二度目の放課後

猫魔怠

二度目の放課後

 春川千夏。


 両親同士が仲が良いこともあって、幼い頃からよく一緒に遊んでいた少女。

 小学校、中学校と同じ場所に通い、高校も同じ場所を受験して見事に二人で合格した幼馴染。


 高校に入学してから間もなく長年の思いを告げて、晴れて恋人同士となった彼女。

 そして、つい数日前にくだらない喧嘩をしてそのままになっていた恋人。



 彼女とは、もう仲直りをすることも、言葉を交わすことも、笑い合うこともできない。


 

 線香と花の香りが複雑に混ざり合った独特な匂いが鼻の奥まで入りこみ、これが現実であると、夢ではないと無情に告げてくる。

 静かな空間に響く木魚の音、その合間に鼓膜を震わせる悲しみの嗚咽。



 棺桶の中で静かに横たわる千夏の姿が、心の奥底まで悲しみと、悔しさと、やるせなさと、何より自分自身への怒りを染み込ませてくる。



 もう、限界だった。

 心の中に満ちる感情は一つに定まらない。考えがまとまらない。目の前の光景を認めたくない。

 必死に目を逸らし続けた。



 でも、彼女の姿を見てしまったら、無理だった。



 視界が滲む。

 熱い液体が頬を伝って床へと落ちる。



 声は、出なかった。



==========



 交通事故だったらしい。


 喧嘩をして彼女が教室を去ったすぐ後。

 交差点で信号待ちをしているときに自動車が突っ込んできて、彼女はその衝撃で地面に強く頭を打ちつけて出血。

 すぐに救急車が駆けつけたけど、間に合わなかった。



 その事故で怪我をした人はいても、亡くなったのは彼女だけだったらしい。



 それを聞いた時、深い後悔が、怒りが、心を満たしていたのを覚えている。


 小さな木の植えられた中庭が見える場所で、椅子に腰掛ける。

 じんわりとここ数日の疲労が体に滲んできるのと同時、自分の顔が引き攣るような感覚を覚えた。たぶん、さっきの涙が乾いたせいだろう。

 わざわざ顔を洗いに行く気にもなれず、椅子に背中を預ける。


「……千夏」


 もう、彼女の顔を、笑顔を見ることはできない。

 もちろん、写真なんかでは見ることができる。でも、実際にこの目で見ることはできない。

 あと一時間もすれば、骨だけになった彼女と対面することになるんだろう。

 骨だけになったなら、彼女の面影が薄くなったりするのだろうか。悲しみを、涙を堪えることはできるのだろうか。


「……無理、だろうな……」


 骨だけになっても、千夏は千夏だ。

 幼馴染で、恋人で、何より大切な人。

 骨だけになってもその面影を見てしまうだろうし、悲しみを堪えるなんてそんなことはできない。涙が溢れてしまう。


 どれくらいそうしていたか、後ろから肩を軽く叩かれる。


「大丈夫……?」


 彼女の母親が立っていた。

 優しい人だ。

 誰よりも悲しい思いを抱えているはずの人なのにこちらを労ってくれる。


「……はい」


 何が、とは聞かない。


「……そう。まだ、もう少し、時間がかかるから。ゆっくりしていて」

「……はい」

「…………千夏がね、あなたのことを、一番大切な人だ、って。よく言ってたわ。親の前なのに、恥ずかしい子ね」


 また、涙が溢れそうになる。


 なんで、どうして、なぜ。

 あの時、千夏を追いかけなかったのだろう。

 追いかけていたら、仲直りができていたかもしれない、千夏は事故に遭わなかったかもしれない、死ななかったかもしれない、またあの笑顔を見ることができたかもしれない。


 悔しさで、後悔で、いっぱいだった。

 ぎゅっと閉じた瞼の隙間から涙が流れていく。

 そのまま、意識が薄れていった。



==========



「どうして……」


 目を開くと、そこは教室だった。


 夕日の差し込む教室の中は他に誰もいなくて、一人だけだった。

 直前までの記憶を思い返して、繋がりが全くないことに強い困惑を覚える。



 ――その前に、頭の中に浮かんだ細い細い糸のような希望に縋った。



 ポケットから取り出したスマホの画面を見る。

 日付は、あの日のものだった。



 彼女が、千夏が交通事故に遭った日のものだった。



 考えるより先に、体が動いていた。


 椅子を蹴飛ばして立ち上がり、走り出す。

 廊下を走り、階段を駆け降りて、靴紐が解けたままの靴を履いて学校の外に駆け出す。


 まだ間に合う。

 まだ、彼女は生きている。

 千夏を救える。


 具体的な位置なんて知らない。

 今、彼女がどこを歩いているのかなんてわからない。

 いつも通りの道を歩いているのかも、違う道を歩いているのかも、すでに交差点に到着しているのかも。


 わからない。

 でも、走る。

 ただひたすらに、がむしゃらに、自分の感覚が訴える方向へと足を進める。


 荒くなる息が鬱陶しい、苦しくなる胸がうざい、重くなる体に怒りが湧く、額を流れる汗が邪魔だ。

 それでも、足は止めない。

 前に、前に、進め続ける。



 そして、見えてくる。



 交差点が、そこに立つ千夏の姿が。



 今まさに、千夏の方向へとハンドルを切った自動車が。



 全身の血が冷え切ったように冷たくなる。

 そして、熱く、マグマのように燃えたぎる。


「――千夏っ!!」


 体に残った力を全部、足に込めた。

 あとさきなんて考えず、ただ千夏のもとにたどり着くためだけに全力を込めた。






 視界がぐちゃぐちゃになった。

 自分がどの方向を見ているのかすらわからない。

 背中に感じる硬い感触が地面に倒れていることを伝えてくる。

 どこかを強く打ったのか、耳鳴りがして周りの音が聞こえない。



 でも、腕の中の温かな感触だけは、確かに感じる。



「……あぁ、千夏、千夏……」

「――」


 腕の中の温かさを離さないように抱きしめ、ひたすらに彼女の名前を呼ぶ。

 彼女は何かを伝えようと口を動かしているが、耳鳴りのせいで聞こえない。


「千夏、千夏、千夏……。無事で、よかった……ッ」


 ゆっくりと、周囲の喧騒が戻ってくる。

 背中に、腕が回された。


「ありがとう。……大好きだよ」

 





==========



「俺も、大好きだよ」

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