開かずの扉

開かずの扉(1)

 中学二年の冬から、下田東弥しもだとうやは不登校になった。それ以来卒業式の日まで、とうとうあの校門をくぐることはなかった。

 盟静高校めいじょうこうこうは多少学力がなくとも比較的簡単に入れてしまう程度の学校だった。校舎は年季が入っており、木造建築のつくりはやたらと雰囲気があって少し不気味だ。木々に囲まれた薄暗い校門を抜けると、噴水や銅像なんかがあって、少し歩くと昇降口になっていた。

「入学初日から遅刻ですか」

 昇降口に立っていた女性教師に呆れた様子で声をかけられて、やはり来なければ良かったと思った。いっそ休んでしまえばうやむやになったかもしれないのに。

 朝と夜の感覚がぐちゃぐちゃで、戻すのにだいぶ苦労した。何せ決められた時間に起きて支度をして、どこかへ出かけるということを一年もやっていなかったのだから。

 時間だけは有り余っていたから勉強だけならそれなりにした。それでも、それなりに、だ。

 一年ぶりに目覚ましをかけた下田は、見事に二度寝をかました。再び覚醒した時には既に入学式が始まる時間を過ぎていて、それでもさすがに初日からサボるのはいかがなものかと思って重い腰を上げてここまで来た。到着した時には既に式は終わっていて、結局下田が入学式に参加することはなかった。

「高校は中学までとは違うの。あなたが中学時代どうだったか知らないけれど、決まりくらい守りなさい。もう小さな子供じゃないのよ」

 教師は腕を組んで説教を続ける。履きなれない靴を脱いで、持ってきた上履きに履き替えながら、下田はそれを軽く聞き流していた。中学までとは、確かに違う。何もかもが違うのだ。

 決まりを守るどころか登校すらしていなかったが、目の前の教師はそれを知らない。 少しは同情してくれだなんて言えるはずもない。

 自業自得だったのだから。今日だって、中学の時だって。

「というかあなた、その髪型は何」

「……イメチェンです」

 教師は下田の髪型を見て改めて呆れ顔をした。基本は黒髪だが、後ろの方に金のメッシュを入れている。右の前髪をピンで止め上げて、反対側の前髪は目にかかるくらいまで伸ばしていた。

「あのね、高校は遊ぶ場所じゃないのよ。勉強する場所にふさわしい格好をしなさい。制服もしっかり着るの」

「でも、この学校校則緩いですよね」

「だからって初日からそんな……」

「あの、これ以上遅くなるのって先生的にはいいんですか」

 じろりと下から教師を覗き込むと、呆気にとられたようで言葉を詰まらせる。わざわざ長い説教を聞きにきたわけではない。本当であればいつものように、昼過ぎまでベッドで寝ていたはずなのだ。

 生意気な、と顔に書いてあるような表情で固まった教師を置いて、昇降口から続く廊下を歩き出す。慣れない木の匂いと音の鳴る床板に、足元がふわふわと浮く感覚がする。今すぐにでも帰って、自分の匂いだけがするあの布団にくるまりたいと思った。

「待ちなさい、あなた! 名前は? クラスはわかるの?」

引きとめられてそういえば、と足を止めた。

「下田東弥。クラスは、わからないです」


 一年B組と書かれたプレートを見上げて、下田は立ち止まる。教師は下田をクラスまで送り届けると、職員室へと戻っていった。扉は自分で開けなければならない。教室内にはこのクラスの担任だろうか、男性の声が響いている。扉にある小さな窓から中を覗き見ると、生徒は皆一様に教卓側に目をやり、私語もせず黙って説明を聞いていた。

 こんなに静かな状況で扉を開けるのはなかなかハードルが高い。せめて後ろ側の扉に回った方がいいのは確かだろう。しばらく立ち尽くして考えていると、突然扉が開いた。

 目の前に立っていたのは担任ではない。担任は少し後ろで不思議そうな顔をしているだけだ。

 真っ白な髪に真っ白な肌。中性的で可愛らしい顔立ちの、眼鏡をかけた男子生徒だった。自分とは違い学ランをきっちりと着こなして、それでもまだ長い袖はその手をぎりぎりまで隠している。

