第4話 白いご飯とわかめご飯

 キッチンはまっさらでピカピカです。お父さんがいつも綺麗にしていたからです。


 みらいちゃんはたまにお手伝いをしていましたが、ちゃんと料理をした経験はまだありません。

 一人でキッチンに立つと、ほんの少しだけ緊張します。


「お父さんがね、まだコンロと包丁は使っちゃだめって言ってたんだ」


「ちゃんと覚えていてえらいじゃないか。この体では、いざというときに助けられないかもしれないからね。きちんとルールを守ることにしよう」


 慣れた調子のモアイさんは、ぴたっと止まります。

 すると、わかめいしさんの目がモアイさんを見るように右に寄りました。以心伝心したように、小さな足が一生懸命に歩き出します。


 体を動かすのはわかめいしさんの担当です。


「何かとってほしい?」


 みらいちゃんが聞くと、わかめいしさんはわかめの先でお米が入ったガラスポットを指しました。


「お米かな? それなら、きっとザルも必要だね」


 保存用のポットの中には大きな計量スプーンが入っています。みらいちゃんは蓋を開けて、わかめいしさんを見つめます。

 わかめが2の形になりました。


「わぁ。わかめいしさん、数字わかるんだね。ねこもいぬも、わからないんだよ。だから、ねこやいぬより、人間だね」


「みらいの考え方は僕にそっくりだなぁ」

「モアイさんとみらいの考え方、似てるの?」


「おおっと。深く考えるんじゃない。いや、僕が深く考えすぎているのか。こんなことでバレるわけがないじゃないか。さぁ、二合分のお米を研ごう。その軽量スプーンで二杯だよ」


 ザルに二合のお米を入れて、お水で研いでいきます。排水溝へ流れていく白濁したお水を、わかめいしさんはじっと見つめています。不思議なものに出会ったような反応です。


「みらい。今、水に触れてどう思った?」


 モアイさんが変わった質問をしました。


 今は、秋口の暑くも寒くもない、柔らかい気温です。お水は、手が痛くなるほどに冷えているわけでもなく、ずっと触れていたいほどに心地よく肌から体温を持っていってくれるわけでもありません。


 みらいちゃんは、お水に触れた感じがした、と思いました。しかし、そのまま答えていいのかわかりません。初めてされた質問だからです。どうして聞かれているのかわからないからです。


「素直に答えていいんだよ。いいかい? わからないことを恥ずかしく思う必要はないんだ。中には、わからないことを確認するためにわざと変な質問する人だっているんだからね。聞かれたら、とにかく答えてしまいなさい」


「お水に触れた、って思いました」


「ううん。唸りたくなるような素晴らしい答えだ。間違いない。でも、一瞬ためらったね。みらいには何か答えに迷う理由があったんだろうか?」


「今だから、お水に触れたって、それだけ思ったのかなぁって……。ええっと……」


「ゆっくりでいいから言葉にしてごらん?」


「暑くも、寒くもないし……お水に触れても、あんまり……変わらなかった気がしたから……えっと、何かを思うのは理由があって……」


「そう教えたのは僕、おっとまずい、そう教えたのはみらいのお父さんだね? 何かを思うのには理由があるに違いないと」


「うん。なにごともしっかり考えなさい、って言われたの」


「ゆっくり話をしよう。まずは炊飯器のお釜を持ってきてくれるかい?」

 みらいちゃんがお釜を持ってくると、モアイさんは歌うように言います。


「お米の炊き方は教えたことがあるね? 行動する前に、これからどうするかを僕に言葉で説明してごらん」


「えっと、研いだお米をお釜に入れて、このお米は二合分だから、二合の目盛りまでお水を入れる」


「その通り。しっかり覚えていたね。普通はそれが正しい。けれど今回は一合半のところまでしか水を入れなくていいんだ。どうしてだと思う?」


 わかめいしさんが、わかめをふよふよさせています。わかめいしさんにはさっぱりわからないようです。


 モアイさんは難しいことを言っているのだと思います。


「もしかして、普通じゃないご飯を炊くから?」


「そう、すごいじゃないか! そうなんだよ」

「どんなご飯を炊くの?」


「いい質問だ。それを聞いて欲しかった! どんなご飯を炊くかを知っていたら、お水の量が二合に対して一合半分しかなくても、正しいかもしれないね。正しさっていうのはそうやって出来ていると僕は思っている。僕たちがこれから作るのは『わかめご飯』だ」


