が怪我で腰を痛め激しい運動ができなくなった時、馴染みの店の危機ということで少年が足腰を使う仕事を変わりにやったのがきっかけ。それ以来、食べ物を奢ることを条件に少年はちょっくちょく海の家を手伝っている。
そんな少年の遠ざかる背中を見ながら、老人は椅子に座った。やはり、腰が痛い。最近は疲れやすくなっている気がする。客が来ないものだからのんびりと思案を巡らせる。
老人も年だ。生涯現役を掲げつつも寄る年波には勝てない。年々筋力の衰えを感じる彼にとって若々しい少年の手伝いは何よりもありがたいものであった。
老人は思う。果たしてこのままでいいのだろうか。勿論、否だ。少年もいずれは町を出ていくかもしれない。そんな彼に頼らねばならない状況を是としていいはずがない。老人は手伝ってもらう度に申し訳ないと思っている。少年は好きでやっていると言うし、間違いなく善意からではあるのだが、やはりただ任せているわけにはいかない。
などと漠然とした不安を感じる老人は、視界にこちらに近づいてくる母子を捉えた。頬を叩き、勢いよく立ち上がる。
十歳くらいの男の子が元気よく声をかけて来た。
「いらっしゃい!」
「たこ焼きとブルーハワイください!」
「はいよ!」
代金を受け取った老人は手際よく品を用意し、子供に渡す。
「ありがと、爺ちゃん!」
「また来てな!」
笑顔いっぱいで足早に去っていく小さな背中を見て、老人は呟く。
「爺ちゃん、か……」
何気ない、悪意など欠片も無い子供の言葉。しかしそれは老人の胸の奥に引っ掛かった。
◇ ◆ ◇
少年の朝は早い。目覚ましが無くとも五時に目を覚まし、日課のランニングをする。早朝の海岸は夏の割には涼しく、風が頬を撫で潮騒が耳をくすぐった。大学進学のため勉強に重きを置いている彼にとって早朝ランニングはちょうどいい気分転換なのだ。朝の運動をすると午前中目が冴えるという理由もある。
ランニングの後はシャワーを浴びて適当に朝食を胃に放り込むと、着替えを済ませてバス停に向かう。基本的に二時間に一本のバス。遅れれば一日の日程が崩壊する。今日も少年は時間通りにバス停に到着した。
バスに乗り込むと単語帳を開く。乗り物酔いしやすい体質の少年はすぐに気持ち悪くなるから、五分ほどで音楽に切り替えた。田舎とはいえSNSの時代。流行の曲などもサブスクで好きに聞けるが、いかんせん田舎だ。いまどきのSNSで流行するような『ナウい』曲はバスから見える雰囲気に合わない。登校時に関して言えば、少年はORANGE RANGEを好んで聞いている。時代を越えても変わらない良さを持つ素晴らしいバンドだ。
車窓に移り変わる景色はどこまでも入り組んだ海岸線。一見すると単調な光景かもしれないが、この町で生まれ育った少年にとってはどこも思い入れのある場所。場所によって違った魅力がある。夏らしい青空と煌めく海。これで可愛い彼女でもいれば完璧なのかもしれないが、生憎の田舎。高校や町の中心部に行けば女子はいるものの、彼の住む地区内に同年代の子供はほとんどいない。所詮、青い春というものは人で溢れかえった都会の人間の特権なのである。
少年は窓にもたれかかって溜息をついてみるものの、それで何かが変わるわけでもない。いつも通りにバスは進み学校のバス停に到着した。
扉を潜ると熱気の中だった。閉じていた汗腺から一気に汗が噴き出すのを感じる。校舎までのほんの百メートルが長い。制服に汗が滲んだ。校舎に入ると空気は生ぬるいといった温度。額に浮かぶ汗を拭って教室に脚を踏み入れる。ようやくの涼しい空間だ。鞄を机に置くと椅子に倒れ込むように座った。
「あっちー」
今日の教室には少年が一番乗りだった。誰にも遠慮せず伸びをして水筒の茶を口に含む。汗がゆっくりと引いていく感覚を覚えながら、何となくtwitterを眺める。とりあえずトレンドを軽く眺め終わる頃にはさっきまで感じていた暑さは消え去っていた。
