シャッター!

雨乃よるる

アルバムを開く→(茜色の遊び紙、和紙の手触り)

 乱れた掛布団を、手繰り寄せて、体を寒さに縮こまらせる。

 窓とカーテンは閉め切っている。

 LINEの着信が軽快に鳴るので、手を伸ばした。

 ”あかね”

 脳が勝手に覚醒する。ベッドの上に正座して、深呼吸して、通話を許可。

「もしもし、今、暇?」

「いつでも暇だよ」

 自虐の意味を込めて言うが、彼女はそれに気づかない。

「夕焼けが、すっごくきれいなの。写真撮りたいから、付き合ってくれない?」

 彼女は寂しがり屋ではない。よく一眼レフを持って、独りで外へ出る。

「ありがとう。二分後に行く」

 彼女とは家が隣だ。

「りょうかーい」

 ピポン。

 しわだらけの部屋着を着替えて、顔を洗って、髪をくしでとく。

 鏡の中の自分を見て、一瞬、後ろ向きの空気が気管を流れる。

 気にしない。断る方が、彼女に悪い。

 玄関を開けると、彼女が微笑む。

「おっそーい」

 自分がカメラに成れたら、どんなにいいか。(*A)


***


 西の空は快晴だ。

 夕焼けが、藍とオレンジの単調なグラデーションを作る。閑静な住宅街との組み合わせが、いい。

 君は黒く重いカメラを構えた。

 涼しい風が、君の髪のあいだをすりぬける。カシャ。

「撮れた」

 君は声をはずませる。

「私たちの目って、すごいね」

 君は感嘆の息を声にふくませる。

「これだけ、大きなものでもとらえきれないのに、私の目は景色をきれいに映す」

 カメラを掲げて見せた。

「ときどきね、シャッターを切るのがむなしくなるんだ」

 君は、なごり惜しそうに、ゆっくり歩きだす。学生のこぐふたつの自転車が、ライトをつけたばかりのバンが、そばを通りすぎる。

「そこで、とまって。夕焼け見てて」

 ふりかえった君がいう。

 僕はとまって、藍色の濃くなった西の空をながめた。

 カシャ。(*B)

「撮れた」

 液晶を僕に向ける。きれいな空を背景に、ぼこぼこに波うった前髪、赤い目とその下の隈、無精ひげとさがった口角。

「ありがとう」

 口角を、あげて。表情筋が、うまく動いてくれない。うれしいのに。

「なに、泣いてんの」

 君にいわれて、ほおにつたう水滴に気づいた。ごめん。ごめん。

「やめてよ。どこに泣くことなんてあるの」

 熱い、なめらかな指先で、涙がぬぐわれた。そんなに簡単にふれないでほしい。僕がひとこと、君に話すのに、どれだけ考えているのか。君に見せる表情ひとつ、どれだけがんばっているのか。

 君は知らない。

「歩くよ」

 君は小さな手を差し伸べる。

 君は知らない。

 僕の指がどれだけ自堕落で汚いのか。

「きれいだったよ」

 僕はいう。自分でいうのがはずかしくなる。それでもいう。

「写真の中の僕は」(*C)