「どうしたの? 怖くないから入っておいでよ」

 彼はふわりと笑ってそう言った。眼鏡が少し揺れて反射する。レンズがオレンジ色に光った。

「良かった。体調不良でお休みしてたわけじゃなかったんだね、下田くん」

 当然のように名前を呼ばれて、何故、と思考が止まる。目の前のこれは誰だ。今まで会ったことがあるだろうか? 雰囲気からして初めて見る気がする。中学にいた人間だったらすぐにわかるはずだ。例え髪を染めて大幅なイメージチェンジをしていたとしても。

 ああ、そうだ。自分だって容姿をすっかり変えたばかりじゃないか、と思い出す。この髪型にしてから外を歩くのは、美容室へ行った時を除けば今日が初めてのはずだ。誰と会っているわけもなく、それでも相手が知り合いだと認識したのであれば、イメージチェンジは見事失敗したことになる。

「本当によかった。ですよね、先生」

「あ……ああ、健康で何よりだよ。じゃあ、席について」

 彼が担任教師に笑いかけると、担任は拍子抜けしたようで、何のお咎めもないまま席へと案内された。

 席は窓際最後尾の、一つだけ空いた机。入り口から最も遠い場所にある。そこへ歩いて行くまでの間、教室内の全生徒の視線が刺さって痛い。それでも全生徒の前で初日から説教されるよりはましだっただろうか。

 担任は下田が席に着いたのをみとめると話を再開した。

「えー、下田が途中から来たので改めて説明しますが、明日から一週間はオリエンテーション期間です。この期間を通して、学校のことやクラスメイトのこと、先輩たちのことなどを知って、慣れていってください。本格的な授業は来週から始まります。高校生活を充実したものにするためにも、ぜひこの期間を活用してください」

 担任は教室全体を見回しながら、明日からの予定を連ねていく。係決めや時間割の説明、校舎案内。交流を深めるため、班に別れて校外学習も行うらしい。様々な交流を経てから本格的な授業へと移っていく。正直なところ、事務的なことはともかく人間関係を構築するためのイベントは気が重い。いっそ来週からの登校でもいいのではないかと考え始めていた。

 一通り説明し終えたところで今日のところは解散ということになった。先ほどまで静かだった教室が、一瞬にして騒がしくなる。長い間集団というものから距離を置いていただけに、とてもじゃないが居心地は良いとは言えなかった。逃げるように教室を後にする。結局入学式にも参加せず、文面で事足りるような説明を受けただけの今日。果たして今日来たことに意味はあったのだろうかと、今更考えても意味のないことが脳を占領した。

「——下田くん!」

 ふいに後ろから声がして、思わず振り返る。そこには先ほどの白髪の男子生徒が立っていた。

「よかった、まだいた!」

 息を切らせながら下田の方へ歩いてくると、昇降口横の階段の下を指して、

「あそこで少し話してもいいかな」

「……ああ」

 帰宅する生徒たちと次々にすれ違う。誰もこちらを気にしている様子はない。

「実は、下田くんが来る前に自己紹介が終わっちゃって。だから、これ」

 手に持っていた何かを差し出される。一見するとただのノートのようだ。まだ新しい。

「明日からのオリエンテーション、みんなのことわからないままだとついていくのが大変かもしれないと思って、名前と自己紹介の内容をまとめておいたんだ。みんな一言ずつだったから詳しくはわからないんだけど、これだけでも話のきっかけはできるんじゃないかなって。あ、おれは月守羽留つきもりはる! よろしくね」

 ノートを開くと、大きく太い文字で名前が書かれており、上には丁寧にふりがなも振ってある。そして名前より小さめの文字で、何が好きだとか、どういう人だとかが一言付け加えられていた。その中には下田の名前もあった。

「俺の名前……」

「先生に聞いたんだ。あ、よかったらそこの下、埋めてよ」

 名前が書かれているだけで、特に情報のない下田の部分を指差しながら月守が言う。

「これね、席順になってるから、教室で周りを見回して照らし合わせてみるといいかもよ。黒板がこっち側で、こっちがロッカー。あと、おれ学級委員長になったからわからないことがあればなんでも聞いて! 他の委員会とかは明日決めるらしいんだけど……」

「……よく喋るな、お前」

 ノートをぱたりと閉じて、前を見る。

「へ、あ……ご、ごめん! こんな一気に喋ってもわからないよね、へへ……」

 月守と名乗った彼は眉を下げて困ったように笑った。眼鏡の奥の瞳は透き通るような色をしていて、淡く光っている。何故だかその瞳に見られると罪悪感に苛まれて、目を逸らした。