気合を入れ、机に真っ赤な問題集を開く。『阪大の英語20年』だ。そしてスマホのタイマーをセットする。二十分のタイマーを押して英文に目を通し初めた。
ピピピッっと鳴るタイマーを止める。解答冊子を開いて丸付けだ。正答率は七割といったところ。二次試験に必要な得点率から考えれば悪くはない数字だ。過去問でここまで取れるなら上出来か。問題は共テ国語だな、などと思いつつ変わらぬペースで問題集を解き進める。今度は化学だ。言わずと知れた名作『化学の重要問題集』である。
勉強をすること数時間、時刻は五時に達しようとしている。少年は荷物をまとめるとバス停に向かう。今日は沢山頑張った。家に帰るのだ。
行きと同じ道なのに、車窓からの風景は違って見える。勉強をした後は気分がいいからかもしれないと少年は思う。頑張った後は自己肯定感が上がるものだ。
少年の家の周りはドが付く程の田舎。近所に繁華街やアミューズメント施設などの夾雑物を持たない。それが影響したのか少年は勉強にかける時間が長い。故に、少年は賢かった。彼の実力なら阪大、名大、東北大あたりが射程圏内だろうか。しかし、少年は迷っていた。慣れ親しんだ地元。子供は自分を含め片手で数えられるほど。少年がいなくなれば地域の衰退は避けられないだろう。それは少年の望むところではなかった。
しかし、少年の心の奥底では外の世界を切望する重いが沸々と湧き上がっている。それを抑える事は不可能だった。当たり前の話だが、週刊少年ジャンプが水曜日に発売されるような田舎より東京の方が良い。娯楽施設と言えば車で一時間かかるイオンくらいだ。インターネットで都会の情報を好きなだけ得られる昨今の高校生にとって田舎という概念への欲求不満は大きかった。町が嫌いなのではなく、町が田舎であるという事が嫌なのだ。実際、少年の友人達の中でも町を出る選択を取る者が過半数を占める。
「次は――」
次第に家が近づいてくる。しかし、今日の少年は敢えて家の一つ前のバス停で降りてみることにした。そこは海水浴場に最寄りのバス停だった。
時刻は六時手前。海水浴の時間は終わっている。海の家の老人も既に店を仕舞っていて、帰り支度をしていた。
「やっほー。遅かったかな」
「おお、学校帰りか。別にお前さんならいいさ。今日は何だ?」
「じゃあメロンで!」
少年はリュックサックに手を突っ込んで百円玉を取り出した。
「今日は制服なんだな。そういやお前さんって高三かぁ。高校卒業したらどうすんだ?」
裏口から店に入った老人はいつものように氷を削りながら少年に問いかける。少年は少し苦い表情で答えた。
「俺は進学かな。最近って六割が大学に行くんだぜ? 流石にこのド田舎でも半分いかないくらいで進学するし」
「そんなにか。俺の世代は五人に一人だったぞ。まあ、勉強嫌いの俺の孫も東京の大学に行ったしな。就職とかも考えたら大学は行けるなら行くよなぁ」
「そうそう。家業継ぐ奴とかじゃない限り大学行かんと厳しい時代なんよ。そんで俺は勉強できるさかい、どこ行くか結構迷ってるんだ」
少年は老人から受け取ったかき氷を突き崩しながら自慢げに言う。しかしその口調とは裏腹に言葉通り迷っているようで、大好物であるはずのかき氷に手を付ける様子は無い。猛暑の下、かき氷は次第に水へとその姿を変えていく。
「おっ、それじゃハーバードか?」
元気の無い少年に気づいたのか、老人は茶化すような口調で言った。少年は乾いた笑いで返す。
「ははっ。そこまで賢くはないかな。名阪あたり?」
「学の無ぇ田舎者にゃ分かんねぇわ。まあ人生の先輩に言わせりゃあ、やりたいことやんのが一番だよ。常套句かも知れねぇがそれだけ間違いない事実だ。少なくとも、やりたい事やっとかねえと年取って後悔するぜ?」
