第2話 わかめいしさん

 その日、みらいちゃんは小学校に行きませんでした。


 友達はちゃんといました。勉強も好きでした。

 けれど、みんなには元気なお父さんがいるんだと思ったら、なぜかいつもと逆の方向へ歩きだしていたのです。


 今日は、いつも朝ごはんを作ってくれるお父さんがいませんでした。


 まっしろいごはんもまっしろい目玉焼きの白身も、まっしろい白身をきいろにしてしまう黄身のとろんも、ありませんでした。


 朝なのに、さびしい匂いがしているような気がします。

 けれど、その匂いを感じるのはみらいちゃんだけなのかもしれません。


 なぜなら、お父さんがいないのはみらいちゃんだけだからです。

 みらいちゃんの世界では、お父さんがいないのはみらいちゃんだけでした。


 小学校と逆の方向にあるき続けていると、変わった熱帯魚ショップがありました。


 変わっていると思ったのは、みらいちゃんではありません。

 みんなが、変わった熱帯魚ショップだと言うのです。その理由をみらいちゃんはしりません。


「いらっしゃいませ」


 熱帯魚ショップには、目が隠れるくらいに前髪が長いお兄さんがいました。

 まんまるの髪型は、カドがないからとっても優しそうに見えました。


「こんにちは」

「こんにちは、いらっしゃい。その三つ編みかわいいね。自分でやってるの?」


「はい。お母さんが、みつあみをほどくと髪の毛がふわふわになって、かわいくなるんだよって教えてくれたんです。わたしはみつあみってあんまりすきじゃない……んですけど……」


 みらいちゃんは、とつぜん自分のことをたくさん話してしまって、恥ずかしくなりました。

 カドがなくて優しそうな人だと思ったから、話してしまったのです。


「好きじゃないのに、その髪型にしているの?」


 店員のお兄さんは、自然に首をかしげました。


「えっと、そうです」

「じゃあどうして三つ編みにするの?」


 どうやらお兄さんは純粋に気になっているだけのようです。


 初対面だと、気にしているのはみらいちゃんだけのようです。殻から滑り落ちる生卵の黄身みたいにつるんとした質問でした。卵を下に向けて割ったら、黄身は落ちるのです。


 みらいちゃんは安心して、一杯の白ごはんに生卵を二つも三つも割るみたいに説明しました。


「わたしがみつあみするのは、みつあみ姿でいるのをちょっと我慢していると、あとでかわいくなれるからです。わたしがかわいいと、一番よろこんでくれるのはお母さんなんです。学校にいるとたまに笑われることも、あるんですけど……。でも、大切な友だちはわたしのみつあみを笑わないんです。だからちょっとだけ我慢することにしたんです。そうすれば、お家に帰ったときにお母さんを喜ばせることができるんです」


 一息にいうと、お兄さんはキョトンとします。


「うわぁ、何言ってるのかよくわからない。けど、なんかすごいこと言ってるっぽいな? キミいくつ? 小学生だよね?」


「9歳です。小学四年生です」


「一番最近のテストの点数は?」


 みらいちゃんは、どうしてそんなことを聞かれるのかわかりませんでしたが、素直に答えました。


「国語は、90点です。算数は、10点です」


「10点!?」

 お兄さんがぎょっとしたので、みらいちゃんはうつむいてしまいました。


「いや、ごめん! ちがうちがう! キミかしこそうだから、昔の俺と同じ点数とってたのにびっくりして! 算数なんかできなくても、俺ぜんぜん生きてるから大丈夫!」


 生きてる、という言葉をきいたとき、みらいちゃんの目が急に痛くなりました。


 気づいたら、ぱたぱたと水滴が、地面に向かって落ちていくのです。悲しいのですが、お兄さんの前で泣きたいわけではないのです。自分が何をしたいのか、どうして泣いているのか、もうよくわからないのです。