「本物は、もっときれいだよ」

 ちがうんだ。

 君みたいに、世界を見れる人は、そう多くないんだよ。


***


 セピア色のハードカバー。大きなアルバムをめくる。

 一枚目には、名刺ほどの大きさの紙が貼られていて、そこには『思い出』と彼女の手書きの文字がある。

 台所のすみのほこり、脱衣所の天井、玄関の傘立て、洗面台のちびた石鹸。

 そんなものばかり写っていた。それらは彼女の撮る写真の中で、あまりきれいな方ではなかった。

「『日常』とかじゃないんだね」

 僕がいうと、彼女は「今は日常だけどね」と返して、立った。

「この前の淳の写真(→*B)、うまく撮れたから現像しちゃった」

 カメラ屋の白い包装紙を持って来て、開いた。

「あんまり見たくないな」

 そう僕がいうと、彼女は僕に見えないように、その写真を取り出して、眺めた。

「よく撮れたと思ったんだけどな」

 悔しそうにいうので、僕は慌てて「いや、写真が見たくないわけじゃなくて」と弁明した。

「自分を見るのって恥ずかしいから」

 そうかもね、と彼女は、その写真を大事そうにしまった。


「そのアルバム、面白くないでしょ」

 彼女は僕の開いた『思い出』のアルバムを指さした。

 僕は口ごもって、ページを何度かめくった末、うなずいた。

「なんか、新鮮な感じが全くしないんだよね。あかねの撮る写真はいつも独特なのに」

 彼女の口元が、ほころんだ。

「そうなの。なるべく面白くないように、撮った」

「どういうこと?」

 彼女は、来て、と促して、階段を降りて、台所へ行った。

「すみっこのほこりを写した写真、あったでしょ。あれは、ここから、このアングルで撮った」

 カメラを構えるジェスチャーをする。

「日常って、動作の連続でしょ。なにか動作するには、必ず見なきゃいけない場所がある。石鹸を手に付けるには石鹸を見なきゃいけないし、台所へ入るときはだいたい冷蔵庫を開けるから、そのあたりの床に目線が行く」

 彼女は、冷蔵庫を開けて、ココアの粉と牛乳を取り出した。

「わざとその時の視界を、再現したの。みんな、いつも、見ている場所と画角。それは面白味がないよね」

 牛乳を小さな鍋に注いで、ガスコンロに点火。

 温まるのを待つ間、僕はガスコンロの青い炎を見つめる。彼女の視界は今、どうなんだろう。炎、換気扇、蛇口、鍋の蓋、僕、見る場所はたくさんある。何も動作をしていないときは、どこを見ていてもいい。

「そろそろかな」

 彼女は温まった牛乳でホットココアを入れる。金属のティースプーンで混ぜる。食卓にそれを持って行く。

「いただきます」

 甘いココアと牛乳は、すこし僕の胃には重たかった。猫背で歪んだ食道を、つたう液体が気持ち悪い。「おいしいね」と笑っておく。彼女が笑ったことにほっとする。

「でもさ、じゃああのアルバムのタイトルはなんで『思い出』なの?」

 今の話を聴くと、余計に『日常』というタイトルの方がしっくりくるのだ。

 彼女はことりとマグカップを置いて、窓の外を見た。乱層雲の灰色が埋め尽くしていた。雨が降るかもしれない。

「淳さ、十年前のことって、思い出せる?」

 質問で返されたことにたじろぎながら、うなずく。十年前、僕は六歳だ。ひとつくらい記憶は掘り起こせる。

「感傷に浸ってみて」

 いわれたとおりにする。


 今とは、別のところに住んでいた。

 通学路には銀杏並木があった。秋に夕陽が照るときれいだった。

 友人の黒いランドセルを見ながら、歩いていた。

 何の変哲もない景色だった。


 僕は彼女の言いたいことを理解した。

「あなたは、そのときまだ幸せだったでしょう」(*D)

 まだ幸せだった、という彼女の表現に、何か心の奥の触れて欲しかった部分に触れられた感じがした。

「幸せな時の日常って、いや、幸せじゃなくても、そんなに悪くない時の日常は、とっておくもんなの、それはつまんなければつまんないほどいいの」(*E)

 しばらくだまって、僕は「そうだね」といった。

「今の日常が嫌いになったら、昔の思い出に浸りたくなるのは、分かる」


「十年後、またあのアルバム見せてほしい」(*F)

 僕が言うと、彼女はもちろんとうなずいた。

 手を振って家の前で別れた。すぐ隣が、僕の家。

 これも幸せなことなのかもしれない、と思った。とっておくべきなのかもしれない。いつか、彼女が僕の前からいなくなった時のために。


***


 そろそろ寝ようと思っていたら、小鳥のさえずる音がカーテンの向こうから聞こえた。君から、“おはよう”から始まるLINEが飛んできた。心臓が翳った。

 君と僕では朝日や小鳥のさえずりの意味すら正反対だ。彼女と関わると、自分の中の表裏が掻き乱される。自分だけでしまっておいて処理しようと思っていたことすら引きずり出される。

“おはよう”

“今日の晩、夏祭り行かない?”

