世界終結前夜交渉録

武功薄希

世界終結前夜交渉録

 鉛色の空が首都ネオ・バビロンを覆い尽くしていた。巨大な「天空の館」と呼ばれる政府庁舎の最上階。そこにある連邦書記長執務室で、アレクサンダー・ラズロフ書記長は冷酷な眼差しで向かいの男を見つめていた。

 敷地内には核ミサイルのスイッチがあり、それを押せば全世界に向けて核ミサイルが放たれる。人類の命運は、この冷酷な男の手中にあるのだ。

「君の言葉など、カス同然だ」

 ラズロフの声は氷のように冷たかった。

 世界連合特使のマイケル・ホフマンは額の汗を拭った。彼の背後では、巨大な窓越しに見える街並みが、不吉な予感に包まれているようだった。

 「書記長閣下」ホフマンは懸命に冷静さを保とうとした。「どうか再考を。世界の終わりは避けられないかもしれません。しかし、それを人為的に早めるべきではありません」

 「なぜだ?」ラズロフは不気味に微笑んだ。「どのみち終わるのなら、私の手で幕を引こうではないか」

 ホフマンは言葉につまった。目の前の男の狂気と、避けられない世界の終焉。この impossible な交渉を、彼はどう進めればいいのだろうか。

「人類には、最後まで生きる権利があります」ホフマンは震える声で主張した。

 ラズロフは冷笑した。「権利? そんなものは幻想だ」

 彼は立ち上がり、壁一面のディスプレイに近づいた。画面には世界地図が映し出されている。

 「見たまえ、この腐敗した世界を」ラズロフは指で画面をスクロールした。各地の悲惨な状況が次々と映し出される。「貧困、戦争、差別、搾取...人類に救いなどない」

 「しかし、最後の瞬間まで希望を持ち続ける価値は...」

 「愚かな」ラズロフは言葉を遮った。「平等な世界など、最後の瞬間まで来やしない」

 ホフマンは黙った。確かに、世界は不平等だった。超富裕層と極貧層、遺伝子操作された者とそうでない者...様々な格差が横たわっていた。

「だからこそだ」ラズロフは静かに、しかし決然と言った。「私の手で終わらせる。最後の瞬間、すべてを平等にしてやる」

「それは平等ではありません」ホフマンは必死に反論した。「それは虚無です」

「虚無こそが、最高の平等だ」ラズロフの目が狂気に満ちていた。

 ホフマンは絶望感に襲われた。しかし、ふと彼の目に、書記長のデスクに置かれた写真立てが映った。

「あれは...お孫さんですか?」

 ラズロフの表情が一瞬和らいだ。

「ああ、エヴァだ。5歳になる」

「素敵なお孫さんですね」ホフマンは慎重に言葉を選んだ。「彼女には、最後まで幸せに生きる権利があるのではないでしょうか」

 ラズロフの瞳に、一瞬迷いが宿った。しかし、すぐに冷たさを取り戻した。

「彼女こそ、この腐敗した世界で苦しむ必要はない」

「しかし、それは彼女の選択ではありません」ホフマンは食い下がった。

「黙れ!」ラズロフは突然怒鳴った。「お前に何がわかる。この世界がどれほど残酷か」

 彼は窓に近づいた。遠くに見える下層区画が、霞んで見える。

「私は最下層区画で生まれた。遺伝子操作を受けていない『自然児』として差別され、才能があっても認められなかった。這い上がってここまで来たが、世界は少しも変わっていない」

 ホフマンは黙って聞いていた。

 「だが」ラズロフは振り返った。「核のボタンを押せば、最後の瞬間、すべてが平等になる。遺伝子の優劣も、階級も、才能も、すべてが塵となる」

 「それは逃避です」ホフマンは静かに、しかし力強く言った。「現実から目を背けているだけです」


 ラズロフの目が怒りに燃えた。「逃避だと? これこそが、最高の解決策だ」

 「では、なぜまだボタンを押していないのですか?」ホフマンは賭けに出た。

 ラズロフは言葉に詰まった。

 「あなたの中にも、まだ迷いがあるはずです」ホフマンは続けた。「人類の可能性を、完全には否定できていない」

 「愚かな...」ラズロフは呟いたが、その声には力がなかった。

 重苦しい沈黙が流れた。

 ラズロフはゆっくりとデスクに戻り、孫娘の写真を手に取った。

 「エヴァ...」彼は呟いた。「お前には、苦しんでほしくないな」

 「彼女に選択させてください」ホフマンは静かに言った。「すべての人に、最後まで生きるか否かを選ぶ権利を」

 ラズロフは長い間、写真を見つめていた。その表情には、怒り、悲しみ、そして深い疲労が混ざっていた。

 「私には...その権利はないのだな」彼はようやく口を開いた。

 「はい」ホフマンは頷いた。「誰にも、他人の人生を勝手に終わらせる権利はありません」

 ラズロフは深いため息をついた。

「わかった。核攻撃は...行わない」

 ホフマンは安堵の吐息を漏らした。しかし、ラズロフの次の言葉に、再び緊張が走った。

 「だが、条件がある」

 「どのような...?」

 「私を今すぐ解放し、エヴァの未来を保証しろ」ラズロフの目は鋭かった。「そうでなければ、今すぐにでもボタンを押す」

 ホフマンは困惑した。「それは...私の権限を超えています」

 「では、君の上司を呼べ」ラズロフは冷たく言い放った。「30分以内に返事がなければ、すべてが終わる」

 ホフマンは慌ててパソコンを取り出した。世界連合本部とリモートでの緊急会議が始まる。

 30分間の沈黙は、永遠のように感じられた。

 ラズロフは窓際に立ち、灰色の空を見上げていた。その姿は、威厳と疲労が入り混じっていた。

 ホフマンは、汗だくになりながら交渉を続けた。彼の頭の中では、世界の存続と一人の男の運命が天秤にかけられていた。

 残り5分。

「決定が出ました」彼は緊張した面持ちでラズロフに向き直った。「あなたの条件を...受け入れます」

 ラズロフはゆっくりと振り返った。その表情は、複雑な感情が入り混じっていた。

 「そうか...」彼は静かに言った。「では、約束どおり、核攻撃は行わない」

 ホフマンは深く息を吐いた。世界は、少なくとも今日は終わらない。

 「ありがとうございます、書記長閣下」

 ラズロフは冷ややかな目で彼を見た。

「感謝するな。私はただ、最後の賭けをしただけだ」

 彼はデスクに戻り、ゆっくりと腰を下ろした。

「失せろ。世界が終わるまで、二度と会うことはないだろう」

 ホフマンは深々と頭を下げ、部屋を出た。扉が閉まる直前、ラズロフの最後の言葉が聞こえた。

 「エヴァ...お前の世界は、どんな色をしているのだろうか」

 ラズロフはエヴァを抱きしめたかった。

 扉が完全に閉まると同時に、窓の外で酸性雨が降り始めた。その雨粒は、終わりの近づく世界を洗い流すかのようだった。

 ホフマンは廊下に立ち、深く息を吐いた。彼は世界の終末を止めることはできない。ただその時を遅らせただけだ。しかし、それでも意味があると信じたかった。

 彼は歩き出した。そして願った。人類最後の日々を、少しでも平和に、少しでも希望に満ちたものになるように。

 


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世界終結前夜交渉録 武功薄希 @machibura

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