 五日前からこの状態が続いています。


「うわぁ! 泣かせちゃった! やべえどうしよう!」


 お兄さんは、右を見て左を見てを繰り返しました。そして、店の奥から長い柄の網を持ってきました。


 みらいちゃんの手の先から肩くらいまでの長さがあります。


「キミ、名前は?」


 網を持ったまま、お兄さんはみらいちゃんに聞きました。


「みらいです」


「へぇ、みらいちゃんか。学校行ってないの、なんか理由あるの?」


「今は、友だちに会いたくないんです」


「そうだよなぁ、わかるわかる! 俺もそうだった! 人間の友だちなんかあんまり気にしなくていいんだよ、もっと面白い生き物いっぱいいるからさ! 例えばこれ!」


 お兄さんはざぱんと鳴らして、長い柄の網を店先にあった大きな水槽に入れました。

 持ち上げられた網の中には、石が入っていました。


「見てよこれ! つい五日前から喋りはじめたんだ! 足も生えた! これはもう生き物だよ!」


 五日前は、お父さんが死んでしまった日です。


 お兄さんはみらいちゃんの手のひらに、びしょびしょの石を乗せました。

 その石はとても不思議な見た目をしていました。楕円形の少しゴツゴツした石なのですが、なぜかやわらかそうな足が生えているのです。空に向かって、海藻のようなものが伸びています。おそらくはわかめです。


 わかめが生えた石です。そうとしか表しようがないのです。みらいちゃんから見て左側に、目のようなものがあります。

 そちらを頭とした時、お尻側にはモアイ像の顔のような凹凸がありました。


 みらいちゃんは、もっと悲しくなりました。

 だって死んでしまったお父さんの顔はモアイにそっくりだったのです。

 お父さんは、芸能人よりもモアイに似ていたのです。


「泣かないで」


 そう言ったのは、お兄さんではありませんでした。


 目の前にいた、わかめいしでした。しかも、目のある側ではなくて、お尻が喋っているのです。お尻にあるお父さんにそっくりなモアイのような凹凸が喋っているのです。


「お父さん?」


 みらいちゃんは、思わず聞きました。


「いや、お父さんではないね。お父さんは自動車事故で死んでしまったからね。けど、僕はみらいの味方だよ」


 その名前の呼び方が、声が、なぜかお父さんにとてもそっくりなのです。


「じゃあ、モアイさんって呼んだほうがいいですか?」


「うん。僕に関してはそれで構わないよ。そんなにかしこまらなくて大丈夫、お父さんだと思ってくれたらいい。お父さんではないけどね」


 みらいちゃんは、そうだろうと思いました。お父さんは死んでしまったのだから、この世にいるはずがありません。

 それにお父さんは人間です。わかめいしではありません。


 でも、温かいです。石だから冷たいのですが、手のひらはそう感じているのですが、ぽかぽかです。

 モアイさんの表情が動きます。


「ちなみにね、僕は間借りしている身でね。僕もよくわからないんだけど、この石には元々意識があったらしくてね。左側の彼のことは『わかめいしさん』と呼んであげてほしい。彼っていうか、僕っていうか、体は一緒なんだけれども、わかめいしさんと僕が別の存在だってわかってくれるかい?」


 そのとき、みらいちゃんから見て左側にある目が、僕はわかめいしです、と言った気がしました。


 気がするだけで、聞こえたわけではありません。モアイさんの声は物理的に聞こえています。


 どうやらわかめいしさんは、物理的には喋れないようです。でも、意識はあるらしいです。


「やべえ! マジで意味わかんないな! あっはっは!」


 お兄さんは水槽の魚たちも驚くくらいの笑いを発してから、まんまるに切り揃えられた髪型みたいな優しい声で言いました。


「持って帰りなよ。喋る石って珍しいから、誰かに見られたら危ない」


「連れて帰っていいんですか?」


「いいよ。変な研究とかに使ってほしくないんだ。でも誰にも見せないでね。特に研究者にはね! 何かあったら俺のところに相談しに来ること」


 みらいちゃんはお兄さんに向かってぺこりと頭を下げました。

 お兄さんはにこにこしながら手を振って、家に帰ると決めたみらいちゃんを見送ってくれました。


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