 急にクーラーの風が気になって、目の奥が痛くなった。もう夏だった。カーテンを小さく開けて窓を触る。

“なんで僕と行くの?”

 消去。

“お願いします。”

 送信。

“わかった! 夜、17時半に家の前で!”

 返信を読んだ。目覚まし時計をセットして、ベッドに仰向けになる。だるい体に布団を纏わせて、確実に眠れるように意識を慎重に落としていった。


 君は黒い生地に色とりどりの花火の模様のついた浴衣を着て手を振った。もう片方の手にはキャップのついた黒いカメラを掲げていた。

「ごめん待たせて」

 小走りに君の隣へついた。まだ暑さがアスファルトから立ち昇っていた。

「ううん。いいよ」

 君は何故だか楽しそうに歩いていた。室内で見るのとは違って、君の長髪が茶に光って見えた。空では雲が焼けていた。

「ひとつ、訊いてもいい?」

 僕は君の背中に声をかけた。少し歩くだけで肺に詰め物があるみたいに息が苦しかった。

「なんで僕を呼んだの? 他にいくらでも」

 その先を自分で言うのは気が進まなかった。彼女は笑うと目元が柔らかくたわんで、口のあいだから綺麗な白い歯が溢れる人で、旅館の広告みたいに浴衣が似合う。写真に撮ってもこぼれ落ちくるらい、華のある少女。そう思っているのは僕だけではないと思う。

「それはさ、」

 君はふりかえった。頬がふわりと引き上がった。

「私のカメラに付き合ってくれる人が、淳くんくらいしかいないからだよ」(*G)

 僕はぎこちなく笑い返した。


 君は屋台でりんご飴を買った。そして僕に手渡した。

「ちょっと待って」

 君はそう言って、僕のワイシャツの襟に触れた。

「ねじれてたから」

 君はこともなげに優しい息を吐いた。

「歩いててね、普通に」

 僕はりんご飴を落とさないように持ちながら歩き始めた。人通りが多い。必然的に、僕と君の距離は近くなる。君はカメラを構える。君の肩と誰かの肩が軽くぶつかる。君はカメラを構え直して、シャッターを切った。シャッター音は喧騒であまり聴こえなかった。

「もうちょい絞りを開いて、シャッタースピードを上げる」

 君はカメラをいじってまた、構えた。

 カシャ。(*H)

 今度は聴こえた。君は画面をのぞいて、上手く撮れた時にいつもそうするように、息をはずませた。

「ありがとう」

 君はお礼を言って、僕に写真を見せてくれた。りんご飴を手持ち無沙汰に、けれども大事そうに持つ僕の姿は少し滑稽だった。口の間抜けな開き具合まではっきり写っていた。僕のうしろをゆく浴衣や、屋台の灯りがぼんやりと夏祭り色を奏でていた。

「ありがとう」

 僕の方からもお礼を言ったけれど、人混みに押されて君との距離が若干開いていて、声は喧騒に負けてしまった。


 花火があがった。人混みの少ない駐車場で休憩していた。りんご飴は結局君が美味しそうに平らげてしまって、唇はいつもより赤くなっていた。(*i)

「あがったね」

 花火の大きさに対して、君のそのつぶやきは小さすぎるような気がした。二人ともしゃがんでいた。静かな花火だと思った。赤と緑の光が円状にはじけて落ちていった。君はカメラを撫でて、花火に見入っていた。その瞳をのぞいてみたいと思った。

「綺麗だね」

 君も花火もどちらも綺麗だと思った。

「淳くんの方が綺麗だよ」

 君は僕の方を少しも見ずに言った。君の髪を風が通り抜けた。

「それはない」

「そんなことあるよ」

 君は足が疲れたのか、立ち上がった。くるりと回転して、いきなりカメラを構えて、シャッターを切った。(*J)シャッター音と同時に火薬の破裂する音が響いて、いちばん大きな花火が花束から溢れるくらいに咲いて僕の顔を正面から照らした。

 君が息をはずませるのにあわせて、光の粒は落下していった。

「だって私が言うんだもん。間違いない。いまに、世界中が、君に見惚れる瞬間が来るから」(*K)