老人はしみじみと言う。彼は堅実な人生を歩んできたものの、少なからずそれを物足りなく思っていた。彼にとって可能性に満ち溢れた目の前の少年は羨ましく、輝いている存在だった。心からの忠告はほかでもない少年の幸せを願う気持ちからだ。
それを聞いた少年の顔に若干の生気が戻る。
「はは。言葉の重みが違うや。肝に銘じとくわ。ありがとね。そんじゃっ!」
少年はからからと笑う。そして一気に生ぬるい緑色の液体と化したかき氷を喉に流し込み、カップをゴミ箱むかって放り投げた。それは回転しながら吸い込まれるかのように見事な放物線を描いてゴミ箱に入る。何か吹っ切れたような清々しい顔で、少年は駆け出した。
「気を付けてなー」
老人は言う。少年は振り返らず、無言でその手を軽く上げる。その背中はぐんぐんと遠ざかり、老人の視界から消えた。
「俺も、決断しねえとなぁ」
夕日に照らされて茜色に煌めく水平線を眺めながら、老人はぽつりと呟いた。
◇ ◆ ◇
一際暑い盆過ぎの真っ昼間。少年はいつものように海の家に訪れていた。老人もまたいつものように店の手入れをする。盆休みも終わったため客足は遠のきつつあるが、ある程度は居る。この時期は言わば期末テストと夏休みの間の日々のようなもの。消化試合である。
少年の腰掛けるパラソルの下、潮風が通り抜けた。雑草がわさわさと騒ぐ。二人の間に会話は無い。若干の海水浴客の喧騒と寄せては返す波の音だけが流れる。少年は受け取ったイチゴかき氷を小さなスプーンでちまちまと食べ進めており、老人はたこ焼きの鉄板にこびりついた汚れを取る。
そんな酷暑に似合わない涼しげな空気を破るかのように、手を止めずに二人は口を開く。その表情には互いに不安のような色が混ざっていた。
「なあ坊主、話があるんだ」
「ねえおっちゃん、話があるんだ」
期せずして声が重なった。二人は互いに顔を見合わせて苦笑いをする。
「おっちゃんから先言って」
「ああ」
老人は意を決したように、少年の目を見据えてはっきりと口を開いた。
「実はな、今年でこの海の家を閉めようと思う」
「え?」
少年にとって、予想だにしなかった言葉。あまりにも想定外。表情は口を開けたまま固まり、力が抜ける。手に持っていたイチゴかき氷のカップが真っ逆さまに落下し、ぐちょりと気味の悪い音を立てた。灼熱の砂浜に薄紅色の水たまりが広がったが、すぐに吸い込まれていった。
血の気が引いた顔で少年は問う。はっきりと、老人の真意を確かめるように。
「……マジで?」
そんな少年の態度を見て、老人はばつが悪そうに頭を掻きながら答える。その表情は苦虫を噛み潰したかのようで、老人の選択が苦渋に満ちた物であることは容易に理解できる。
「俺も年だからな。それに店の売上げもはっきり減ってる。正直、割に合わねぇんだ。お前さんみてえな常連には悪いと思ってるよ。それで、お前さんは何を言おうとしたんだ?」
少年は現実を飲み込まず口を開けて放心状態になっていたが、すぐに覚悟を決めて真剣な表情で語りだす。
「俺からも言うよ。俺、この町を出るわ。大阪大学を目指す。試験に受かったらやけど、この町からは出ていくことになる」
老人の反応は、少年が老人の話を聞いた時とまったく同じだった。完全に予想外。眼の前の二人は、お互いにとってそれだけの存在だった。
「俺はさ、この町が好きだよ。でも、現実としてこの町に大学は無い。県内の大学も考えたけど、どっちにしろこの町は出ていくことになる。俺って勉強だけはできるからさ、せっかくなら挑戦してみたいと思ったんだ。学びたいことがあるから。地方の創生をしたいんだ。それを学んで、この町に戻ってきて、この町を再生する。それが俺の夢」
老人は目を丸くした。その言葉もまた、老人にとっては予想外だったのだ。
