1客
壱原 一
所々ペンキの剥げた階段を上り、ウッドデッキに着きました。左手に揺れるロッキングチェア、右手にりいん、りんと鳴るウィンドチャイムを認めます。
振り返ると一面の草原です。晴れた空と地平線が見渡す限り続いていて、鮮やかな青色と、爽やかな緑色に、立ち眩みを起こすほどの吸引力を感じます。
傾きかける重心を、ウィンドチャイムの音に引き戻されます。
吹き渡る風に乗って、りいん、りんと奏でられる澄んだ高音に導かれ、改めて行く手へ向き直り、青空と草原を背景に、目前のドアと対峙します。
酸化した鈍い色の取っ手に、ほんの少し指先を掛けて引きます。端の欠けた木製のドアが、蝶番をきいと軋ませていとも簡単に開きます。
鍵を掛けないなんて、不用心な人の家です。取られて困る物が何も無いので、鍵を開けたままにして、訪れる人はどんな人でも迎え入れているのでしょう。
一足屋内に入ると、意外なことに気付きます。
玄関のドアを潜った先が、手狭な部屋になっていて、部屋の隅に小さなテーブルがあります。正面と左側の壁に窓が開いていて、空と草原を眺望でき、さやさや風が通っています。
部屋は玄関と窓の他に、廊下も扉も階段も無く、他の何処にも移動できない造りになっています。
歩幅にして5、6歩もすると、端から端まで移動できます。
外から見た寸法と比べると、この家の中がこれほど狭い部屋だけの筈はありません。部屋と家との壁の間に空間が余る筈ですから、外が見える窓もおかしいです。
どうしてかドアを潜ると、手狭な部屋になっています。小さなテーブルしかなくて、そこにカップとソーサーが置かれています。
砂埃を被ったテーブルの上に、洗って拭いたばかりのような、ぴかぴかのカップとソーサーが1客置かれています。
慎重に部屋へ入って、窓から外を覗いたり、壁を叩いて重く詰まった音を確かめたりします。ふと良い香りが漂ってきて、見回すとカップの中で紅茶が湯気を立てています。
綺麗な茜色の紅茶です。窓を行き来するそよ風に、湯気がふんわり棚引きます。
思わず近寄って眺めると、ぴかぴかのカップの中の、茜色の紅茶の上で、小さな茶色の蟻が1匹あわただしく泳いでいました。
掬ってあげるために、少し背中を屈めてカップの上へ指を下ろします。
視界がゆっくり降下して、見えてきたカップの陰に、小さな茶色の蟻の群れがもじゃもじゃ丘を作っています。
蟻の丘はカップの陰で盛り上がり、ゆるやかに先細って行列となり、ソーサーの縁を下りて、テーブルの上から裏側へ、脚を伝い床へと延びています。
紅茶を泳ぐ蟻を掬ってテーブルの上へ下ろし、しゃがんで床の列を辿ります。小さな茶色の蟻の行列は、壁と床が接した角の小さな穴から出ていました。
穴の辺りを検めると、日に焼けて色褪せた壁と、砂埃でざらつく床の角に、くすんだ色の薄い布が挟まっているのが見えます。
それから数本の、透けた淡い茶色の、細い糸の束が見えます。
そうっと壁に近付き、壁に耳を付けます。壁の中からノイズのような、さざなみのような、葉擦れのような、小さな大量のざわめきが、絶え間なく湧き立つ音が聞こえます。
壁に耳を付けていると、壁紙がほんの少し捲れ、そこから小さな薄黄色の何かが飛び出ているのに気付きます。
爪先で摘まみ、力を込めて引き出すと、根元が僅かに赤黒い、爪の欠片のようでした。
立ち上がってテーブルの上に置き、静かに玄関まで下がり、壁の辺りを見詰めます。
外は良く晴れていて、窓からそよ風が吹き込んで、紅茶の香りが漂って、ウィンドチャイムが鳴ります。
りいん、りんと奏でられる、澄んだ清らかな高音を、優しく押し返すように、重く詰まった壁の中から、小さな大量のざわめきが、絶え間なく湧き立っています。
振り返るとドアの外に影があり、それはこちらを覗き込む家の主のようでした。
青空と草原を背景に、ドアはきいと軋んで閉まり、二度と開きませんでした。
終.
1客 壱原 一 @Hajime1HARA
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