第5話 時間のない書斎

 お父さんを見送るための祭壇に供えられた白い菊にはさまれたわかめいしさんは、みらいちゃんをじっと見つめていました。


 みらいちゃんは、その目に吸い込まれるように視線を返し続けていました。


 何秒経ったのかわかりませんが、なんとなく意味のある時間に思えました。数分間だったかもしれないし、数十分間だったかもしれません。

 しかし時計を見る必要はないでしょう。なぜならここはお父さんの書斎だからです。


 お父さんは、この部屋にいるときは時計を見なくてもいい、と必ず言いました。


 みらいちゃんは時計を見るよりも見ない方が得意です。この部屋から出たらきちんと時計を確認しなければならないのですが、今は気にしなくていいのです。

 心地よい浮力に包まれて溶けてしまっても、水の中では良いのです。


 水は常に溶け合っていて境界線がないからです。


「不思議な体験だ」


 モアイさんのいる右のお尻へわかめいしさんの目がきゅっと寄ったので、お尻の凹凸に視線を移しました。


 みらいちゃんから見て右がわかめいしさんのお尻です。考え直してみると、お尻なのでしょうか?


 人間にはお尻が一つあるので、みらいちゃんはモアイさんがいる方がお尻だと思っています。わかめいしさんの体を間借りしているのがモアイさんなのですから、お尻はモアイさんでしょう。


 みらいちゃんはそう考えています。


「ふしぎかな?」

「うん、不思議だ。この不思議を説明する義務が、きっと僕にはあるんだろう。そのためにここにいるんだね」


 モアイさんは、お父さんの遺影と向き合っていました。見た目はそっくりです。しかし、鏡合わせのようでまったく異なります。


 モアイさんは石で、お父さんは人間だからです。


「みらい。さっき、二合のお米を炊くのに、一合半分のお水を入れたね」


 わかめいしさんのわかめが、白い菊の花びらとあいさつしあっています。触れ合ったりお辞儀したりしています。


 海藻とお花は似ています。通じ合うものがあるのかもしれません。


「えっと、わかめご飯を炊くから、お水を少なくしたんだよね?」

「その通りだ。いいかい? 僕にとっては、それが哲学だったんだよ」


 それは哲学者だったお父さんの声と、あまりにも似ています。

 間違えてしまいそうになるほどです。


 けれど、鏡合わせになりませんでしたから、お父さんの声ではないのでしょう。だから、みらいちゃんはモアイさんという存在の、わかめご飯を知らなくてはならないのです。


 どういう意味なのか、モアイさんがこれから説明します。


 みらいちゃんは、質問をするために言いました。


「みらいのお父さんはね、哲学者だったんだ」


「おおっと。そうだ。僕は僕のままで喋ってはならないんだった。奇遇だね。僕も哲学者だったんだ」


「お父さんの哲学と、モアイさんの哲学は、一緒? 哲学って言葉が、二合のお米だとして、お父さんが白いご飯を炊こうとしていて、モアイさんがわかめご飯を炊こうとしていたら、お水の量がちがうんだよね? みらいの知っている哲学と、モアイさんの哲学は、一緒だと思っていい?」


「うんうん。良い質問だ。僕と、みらいのお父さんが使っている哲学という言葉は、一緒だよ。僕もみらいのお父さんも、二人とも同じ哲学という言葉を使っている」


「そうなんだ。じゃあ、モアイさんの哲学って言葉の意味がわかったら、お父さんの哲学もわかる?」


 わかめいしさんが、白い菊の茎にわかめをからませています。何かが通じ合っているらしいのですが、日本人とフランス人がハローと言い合っている感じです。

 細かい部分よりも、芯を結び合うことを大切にしているようなのです。


「必ずわかるよ。なぜなら、僕とみらいのお父さんの哲学は同じだから」


 みらいちゃんは、祭壇のモアイさんに集中することにしました。

 モアイさんのこともお父さんのことも、知りたかったからです。


「哲学って、何?」

「わかるのルールを決めることだ」


 菊の花とわかめいしさんが、モアイさんに興味をひかれて不思議なかかわりを一度中断します。


 みらいちゃんと、菊の花と、わかめいしさんの、三つの存在。今はくくる単位がなくても、みんなわからないと感じていたら同じだから、表す単位があってもいいような気がします。


