第38話 実験に挑んでいたら人目のある場所で口づけることになった日
指の腹がじんわりと温かくなる。
しかし痛みはまったく感じられず、ただ僅かになにかを吸い出されるような感覚があった。
指を離すとそこには血判が現れており、それを見たラウが「持って帰りたい……」とぼそりと呟く声が聞こえたが気にしないことにする。
血判はあっという間に溶けるようにして消え、最後にラウが同じように契約を結んで紙の魔法陣が輝きを失う。
代わりに紙面に現れたのは私たちの名前と、ここで見聞きしたことを外に持ち出さない旨が詳しくズラズラと書かれた契約書だった。
「便利ですね、これ……」
「血判は痛いから嫌だと四代前の王が駄々をこねての、その時に儂が作ったんじゃ」
「あっ、師匠の作品でしたか」
私も痛いのは苦手なので助かった。
不意打ちで怪我をするのはまだいいけれど、こうして自分の意思で切ったり刺したりはちょっとゾッとしてしまう。四代前の王様……アス様の高祖父に感謝しよう。
そして、とりあえず――これで準備ができたわけだ。
私は協力者に「宜しくお願いします」と改めて頭を下げてから実験の予定に耳を傾ける。まずは穴ができたのと同じ状況の再現だ。
師匠が腕組みをして見守る中、あの日の森の中と同じ立ち位置でラウと向き合う。
「イルゼ、あの辺りに『アレ』がいることを想定して放つから宜しく頼むよ」
アレとはミレイユさんのことだ。転移する直前に見た毒グモではない。
ラウの発言に記録係が「アレとはなんですか?」と律儀に訊ねていたけれど、ラウは涼しい顔で「大きな虫だよ。名前は知らない」と答えた。
せめて哺乳類にしてあげてほしい。
……ミレイユさんとの件は表沙汰にできないので、今回の実験でもできる限り伏せておこうと事前にラウと話し合ってあった。
その関係でサバイバル授業の現場に耳飾り経由で現れたことも伏せるので、ひとまず兄弟子に個人レッスンを頼み、森の中で虫を標的に訓練していた時にたまたま起こったこととして報告する予定だ。
罪悪感はある。
しかしラウが捕まって私に会えない寂しさから大暴走なんてこともあるかもしれないし、下手をすると自分自身を害しかねないし、そうなると平穏な学園生活も過ごせなくなってしまうので……今回はミレイユさんも納得済みなので良しとしてもらいたい。
ちなみにラウ曰く、魔力の残滓的に転移の件にミレイユさんの存在の有無は関係していないとのことだった。これも伏せた理由のひとつだ。
「よし……いきます!」
私が光の壁を準備し、ラウが黒い雷を放つ。
ラウが高等な技術を使って作り出した黒い雷、そして私が学生ながら光属性の高位魔法を使ったことにフェラルダさんたちが目を瞠ったのが見えた。
黒い雷は目にも留まらぬ速さで突き進み、炸裂音と共に光の壁に激突する。
しかし、それだけだった。
あの時のように世界が灰色に染まって転移しない。
やっぱりそう簡単には再現できないようだ。魔力不足に陥ってふらふらしているとラウが駆け寄り、私に小瓶を手渡した。
「魔力回復補助のポーションだ。飲むといい」
「ありがとうございます、……魔力回復補助のポーションってだいぶ苦かったと思うんですけど、これ凄く甘いですね?」
「ははは、俺の手作りだからさ。イルゼが飲みやすいように改良したんだよ!」
この人の手作り薬を飲んでも良かったんだろうか。
そう思ったものの、すでに手作り弁当は食べているんだから今更というものだ。
「師匠といいあなたといい、新しく作り出すのが美味いですね……」
「イルゼもすぐそうなるよ」
同じラインに立てる気がしない。
しかし――昔なら光の壁を使った瞬間に昏倒していたので、まだ立っていられた辺り私も成長しているみたいだ。
こういう小さな成長を見逃さないように心に刻んでいこう。
「ふむ、しかしやはり失敗か。イルゼ、ラウ、今度はお互いに籠める魔力を同量にしてみるんじゃ。儂の推測が正しければ多少は結果に変化がある」
「推測?」
そういえば師匠にはなにか思い当る節があったようだった。
そのために古い文献を漁ると言っていたはず。あれから少し時間が経ったから、なにか推察できるくらいわかったのかもしれない。
なら師匠の言う通りにしよう。