「シャッターを切るくらいの短い時間?」

「いや、もっと、ずっと永く」

「それは嫌だな」

 君は視線を外した。無数の花火がひゅうと風を切って、開いた。破裂音が何度も響いて、やがて引いていった。

「それが私の撮った写真だったら?」

 スニーカーの裏で駐車場の砂利を蹴って、夜空を見上げた。花火の煙に包まれて星が瞬いた。

「それなら、いいかもしれない」


***


”今度淳の家のパソコン使わせて”

 寝ていると、スマホが鳴った。

 未読のまま放置して、カレンダーのアプリを開く。カウンセリング、精神科、内科、カウンセリングカウンセリング。すべて平日の午前、彼女が学校に行っている時間だ。

 期末考査、と書いてある予定は、迷って、削除した。

”いいよ。いつ来る? こっちはいつでもOK”

 自嘲気味にそのメッセージを少し眺めて、送信する。

 スマホを置くと、視界を薄暗い天井と家具類が占領する。飽きるほど見慣れてしまった。これもある種の『思い出』だな、とこの前のことを思い出す。

 家具たちは、締め切ったカーテンから漏れる昼間の光に、焦りと疲労の混ざった、うんざりした色を見せた。

 この光景は、わずかな光の加減で、様々な姿を見せる。曇りの日には、部屋中が薄墨の空気に満たされるし、夕陽には家具の木目の表情が浮かび上がる。

”いつでもいいなら、いまでもいい?”

”いいよ”

 ピンポーン。

 さすがに早すぎる。僕は焦って、部屋の中のいろいろなものを整えて、カーテンを開けて、蛍光灯をつける。

 玄関へ降りて、彼女を通した。

 わざとらしく光の入った部屋を見ても、机のすみの鬱屈した紙類を見ても、彼女の表情は明るいままだった。


 中学の時に買った安いノートパソコンを、彼女はうらやましそうに見て、遠慮がちに操作した。

 持ってきたSDカードを挿入して、写真の編集を始めた。(*L)

「なにか、思いついたの?」

 彼女が写真を加工しているのを、僕は見たことがなかった。いつも、撮ったそのままのものを現像していた。それが、一番よかった。

「やめた方がいいかな?」

 僕が返事しかねていると、彼女はいきなり、「彩度」のバーを片方に振り切った。

 モノクロの画像が、ディスプレイに写された。駅前のフェンスと、取り壊される前の建物が映っていた。

 しばらく他の項目をいじる。ときどき、僕は読んでいた本から顔をあげてそれを見た。彼女の操作にかなり気を取られていた。

 彼女が、写真が灰色のまま、ディスプレイにむかってうなずいた。わずかに顎を引いて口元を締める、その動作ひとつで、僕はわずかに息を呑んだ。

 言いたいことが胸からお腹にかけて回って、言葉にならず、体が硬直した。彼女のマウスを操る音が激しくなるごとに、僕の不安は募った。

「何をしようとしてるの?」

 彼女は一度唾を飲んでから、うつ、と答えた。

「淳くんの病気」

 正確には僕はうつ病とは診断されていない。ただ、不登校が半年続いた。この生活に日々焦燥感を感じている。(→*D)

「うつ病って、どんな感じ?」

 そんなに綺麗なものではない。彼女の視界に入れるほど。

「うつ病とは違うかもしれないけど、僕の視界は、モノクロではないよ。夕焼けはちゃんと赤いし、フェンスの錆は茶色に見える」

「うつ病じゃなくてもいい。淳くんの見ている世界が見たい」

 彼女は彩度を上げる。写真は再び色を取り戻す。

「わかった。僕は乱視がひどいかな。外に出るとどこを見ていいのかわからなくなる。ものが二重に見えたり、ピントがあわなかったり」

 彼女は二ヶ所、おかしな場所だけクリア状態にして、それ以外に少しずつぼかしのエフェクトを入れる。写真をコピーして透明度を上げたものをずらして重ねる。確かに、目が泳いでいる時の視界に見えなくもない。

