第5話 ぼくは幸せな人生

「……ぷっ」

「ちょっと違いますかね?」

「知らね。お前次第だろ」

「ははっ」


 知らず知らず、神経衰弱していたらしい。ふたりで体をくの字に折り曲げ、気が触れたように笑った。少しも加減しない綾野さんにばしばしと背中を叩かれ、むせ返る。息が出来ずに、ひざをつく。綾野さんも崩れおちてしまった。

 笑いのむしが治まると、綾野さんのとなりに大の字に寝転んだ。目には涙がにじむし、まだ息が上がっている。こんなにくだらないことで笑ったのはいつぶりだろう。コンビニの冷たい床が沸いた体温を吸ってくれる。やっぱりぼくたちは、少し疲れていたみたいだ。片腹押さえながら横を向くと、綾野さんもぼくを見ていた。その時、きっと同じことを考えていたと思う。


「なあ、もう諦めようか」


 あの大笑いが嘘みたいに真剣な顔だった。ぼくもつられて真面目な声を出してしまう。


「月見バーガーを食べるまでは死ねません」

「じゃあ行くか」


 月見マフィンを放り出し、車に乗り込んだ。接近中の月は、いつの間にか上空をおおい隠している。


「どうする。県外に出てみるか」

「いいですね」


 気楽さを取り戻した綾野さんは煙草に火を付け、やわらかくアクセルを踏んだ。


「日付が変わると同時にドカンかな」

「だいぶ近いですよね」

「勝負だなあ」

「綾野さんって」


 返事のない横顔に、ずっと思っていた言葉を投げかけた。


「綾野さんて、月がぶつかるのを楽しみにしてますよね」


 おめんのように変わらない表情には名前がつけられない。とがめているつもりも、共感しているつもりもなかった。綾野さんは喋らない。色のない信号機をいくつも素通りしながら、ひたすら車を走らせた。ぼくももう、何も言わなかった。



 ○


 

 ――赤目のウサギに背負われてクレーターをとびこえる。平皿の寝台と香草のかけぶとん。月を食べようとしたぼくが、月に食べられようとしている――



 昔から夢を見るとこめかみが痛む。最近は引力の影響もあったのかもしれない。ぼやける視界いっぱいに広がる月のふちが、血が染みたばんそうこうのように赤くにじんでいる。夕焼けが向こう側にあるらしい。フロントガラスの前は海。世界の終わりが始まっていた。運転席には誰もいない。ふらつく頭をかかえ車を降りると、砂浜に寝そべる綾野さんを見つけた。すぐそこまで迫る月を、無感情に眺めていた。


「悪かったな」


 小さな声は波音にかき消され、ぼくには届かない。綾野さんが手を伸ばし、ぼくのすそを引っ張った。もらったスーツを気にしながら座り込む。同じ距離から、同じ空を見た。


 焦る気持ちがわかなくもない。結局ぼくは落ちこぼれたまま何一つ成し遂げらず、取り返しのつかないところまで来てしまったのだ。けれど、なぜだろう。すがすがしいほど絶望しない。たとえ過去に戻れたとしても、間違え続けた分岐点に立って必ず同じ道を行く。自慢できることはひとつもないけれど、明けわたせる過去もひとつだってないのだ。


 指のすき間からすり抜けたものと、手の中に残ったものを見比べた。欲しかったおもちゃ、焦がれた才能、諦めた夢、好かれたかったあの人、叶わなかった最後の晩さん。笑えるくらい結果は散々だ。ならばその過程には何があっただろう。月が地球にぶつかる前に、ぼくは全てを思い出した。傷みが薄まり悲しみが消えるように、恩恵や幸せだって時間が経てば忘れてしまう。たくさんの諦めとひきかえに、持ちきれないほどの喜びを抱えていた。劣化した記憶は所々かすんでしまって見えないけれど、手放しがたいぼくの思い出たちだ。ああ、楽しかった。胸を張れるほど偉くはないけれど、後悔には値しない。


「生まれ変わったらまた一緒にドライブしてください」

「お前、そこはまず月見バーガーだろ」

「そうですね」


 太陽が沈んだらしい。タールのように暗くなった月が、音もなく落ちてくる。結局、月見バーガーは食べ損ねてしまった。最後まで自分らしいな、なんて思いながら、目を閉じて静かに笑った。色々とつかみ損ねたけれど、良い人生だった。



 最後の一秒。

 息が震える音がして、はっとした。


 

 綾野さんが声を出さずに泣いている。おどろいた。涙の理由がわからない。欲しいもの全てを手にしてきたはずなのに。

 ぼくは






 ‐END‐


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月が地球にぶつかる前に 水野いつき @projectamy

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