しかし魔力を同量にするなんてどうやればいいんだろう。
迷っているとラウが「イルゼはさっきと同じ感じで放ってくれ」と背中をぽんぽんと叩いた。
「あとは俺が合わせるよ」
「……こういう時は実力差を思い知ります」
「兄弟子らしいだろう?」
嬉しげにそう言いながらラウは定位置につく。
悔しいがその通りだ。今はその気遣いに甘えることにし、私はさっきと同じ魔力量を使って光の壁を展開した。そこへラウの黒い雷が直撃し――やっぱりなにも起こらない。
そこで師匠がモノクルの向こうで目を眇めた。
「なーんか余計なモンが邪魔しとらんか?」
「余計なものですか?」
「付与魔法などじゃな、精微な実験をする際は切っておくもんじゃが」
師匠がそう言った瞬間、私とラウは同時に「あ」と声を漏らす。
――影檻だ。
あれはずっと私の中に入ったままで、都度都度発動する。つまり私の中に闇属性の魔力が混ざっていることになる。
普段は気にならないけれど、細かな調整が必要になる実験だと悪影響が出るのかもしれない。師匠は私たちの様子を見て腕を組む。
「心当たりがあるなら切っておけ。……転移現象じゃが、過去に相反するが結びつきの強い属性――つまり光と闇を同等且つ高威力でぶつけ合った時に起こったことがあるらしい。そこにノイズが入ってはならん」
「師匠、俺の魔法は雷もサブ属性に入ってるんですが」
「サブは魔力の質自体はメインに倣うじゃろ、お前も講師ならアズルバーンの書いた論文くらい読め」
師匠に叱られたラウは不服げにしていたものの反論する気はないようだった。
代わりにこちらを向くと一転して笑みを浮かべる。
「イルゼ、あれは切れない」
「え!? じゃあ実験は……」
「でも心配しないでくれ。師匠の話を聞いてて試してみたいことができた。これは俺としても覚悟がいることだが、イルゼとの未来がこの国の存続にかかっているなら乗り越えてみせよう」
なにやら真剣な顔だ。
一体なにをする気なんだろう、と少し心配になる。ラウは平気で自己犠牲に走るので、そういう意味でも心配だ。
するとラウは少し離れた位置にいる師匠に大声で確認した。
「師匠! それはつまり光と闇の魔力が同量でぶつかればいいってことですね?」
「うむ!」
「では――実験がダメならあとで報告するつもりでしたが『帰ってきた時』と同じ方法を試します。その方法なら俺の方で細かな調整が可能なので!」
帰ってきた時と同じ方法。
無警戒でラウの言葉を聞いていた私はその言葉にハッとした。
そうだ。帰る時に口づけて戻れたんだから、行く時だってその方法で転移のための穴が開く可能性がある。
その可能性について考えなかったわけじゃないけれど、思考の外に追いやっていたのは……まあ、それなりに衝撃的だったからだ。
あまりしっかりとは考えたくない程度には。私はショックなことは時間をかけてやり過ごすタイプなので。
しかしそれをここでやってみせるという。
あの時は合理的に考えたけれど、私もさすがに人目のあるところでアレを試してなにも感じないわけじゃない。しかも師匠もいる。義父だ。お父さん。
そんな人の前で兄弟子と口づけるというハードルの高さをラウにはもう少し考えてほしい。
(……いや……多分考えてこれなのか)
ラウが師匠に言い渋っていた時の顔を思い出す。
つまりラウも師匠には言いづらいのだ。怒られるどころじゃないから。
それでも私――もとい、国のために試そうとしている。ここで私が恥ずかしがって実験を止めるのは罪深い気がした。
「さあイルゼ、君が嫌でもここはやってみせないと――」
「わかりました、やりましょう」
「……なんか気迫が凄いね?」
もっと照れて恥ずかしがってほしかったな、などとラウは言ったけれど、私はこの国の明暗をかけて口づけるわけだ。気迫もあるし覚悟の決まった顔にもなる。
ラウは拍子抜けした顔をしていたものの、私の両肩を掴むと顔を寄せた。
この瞬間、私はもうひとつうっかり忘れていたことを思い出す。
あの口づけは、その、だいぶ『気合いの入ったもの』だったということを。
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