「わかるのルール?」


「そうだ。全ての物事は、難しい。でもね、わからなくてもわかったと言わなければならない時がある。どうして生きるのか? どうして呼吸するのか? どうして僕はわかめいしさんの体に宿ったのか? 今の僕は何者なのか? きっと考えるべきことだとしても、今のみらいが考える内容ではないね」


「わからないのに、わかったって言わなきゃいけない?」


「そう。かつてデカルトは『我思うゆえに我あり』と言った。僕は気付いたんだよ。哲学とは、止め方の学問なのだと。だって、何者でも良いじゃないか。僕は今ここに存在しているのだから、我思うゆえに我ありなのだから、人間じゃなくたって、生き物じゃなくたって良いじゃないか。デカルトがくれたのはきっと答えではないんだよ。止め方だったに違いないんだ。これからみらいは、わかるのルールを決めなさい。何を大切にするかを決めなさい」


「何を、大切にするか……?」


「お母さんが好きかい?」


 みらいちゃんは頷きました。大好きです。


 いつもお仕事でお家にいないけれど、雨が降っても迎えにきてはくれないけれど、三つあみをほどくといつもかわいいと褒めてくれるからです。

 その時の目が、とっても綺麗だからです。


「うん。お母さんだいすき」


「友だちが好きかい?」

「うん」


「大切かい?」

「うん」


「それなら、お父さんは、死んでしまったんだよ。まず、これをわかりなさい。例えば、みらいが言っているようにお父さんがまだどこかにいるとしよう。実はね、僕もいると思っているんだよ。けれど、お父さんの体は、自動車にひかれて動かなくなってしまって、もうどこにもない。みらいが大切にする人たちが、死ぬという言葉をどのように使っているか考えなさい。白いお米を炊きたい人にお水を持ってきてと言われた時と、わかめご飯を炊きたい人にお水を持ってきてと言われたとき、持っていくお水の量は異なるね。大抵のことはね、そういうものなんだ。人間の体を失うことを、みらいが大切にする人たちが死と表現している。それならば、まずはお父さんは死んだと思わなくてはならない。これが、一つ目のわかるだよ」


 お父さんは、死んだ。みらいちゃんはお父さんの遺影を見つめました。遺影があって、お父さんはここにいない。わかります。死んだと思わなくてはならないのです。


 言葉を失ってしまったみらいちゃんに、モアイさんは抜け道を教えるような口調で言いました。


「では、その先にある、二つめのわかるを教えよう。わかめいしさんは生きていると思うかい?」


 みらいちゃんは、わかめいしさんと目をあわせました。わかめがもよもよと動いています。石なので、硬くてひんやりしています。


 口も鼻もないので、呼吸はしていないでしょう。足があります。柔らかそうです。触ろうとしたら、ちょっと緊張されてしまいました。だから手を引っ込めました。いやなことはしたくありません。


 じっとした時間でした。時間が生きていて、息を止めて見つめてくるような感じがしました。プールの水みたいでした。


 でも、プールに入る前に浴びるシャワーの水ではありません。排水溝に流れていく水とも違います。みんなで一緒にプールの中で歩いたら、プールの水も変わってしまうでしょう。一人きりでプールの中心に佇んでいるときのプールの水を想像したのです。


 ふと、時間って時計じゃないんだ、とみらいちゃんは思いました。その瞬間に、リビングから軽快な音楽が響いてきました。


 お父さんがいつも鼻歌にして沢山褒めて、そんなのは音楽じゃないと、お母さんに叱られてしまう炊飯器のお知らせ音です。


 思っていたよりも時間は流れていたのです。どちらかと言えば、みらいちゃんを囲んでいた時間はシャワーの水に近かったのです。


「ううん、不思議な時間の流れだね。さて、わかめご飯が炊けたみたいだ。行こう。答えがあるよ」


 モアイさんは、手に乗せてもらいたいと頼みました。

 わかめいしさんのわかめが祭壇に備えられた白い菊たちとの別れを惜しむようになびきます。


 みらいちゃんは、お父さんの書斎から出ました。

 時計の針の音が響き始めるような気がしました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る