老人に思い出されるのは十年前、彼の孫が正月の駅伝で有名な東京の大学に進学する時に言った言葉だった。『こんな田舎御免だね』。その言葉通り、彼の孫は東京で就職し昨年結婚した。老人にとってこの上ない幸せな出来事ではあったものの、『こんな田舎御免だね』の一言は胸の奥につっかえたままだった。
しかし、眼の前の少年は『この町が好き』と言った。そして、この町を再生すると。少なからず不便な田舎町に不満を抱いている老人にとって、少年の言葉は意外と言う他なかった。未来ある若者はこんな町を出て行けばいい。それが幸せだという考えの老人には考えたことも無い発想だった。
「この町は確かに何もない田舎だよ。でもさ、この海を見てると思うんよ。温かくていい場所だなってさ。それは大自然とおっちゃんみたいな人が沢山いるから。無い物を探して田舎のレッテル貼んのは簡単だけどさ、そうじゃない。この町の良さってのは大都会と比べられるものじゃないんだよ。優劣なんて無いんだと思う」
少年は屈託のない笑顔でそう言い切った。
老人はハッとした。老人にとって何もなくて優しい空気に満たされたこの町は当たり前の物であった。それに不満を抱いたことは無かった。また、生まれ育った町には感謝してもその環境に対して感謝することも無かった。なぜなら老人にとってそれはあまりにも当たり前の事だったから。
しかし、目の前の少年にとってこの町はそうではなかった。少年のような若者は今や世界中の情報を光る板と指一本で得られる。故に、少年にとってこの町の環境は身近ながらも当たり前の物ではなかったのだ。
老人は、親指を立てて精一杯の笑顔で言う。
「そうか、そうだな。勉強頑張れよ!」
「当然!」
老人と少年は手を振って、笑顔で別れた。
◇ ◆ ◇
虫の声がうるさい夜。老人は自宅の縁側に腰かけてぼんやりと月を眺めていた。
老人は海の家を閉める決断をしたのには理由があった。少年に告げた理由も真実ではあったが、それだけではない。
「ったく、俺も情け無えや」
老人は右肩に手を置いて吐き捨てた。
彼の身体は健康体とは言い難かった。昭和の根性で大抵の痛みを我慢してきたのが災いしたのか、ここ二年で一気にガタが来たのだ。七十代も後半に突入し体力の衰えが加速した老人にとって、近年の酷暑の中で店を続けるというのは厳しい事だった。
しかし、そんな理由を少年には言える筈もなかった。彼にとって少年は孫にも近い存在であり、弱音を吐くという発想は無かった。昔から慕ってくれた少年にとってのかっこいいおっちゃんでありたい。彼はそう思っていた。
「あと十日。しっかりやりきってやるよ」
老人は拳を固める。
◇ ◆ ◇
窓の光に虫が寄ってくる夜。少年は網戸を開き蚊取り線香を焚く。
問題集に向き合いながら少年は悩んでいた。問題が難しいのではない。悩みの種は他でもない、老人との会話の内容であった。
幼い頃から通い詰めた海の家の閉店。少年の夏はかの店と共にあったといっても過言ではない。そんな店が閉店するのだ。平常心を保てる筈もなかった。長年食べて来た特別でも何でもないかき氷が途端に恋しくなる。
迷っていても仕方がない。少年は決めたのだ。勉強を頑張ると。ならばできることは目の前の問題に向き合う事だけだ。全統マーク模試は八割弱だった。まだまだ精進せねば、志望大学は遠い。ただでさえ彼は田舎の高校というハンデを背負っている。指導に恵まれない分、地道な努力を重ねるしかない。
しかしながら、やはり少年の手は動かない。十年以上通い詰めたのだ。少年にとって老人と海の家との関係は単なる『店と客』の域を超えていた。切っても切り離せない、第二の家のような空間にまで。
少年は気を紛らわせるかのようにスマホを開き、ORANGE RANGEのプレイリストを流す。ネットくらいしか娯楽の無かった少年の趣味の一つは音楽だ。数多の名曲が少年を作ったといっても過言ではない。どんな時も音楽が側にあった彼にとって、曲とは思い出を呼び起こす媒体だ。
