月が地球にぶつかる前に
水野いつき
第1話 月、接近中
早い話が、アルマゲドンだ。二日後の金曜に、月が地球にぶつかるらしい。今朝のニュースでそれを聞いたとき、ぼくはトーストをコーヒーで流し込みながら「由々しいな」と思った。期間限定の月見バーガーの発売日が、まさに二日後の金曜だったからだ。
今頃ハンバーガー業界は大騒ぎだろうな、なんて考えながらネクタイを締め、パソコンの入ったバックパックを背負った。初任給で買ったマウンテンバイクにまたがると、いつもの道を走った。山田さんちの前を通ると犬が吠える。まったく、いつもの朝だった。
大騒ぎなのはハンバーガー業界どころではないと気づいたのは、会社に着いてからだった。まず、門の脇に立つ守衛がいない。ビルの自動ドアも開かない。スマホで日時を確認した。水曜、午前七時と半。首をかしげていると、同期の男から着信が入った。
「おはよう」
「お前さ、もしかして出勤してる?」
「うん。でも誰もいない。ビルにも入れない」
「やっぱりな。こんなときに仕事する奴なんか、お前くらいだよな」
「今日って新しい祝日か何か?」
「あほ。ニュース見てないのかよ。みんな今頃、水だのトイレットペーパーだの大慌てで買い込んでるんだよ」
「月のかあ」
「無断欠勤が俺だけだったら気まずいと思って電話したんだ。でもま、予想通りだった。お前もぐずぐずしてないで、早く支度しろよな」
まだ聞きたいことがあったのに、電話を一方的に切られてしまった。今朝のアナウンサーが言うことが本当なら、わずか二日後に世界が終わるのだ。一体何の支度をすればいいのか、ぼくには見当もつかなかった。
「月見バーガーはどうなるんだろう」
ときどき昼休憩に利用するハンバーガーショップに自転車を走らせた。車を何台も追い抜いてしまい、何事かと思えばガソリンスタンドに大行列ができていた。出歩いてる人は心なしか少なく、皆一様に下を向き足早に去って行った。
二十四時間営業のハンバーガーショップはいつも通り開いていた。ただ、レジに立つ店員はおらず、奧の厨房もガランとしている。カウンター席にはコーヒーをすする男性客がいた。インテリやくざのような見た目にひるんだけれど、ぼくはその男に近づき、子猫にささやきかけるように声をかけた。人見知りをしている場合ではないのだ。
「あのう」
「コーヒーなら飲み放題だぜ。店員を呼んだけど誰も出てこないから、厨房に入って勝手に淹れちゃった。アルバイト気分だったよ」
そう言って男はせきをするように笑った。若い頃、やんちゃなタイプだったのかもしれない。細身のスーツと近寄りがたい空気をまとっているけれど、ふちのないめがねの奧にはなつっこい雰囲気があった。
「月見バーガーは……」
「お前、変わってるのな。うーん、ハンバーガーはハードル高いなあ。あの巨大な鉄板を使いこなす自信がない。ポテトくらいなら、挑戦してやろうか」
男に続いて厨房へ入った。床が油でぬるついて、何度か革靴が滑りかけた。男は慣れた手つきで新しいカップを引き抜き、コーヒーをいれるとぼくに渡した。
「……急に二日後って言われても困るよな」
「なんか、現実味なさすぎて。ぼくの職場も誰も来ませんでした。あなたは家に帰らなくていいんですか?」
「いえ、ねえ」
軽率な質問だった。誰しも帰る場所を持つとは限らないのだ。別の話を振ろうと口を開きかけると、突然、男が大きな冷蔵庫を蹴飛ばした。しかし鉄の扉のような冷蔵庫はびくともせず、ぼくは殴られると思って歯を食いしばった。けれど男はきょとんとして、今しがた殺しかけた冷蔵庫を、今度は優しく撫でて見せた。
「あれ、出てこねえな。ここにフライヤーがあるってことは、ポテトはこの中だと思ったんだけどよ」
見るからに家庭用とは勝手が違う。ぼくたちはああでもないこうでもないと言い合いながら冷蔵庫をいじくり回し、下部のスペースにバスケットを突っ込むとその中に自動で冷凍ポテトが落ちてくることをつきとめた。
「お客様、サイズは?」
「あ、Mで」
「こういうときはLでいいんだよ」
黄金色の油の中で泡を立てるポテトを眺めながら、男の横顔を盗み見た。ときどきバスケットを揺すったり、ポテトの色味を確認するその顔は、少し楽しげに見えた。男はおもむろに胸ポケットから煙草を取り出し、口のはしに咥えてニッと笑った。まるで先生に喫煙がバレた未成年のような仕草だった。ワルいことと知ってやっている、少しも悪びれない顔だった。
「俺さ、こういうポテト、いつも揚げが足りねえと思ってたのよ。もう少しカリカリにしていい?」
「はい」
二日後に世界が終わる。ぼくは今、子供のような大人とハンバーガーショップで遊んでいる。厨房をぐるりと見やった。バーガーを組み立てるレーンには、完成したそれを包むラップが折り紙のように並んでいる。チーズバーガー、BLTバーガー、チキンサンドに、パイナップルバーガーほか。お馴染みのメンバーの中に、月見バーガーのラップは見当たらなかった。発売当日まで、どこかにしまい込んでいるのかもしれない。
「できたぞ」
男の声が飛んできた。完成したポテトがきちんと箱に入って整列している。こんがりキツネ色で強めに塩が振られたポテトは、正しく作られたそれよりもずっと美味しかった。
「料理上手なんですね」
「もっと食え」
ポテトをつまみながら男はコーヒーをおかわりし、ぼくは新しいカップにオレンジジュースを注いだ。飲み物のマシンは、ファミリーレストランのドリンクバーとよく似ていた。まるで放課後の暇人だ。こんな時なのに、あっけらかんとした男と一緒にいて、ぼくは学生時代を思い出していた。
「本当に月が落ちてきたら、避難なんか意味ねえよな」
ポテトとドリンクの朝食を済ませると、男は思い出したようにそう言った。
「それはそう思います」
「お前、これからどうすんの」
新しいことを始めるより、やり残したことを考えてみた。両親はいない。兄弟も、恋人もいない。唯一の友人だと思っていた職場の同期には、早々に電話で切り捨てられた。人生で一度くらいは海外に行ってみたかったけれど、今から目指すのは現実的ではないだろう。ならば。
「ぼくは月見バーガーを食べに行きます」
「は?」
男は目を丸くしたあと、カラリと笑った。
「おもろ。乗った」
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