「それで、やっぱり彩度はもう少し落とした方がいいかな。あと外は部屋の中より明るいから、いっつも眩しいなって思ってる」

 彩度を下げて、明度を上げる。画面が白く飛ぶ。

 ノイズ除去、コントラスト、露出。

「やめてほしい」

 彼女は驚いて顔を上げた。

「ごめん。自分で説明しといておかしな話なんだけど、やっぱり、君には見てほしくない」

 少しずつ、人工的とはいえ自分の汚れた視界に近づいていく画面が恐ろしかった。

「うつなんて関わらない方がいい。僕みたいな、人間とも縁を切った方がいい。優しすぎるのは悪だと思う」(*M)

 乾燥した喉に痰が絡んで、僕は何度も咳をした。

 彼女は瞳を揺らした。

「じゃあ、どうしたらいいの、あなたがきれいでたまらないと思ったの。その視界をすべて知りたいと思ってしまったの」

 僕は自分の胸をさすって、深呼吸をした。

「僕はきれいじゃない」

 きれい、のところで声がかすれて、音が濁った。

「きれいだよ。淳くんの、極限まで情けない優しさみたいなものが」

 優しすぎるのは悪、と言った自分の言葉が、返ってきた。嘘だ、と思った。僕はそんなに優しくない。LINEで君の名前を見るたびにうんざりしていた。ひどいことだってたくさんして、君にだってたくさんして、怖くなって家に閉じ籠った。いや、正確には、優しくあることを諦めてしまった。

「そうだと、思うんだったら、僕を撮ってください。僕の視界なんて知らなくていい。僕の内にどんな汚いものがあるかなんて知らなくていい。君にとってきれいに見える僕を撮ってください。人並みの能力も、君みたいな表現も持たない僕にはそれしか、世界に認められて、存在を訴えられる手段がないんです」

 ひきつった頬で言った。自分で自分が気持ち悪いと思った。泣いてしまった。一眼レフを構える君はきれいだった。

 カシャ。(*N)

 君は息を吸いこんで、天井を仰いだ。そして花火みたいな笑顔を破裂させて、光の宿る目で僕を見た。


***


 息苦しく寝返りを打った。エアコンの設定温度を何度もいじっていると、スマホが鳴った。あかね。

 “入選したよ”

 “おめでとう。何が?”

 “君がね”

 軽やかに着信が鳴って、通話に出ると、君が声をはずませて言った。写真賞に応募して、入選したらしい。賞の名前を訊いて、おめでとうと言って、通話を切った。

 写真賞を検索すると、WEBから受賞作品が見られるようになっていた。確かに、〈入選〉の一覧の中に見原茜の文字があった。クリックすると、ファイルが開いた。

 写真を五枚組でワンセットとして、その作品の趣旨を文章で添える形らしい。

 スクロールすると、最後に作品の趣旨をまとめた茜の文章があった。

 文章と対応する写真を交互に見た。何度も画面をスクロ-ルで往復することになった。(→*X)


***


 被写体の彼は幼馴染です。家の隣に住んでいます。彼は半年間学校に行かず、昼夜逆転の生活で引きこもってネットばかりしています。でも彼のことを悪く思わないでください。怠惰な生活を送る彼には彼の、それなりの理由であって過去があるのです。

 そんな彼は、見ての通りものすごくきれいです。不器用で、どこに行っても必ず負けてしまうような優しさをいつも持っています。ですが、彼が道を歩いても誰も彼のことをきれいだと言ってくれません。邪魔者扱いします。彼の美しさはどうしてか世界から発見されないのです。

 人並みの生活を送る能力も、表現する力も、持っていないと彼は言います。だから世界から見放されるのは当然だとなかば、諦めています。

 私には、私の表現があるのかどうかはわからないけれど、小学生のころからずっと一眼レフを触っていました。普通の人は目もくれないような日常を、被写体にしても「映えない」ものたちを、たったひとりで愛して、大切にしてきました。

 私なら、彼を世界に送り出せるかもしれないと思いました。全然立派じゃない、等身大の彼を。


 一枚目は、彼と夕陽を見に散歩に行った時の写真です。(→*B)



 二枚目は、人混みが苦手な彼が夏祭りについてきてくれて、私のりんご飴を落とさないように持ってくれている写真。(→*H)