「俺が言うのもなんだが、初日から遅刻するようなやつにここまで構う意味がわからない」

 すると月守は意外そうに首を傾げる。

「遅刻するのはしょうがないよ。おれも朝苦手だし。それよりも、たった一度の遅刻でこれからの学校生活でひとりぼっちになったりしたら寂しいでしょ? それにおれ、下田くんとも仲良くなりたいんだ」

 余計なお世話だと口から出そうになるのをなんとか抑えて、もらったノートを月守に突き返した。

「生憎だが俺はオリエンテーションに参加する気も、お前と仲良くする気もない。気を遣わせて悪かったな。これはお前が今後に役立ててくれ」

 そう言って踵を返す。騒がしかった昇降口も落ち着いたようだ。

「ま、待ってよ! 困る!」

「……なんで」

「だって明日は決めることがいっぱいあるし、説明とかも聞かないとわからなくなっちゃうよ」

「俺抜きで勝手にやればいいさ。初めのうちなんて調べればわかるようなことくらいしか説明されないだろうしな」

「そんなことは……」

「だいたい別にお前は困らないだろ」

 言葉に詰まる月守を置いて歩き出そうとしたところで、再び言葉が続く。

「きっと楽しいよ! みんなと外で遊んだり、共通の趣味とか見つけて、お話したり!」

 高校生活に授業以外の何かを求めている者は少なくない。それは部活動であったり、友人関係であったり、あるいは恋愛関係であったり。しかし下田はその全てに興味がなかった。さらに言うなら授業にだって別に興味はなかったが、せめて高校くらい出なければ、という思いだけでこの学校を受験した。

「……俺は卒業できればそれでいい」

 両親にこれ以上心配をかけるのも忍びないし、高校を出ていれば将来何らかの役には立つだろうと思っていた。将来の夢もやりたいことも何一つないけれど、そういう流れだったのだ。仕方ない。多分大学にも行くのだろう。そのために今は最低限の勉強をする。理由はそれだけで十分だった。

 月守の顔を見ると、今にも泣きそうな、あるいは悔しそうな表情でこちらを見つめていた。

「何でお前がそんなに俺のことを気にかけるのかは知らないが、そんなに深刻そうな顔をしなくてもいいだろ。関係のない話なんだから」

「関係あるよ。君がこのまま孤立して、学校へ来るのが辛くなったら、おれが悲しい。せっかく今日来ることができたんだから、明日も頑張ってみようよ」

 深刻そうに顔を歪め、自分こそが辛いとでも言うように声を絞り出して言う。

「どこまでもお人好しだな。別に一人は嫌いじゃないし、辛いから来ないわけじゃないよ。面倒だからサボってるだけだ。だいたいたかがオリエンテーションで大げさだろ」

 それでも月守は心配そうにこちらを見つめる。可哀想とでも思われているのだろうか。それはそれで居心地が悪い。

「面倒ならサボるし、必要なら来る。オリエンテーションなんて別に参加しなくても支障がないと思った。だから俺は明日は行かない。それだけ。わかったか?」

 すると突然こちらに突進するかのように早歩きで歩いてくる月守に、思わず体が仰け反る。胸に衝撃があって、押し付けられていたのは先ほど返したノートだった。

「君が来ないなら、明日の分もノートを取るよ。それから、君のことをクラスで話す」

「……は?」

 出し抜けにそんなことを言われて間抜けな声が漏れた。

「遅刻をしたのは止むを得ない事情があって、本当はとても優しくて真面目な生徒なんだよって言いふらす。なんだか君は見た目で怖がられているみたいだから」

「おい、なんだそれ」

「あと帰り道に捨て猫を拾って可愛がってたって噂も流す」

「嘘じゃねえか」

 月守は色素の薄い瞳をゆらゆら揺らして、こちらを睨んでいた。迫力には欠けるはずなのに、なぜか気圧される。

「わかった、わかったよ。来ればいいんだろ」

 その言葉を聞いた途端にぱあっと表情を明るくして、月守は笑った。

「やった! 明日もたくさん話そうね! 楽しみにしてるから」

 まるで拗ねたこどもにお菓子を与えて機嫌を直すみたいな、そんなやりとりに力が抜ける。どうしてこうも自分に絡んで来るのか理解し難いが、変な噂を流されては困る。

 斯くして下田はオリエンテーションどころか、学校自体、そう簡単にサボることができなくなった。

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