イヤホンから耳へとダイレクトに流れ込むのは、小学生の頃大好きだったアニメの主題歌。夏に似合う颯爽としたメロディーに合わせて口ずさむ少年の頬を涙が伝っていた。
涙が溢れないように見上げた夜空には、ただ星が煌めいているだけだ。夜空は何も言わず、何もかもを受け入れる。今はただ、それだけでよかった。行き場のない感情を天の川に流してしまえるから。
◇ ◆ ◇
夏休みの最終日。同時に、老人が海の家を廃業する日でもあった。少年はいつものように海の家に訪れている。
「メロン」
少年はポケットから百円玉を取り出し老人へと押し付ける。
「お前さん何杯目だよ。それにお代なら今日は要らないっていってるだろ」
「俺が払いたいから払ってんの。黙って受け取って、そんでさっさと作って」
「ったく、お前さんは……」
そう言いながら老人は慣れた手つきで氷を削っていく。年代物のかき氷機がガリガリと激しい音をたてた。
「ほらよ。メロンだ」
「ありがと! やっぱこの味なんよね」
少年は五杯目のかき氷にも関わらず心底美味しそうに食べ進める。しかしその手の動きは遅く、食べ終わってしまう事を惜しんでいるかのようだ。
「別にこんなかき氷は誰でも作れるさ。珍しくもなんとも無えよ」
「まあそれはそうなんやけどね。知っとる? かき氷のシロップって全部同じ味なんやって。匂いとか色で味があるって錯覚してるだけらしい。それならさ」
少年は不敵に笑い、海の方を向いて言う。
「この環境が味を作ってるんじゃないかなって。五感に感じる情報全部が『味』なんよ。だから、俺にとってはおっちゃんが作ってくれてこの海を眺めながら食べるこのかき氷が世界一の味やと思っとる」
少年は老人に背を向けたままそう言った。その言葉を聞いた老人は目頭が熱くなるのを感じる。それを悟られないように老人は豪快に笑って言った。
「ありがとよ。なあ、お前さんは立派だよ。俺なんかよりもよっぽどしっかりしてる。お前さんならきっと大丈夫だ。何かあったらいつでもこの町はお前さんを受け止めてくれる。だから、精一杯挑戦すりゃあいいさ」
「だね。俺、頑張るわ」
そのまましばらくの時が流れ、少年はちまちまとかき氷を食べ進める。既に少年の注文は九杯に達していた。真上の青空に輝いていた太陽は西に傾き、水平線は徐々に茜色へと移り変わりつつある。
終わるのだ。夏が。最も青い時間が。
海を眺めながら空のカップを弄んでいた少年は勢いよく立ち上がった。
「これで最後の一杯にするわ! おっちゃん、」
「ブルーハワイ。これはサービスだ」
老人は少年の声を遮るように言って、カウンターに勢いよくカップを置いた。そのまますぐに後ろを向いて閉店の作業へと戻る。
「分かるんだ」
「十年以上やってるからな」
「……ありがと」
少年は軽く微笑み、水滴の滴るカップを手に取った。
「ん、美味い。特別な味やね!」
「この前と真逆の事言ってねえか?」
「ははっ、確かに」
二人は同時に笑う。そして、言った。
「「今までありがとう」」
それ以上の言葉は必要無かった。少年は真っ青なかき氷を一気に食べ終えるとカップを放り投げる。茜色の光に染められたそれはゆるやかな放物線を描き、老人が口を縛ろうとしているゴミ袋へと吸い込まれるように入った。
老人が固く縛った袋を軽く抱えて、少年は家の方へと踵を返す。老人の方を振り返り、少年は大きく手を振って笑顔で言った。
「そんじゃ!」
「おう。頑張れよ!」
少年は微笑み、完全に背を向けて駆け出す。その背中を見つめる老人の目は夕日に照らされた雫が少年の顔から零れ落ちるのを捉えた。老人の足元の地面にも涙が零れ、ゆっくりと沁み込んでいった。
◇ ◆ ◇
老人が惜しまれながらも海の家を閉めてから約一年。世間は例年と同じように盆休みと酷暑に加えて甲子園の話題で持ち切りだ。