 三枚目は、夏祭りで花火を見ている彼です。もっというと、花火を見ている私を見ている彼です。彼と花火の間に座っていた私が、振り返った瞬間に不意打ちで撮りました。ラッキーショットです。(→*J)



 四枚目は、パソコンばかり見ている引きこもりの彼の視界を加工で再現したものです。近視も乱視も入っています。視界も狭い。あと彼はいつもふらふら歩くので少し写真を傾けてあります。(→*L)



 五枚目は、私のことを本気で心配してくれた彼の泣き顔です。 どうか、きれいな彼の姿が全世界に伝わりますように。(→*N)



 訳が分からなかった。こんなものが受賞するのなら、よほど応募作の少ない賞なのかもしれない。

 ささやかな抵抗だ。全世界になんて伝わるわけがない。物語のような展開が僕らに待っているわけでもない。日常しか取り柄のない僕らには、小さな写真賞の入選くらいが相応しいと思った。審査員は、優しい世界(→*M)に触れた気がしました、と一言添えていた。入選したよ、僕がね。(→*K)


***


 君に会った。寒い季節も終わろうとしていた。僕はこの前の賞のお礼を言った。すごいねと言った。君は照れて笑った。

「私、引っ越すんだ」

 君は困った顔をしながら、本当に数日後にはいなくなってしまった。

「手紙、送るから。写真続けるから」

「いってらっしゃい」

 誰もいない校庭に向かってシャッターを切るような虚しさが胸を掠めた。(→*A)それでいいと思った。僕の視界には誰もいない方がいい。彼女は僕以外の人物を撮った方がいい。

 彼女からの手紙は月一回送られてきた。

 封筒を慎重に切って、写真を取り出す。現像された写真の裏にペン書きのメッセージ。



 四月、桜と春空の裏側に、新生活の詳細が綴られていた。



 五月、夜景、滲む光の裏側に、「元気ですか? 私は写真部に入りました。これは旅行先の宿からの写真です。淳くんもたまには外に出てください」とペンの文字。



 六月、紫陽花と、短髪の少女の笑顔。「お元気ですか? 友達ができました」



 七月、夕陽を背景に、少年少女のシルエットがポーズをとる。山の頂上だろうか。「写真部で近くの展望台に行きました。淳くんは最近どう?」。特に変わりはないと返事をした。



 八月、写真部で撮ったという、中央の人物からピントのわざと外れた写真。「好きな人を見たいけど、あんまり露骨に見れない時の視界を再現しました」。彼女らしいと思って笑ってしまった。部活でもずっとこんなことをやっているのかと思った。ピントが合っていないのに、その人物が写真のテーマだと思わせる構図は確かに上手い。変な特殊能力だと思う。



 九月、ステージを下から見上げた構図で、激しく踊っている男の子。文化祭のダンス部の写真だと言う。



 十月、大人びた少年が屈託なく笑っている。先月の写真で踊っていた男子だった。大学生みたいな体格と、服装をしていた。オーバーサイズのTシャツを着ている。「友達の本番前の写真です」。(→*C)



 十一月、は何も送られてこなかった。ショックといえばショックだったし、それくらいでいいとも思った。

 すでに毎日のように君に会っていた日々が懐かしくて、あの日常が恋しかった。『思い出』と題された日常のありきたりなカットを集めたアルバムを思い出した。(→*F)「十年後にまたこのアルバムを見せて欲しい」と僕は言っていた。十年後に僕らがそんな関係を保っている自信はなかった。

 僕と君では時間の流れすら違っていて、昼間の世界を生きている人はたった半年が短編映画のように濃い。水で薄めて澱んだカルキ臭い僕の時間では一生分かけても集められないくらいの青春を送っていた。(→*E)



 十二月、「彼氏ができました」。初めてのツーショットだった。以前より少しだけ濃いメイクをしていた。彼氏にもたれかかるように腕を組んでいた。君は口紅を塗って、メイクで余計に目がはっきり、透き通って見えた。「クリスマスの時の写真です。友達に撮ってもらいました」。(→*G)



 口紅で、りんご飴を食べて赤くなった君の唇を思い出した。(→*i)



Fin.

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