「わかめご飯を作るときには、お水は少なくていいの?」


「その理由を知るために、試してみようね。美味しいわかめご飯を作る材料は、お米、塩、料理酒、みりん、わかめだ。まずは小さじ1の塩を入れよう」


 みらいちゃんは言われた通りに塩を入れました。お釜の水面が揺れます。目盛りは変わりません。


「次は、料理酒を大さじ1。その次は、みりんを大さじ1入れてね」


 すると、ほんの少しだけ目盛りよりも水面が上昇します。

 みらいちゃんがゆらゆらしている水面と目盛りの境界線を見ていると、わかめいしさんが急に宙に浮きました。


「最後にわかめを入れるよ。さぁ、見ていて!」


 モアイさんの声かけで、わかめいしさんのわかめがすぽん、と数本ぬけました。

 小さな足で着地したわかめいしさんは、飛んでいくわかめを見るために、上に目が寄っていました。

 見つめられたわかめはみじん切りされたみたいに細かくなって、紙吹雪のようにお釜の米へと降り注いでいきました。


「わかめいしさんは、わかめを操ることが出来るんだ。すごいだろう!」

「すごい……!」


 みらいちゃんが拍手をすると、わかめいしさんは、そんなそんなそれほどでも、と言っているみたいに目をぐるんぐるん動かします。


「目盛りを確認してごらん」


 モアイさんにうながされて確認すると、水面と二合の目盛り線が一致していました。


「そっか。調味料やわかめを入れるから、少なめのお水でよかったんだ」

「その通り! だからわかめご飯を作るときには、水は一合半の目盛りまで入れるのが正しいんだ。同じ二合のお米を炊くとしても、水の量が違うことがあるんだよ。わかったかい?」


 みらいちゃんはちゃんとわかりました。どうやらわかめいしさんもわかったみたいです。生えているわかめで大きなまるを作っています。


 みらいちゃんも真似をして両手でまるを作りました。一緒の仕草をすると理解できたことも理解できました。


「さぁ、これで準備は全て終わった。後は炊くだけだ。スイッチを押しておいで」


 炊飯が始まる音楽と一緒に、みらいちゃんはちょっとだけ歌いました。お父さんもよくこの音をなぞっていたのを思い出しました。


「……モアイさん、どうしてお米を二合にしたの? いつもは三合炊くんだ。お父さんがいっぱい食べて、お母さんも食べて、みらいも食べると、ちょうど三合なの」

「そうだね。いつもそうだったね。でも、今は人数が違うんだ」


「ほとんど変わらないよ。みらいがいて、わかめいしさんがいて、モアイさんがいて、三人」


「いいや。わかめいしさんも僕も人ではないんだ。だからご飯は食べないんだ。けれど、近いうちにお母さんが心配して帰ってくるだろう。昨日お葬式があって、みらいが学校に行っていないとなればね。だから、二人分で二合だよ」


 日常のささいな音を丁寧になぞるように、一音一音外さないで鼻歌をうたうように、モアイさんは言葉を置きます。


「お母さん、大丈夫かな」

「そう考えてしまうのがみらいの良いところで、算数が苦手な理由だろう。今は、みらいはみらい自身のことだけを考えなくてはならない。本当はもう少し大人になってから説明しようと思っていたんだけれど、僕はいつまでここにいられるのかわからないから、今教えようね」


「どこかへ行ってしまうの?」


 みらいちゃんは反射的に、モアイさんとわかめいしさんが入っている石の体を捕まえました。けれどそれは石なのです。きっと、もっと違う部分を捕まえておかなければならないのです。


 この石の体をぎゅっとしているだけではいてもたってもいられないのです。


 わかめいしさんはひんやりしています。もよりとわかめが動くと、生きている、と感じました。たまねぎを切ったときよりも、おかあさんが指を切ってしまったときの涙が出そうになりました。


「もう少し話そう。大丈夫、今はいなくならないよ。少なくともわかめご飯が炊けるまでは何があっても側にいよう」


 その後はどうなるの、と尋ねるよりは、今を大切にしなければならないでしょう。みらいちゃんはそう思ったのです。


 だから、わかめいしさんを手に乗せて、お父さんの書斎に向かって歩き出すことに決めたのです。


 お父さんの書斎には、線からはみ出した塗り絵の色みたいな祭壇があります。

 モアイさんとそっくりなお父さんの遺影があります。

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