噂によると少年は無事に大阪大学に合格したらしい。こんな田舎町から国内最高峰の難関大学の合格者が出たということで近隣では相当な話題になった。きっと今も勉強に勤しんでいるのだろう。一方の老人はと言うと、海の家を閉めたことにより近所の友人と将棋を指したり、散歩をしたりとのんびりとした生活を送っていた。
「庄吉さん、大変です!」
老人が居間に座り麦茶とスイカと共に高校野球を楽しんでいると、細君が声をかけて来た。どうやら近所のおばあさま仲間との井戸端会議で特ダネを仕入れて来たようだ。
「あの海の家がお盆の一週間だけやるそうですよ」
「っ!」
老人は目を見開いた。その瞳に映るのは驚愕だ。あんな店を今更やっても何の利益も無い。誰だか知らないがそいつはよほどの物好きに違いない。
「誰かが建物を買って始めたってことか?」
「そうみたい。ちよさんが言うにはどうやら若い人がやってるとか」
その言葉を聞いた老人の脳裏を一人の少年の姿がよぎった。思い出されるのは十四年間の夏の日々。老後の暇つぶしにと思って始めた海の家での思い出。そして、毎日のように通ってくれた一人の少年。
しかし、老人ようなの年代の者にとって『若い』は範囲が広すぎる。この限界集落では四十代が若者扱いされるのだ。若者だからと言って結論を急ぐのは早計。老人は逸る気持ちを抑え、落ち着いた声で細君に言った。
「出かけてくる」
「ええ。いってらっしゃい」
細君は優しく微笑んだ。
老人はサンダルを履いて家を出る。ひんやりとした屋内から一歩出ただけでむわりとした熱気が全身を覆った。海水浴場までは歩いて十分といった距離。免許は去年返納したし、少し面倒だが歩くしかない。
「これを持っていってください」
歩き出そうとした老人を声が引き留めた。後ろを見れば、細君がタオルと茶をもって駆けてくる。
「暑いんですから、熱中症には気を付けて」
「ありがとう」
改めて老人は力強く一歩を踏み出した。
◇ ◆ ◇
年々客が減っている海水浴場とは言え、盆休みということもありかなりの人で賑わっている。この時期は帰省客も多く、砂浜には多くの親子連れがパラソルを立てている。はしゃぐ声に埋め尽くされた海の上には太陽が燦燦と輝いていた。
「暑いな。こういう日はアレが欲しくなる」
額に滲む汗をタオルで拭いながら老人は呟いた。海水浴場を視界に捉えるが、眼鏡を忘れてしまったため肝心の海の家はまだよく見えない。次第に歩幅が広がっていく。
速足で進む老人の側、二人の子供がすれ違った。
「かき氷美味しいね!」
「うん! あのお店やめちゃったのかと思ってたけどまた始まって良かったね」
二人の子供の手にあるのはどこまでも安っぽいプラスチックのカップに粗く削られた氷。上にかかっているのは原色のシロップ。それは、老人が作っていたかき氷と瓜二つであった。
どうやら海の家が再開したという噂は真実のようだ。ならば、やっているのは誰か。老人の歩みがさらに加速する。
海の家は目と鼻の先。。既に店ははっきりと視認できる距離だ。老人の脚が止まる。一年前と変わらないまま古びた店の前には一組の親子連れが立っている。店内から手が伸び、一つのパックとカップが差し出された。幼い子供はそれを笑顔で受け取る。
「兄ちゃん、ありがとう!」
「はいよ! また来てな!」
威勢のいい若い声が飛んだ。その声は――
老人は吸い寄せられるように歩き出し、ポケットに入れた小銭入れから百円玉を取り出す。トタン屋根の軒には『氷』の一文字が大きく吊るされていた。
老人は店の前に立つ。店内と外を隔てる窓が開き、一人の青年が顔を出した。
「いらっしゃい! おっちゃん、何にする?」
「そうだな、ブルーハワイ一杯!」
海の家のかき氷 まくつ @makutuMK2
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